173 困った時にどうするか

聖書箇所 [出エジプト記2章1ー10節]

 はじめに小咄を一つ。取税人が町外れでピストル強盗に遭い、全財産を奪われてしまいました。がっくり来た彼ですが、気を取り直して強盗にこう言いました。「私が強盗に襲われたと訴えても警察は信用してくれない。そこでせめてもの頼み。私の帽子にピストルの弾を二発打ち込んでくれないか?」。強盗は面倒臭そうにしながらも、それに応じました。「バンバン」。「できたらもっと」「バンバンバン」。帽子は穴だらけになって行きます。そうしてついに「カチッ!」。その時、取税人は待ってましたとばかりに、強盗に飛びかかり、財産を取り戻しました。(ユダヤのジューク。井上が少し変更を加えました)

 けんかの勧めではありません。どんなに困った時でも決して諦めないでくださいと言いたかっただけです。今回はほんとうに困った状況に置かれた一人の女性から対処の心構えを学びましょう。その女性とはヨケベデ。

私は主役に選ばれたと理解する

 イスラエル人は従来エジプト人からは一目も二目も置かれていました。ヨセフが総理大臣となり、富ませてくれたからです。でもそれから400年が経っていました。世代交代は進み、人々はヨセフの功績を忘れていました。国の中は外国人排斥のムードでいっぱいでした。「いったい、なんで、あんなに多くの外国人がのさばっているんだ。ここは俺たちの国だ!」。昔も今もこのように言う人たちは少なくありません。ついにはパロ(エジプト王)が、多産であるイスラエル人が産む男の子を殺せと言う命令を発します。「このような時に」(使徒7:20)ヨケベデは子を孕んだのです。彼女の気持ちはどんなに辛かったでしょう。平和な時代に生まれていれば……と考えるのは、当然ではありませんか。「このような時に」が鍵です。神は「このような時に」彼女を主役に抜てきされました。「このような時に」は改めて出エジプト記1章と使徒の働き7章をお読み下さい。

 私たちはだれでも「主役になりたい」。如何ですか、胸に手を当てて正直になってみてください。「いいえ、私は控えめで、目立ちたくない」人間です。そうかも知れません。でも主役にはなりたいのです。種類には触れないで、レベルだけで説明しましょう。主役になりたい意識の一番下のレベルは、「私を無視しないで」という思いです。「私だって生きているんだから、ほらここに現に存在しているでしょッ」という思い。目の前を知り合いが何のあいさつもなく通り過ぎたら決していい思いはしませんね。さて高レベルは、「スポットライトを舞台の上で浴びる、まさに演じる主役」。このようなタイプの人は何か企画が用意され誘われても、「私を主役にしてくれるなら、参加する」と主張します。主役になりたい意識は決して悪いものではありません。「私の目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)と神から言われる人間が自らを「高価で尊い」と考え、「それを無視しないで」と主張するのはごく普通のことです。私は私の牧会する教会で月刊誌『アーク』(24頁)を発行しています。できるだけ多くの方に顔写真入りで登場してほしいと願い、努力しています。「決してあなたの存在を軽く見てはいませんよ」というメッセージを私なりに発しているつもりです。またいくつものチャペルを建設して来ていますが、一つのチャペル(これは事実上一つの教会であり、独立採算。そして独自の役員会を持ち、原則として私はそれには参加しません)であるよりは、チャペルが複数ある方が会員の出番は多くなるはずです。たとえば大宮チャペルでは私が毎日曜日礼拝で説教していますが、他のチャペルにおいて他の多くの人に説教者という出番が提供できます。
 問題をあなたが抱える時、あなたは神さまから主役として選ばれたと理解する事です。何が私のすべきことなのかを冷静に問う事をお勧めします。神さまの期待を探ってください。ヨケベデは大きな問題を抱え込んでしまいましたが、偉大なモーセを産んだ人です。人々は口々に言います。「あー、あの人がモーセのお母さん!そうなの!」

主役は訓練される

 彼女はモーセを産む事に決めたことで一つの問題は解決できました。子どもを死なせるか、それとも生かして置くかの。でも一つの問題が解決できた途端、新しい問題が襲って来る、これが人生です。新たな問題、それは子どもを押し入れの中で育てるわけにはいかないことです。泣きます。泣き叫びます。日光浴もさせなければなりません。母親としての悩みは大きいのです。これは試練でした。でも訓練でした。
 剣道の先生が弟子に言いました。「上の段を取りなさい」。上の段を持てば、それにふさわしくなろうと、人は務めるからです。良い意味でのプレッシャーです。洗礼を受ければ、公にクリスチャンになったのですから、クリスチャンとしての意識を持つに違いありません。「世の光、地の塩」の意識が生まれるに違いありません。神さまは問題で困っている人を祝福されます。祝福とは悲しみの間、主を信じ主に期待したことへの報酬です。モーセは日々成長しています。なんという緊張感のある毎日であったでしょう。一瞬一瞬が彼女を成長させました。大きくして行きました。やがてはこの苦労をお母さん自身や周囲の人々から知ったモーセは自らがリーダーになって行こうとする時に役立てたでしょう。無駄なことは何一つありません。試練や難しい問題に揉まれて私たちは育てられます。
 ユダヤ人と言えばキラ星のごとく偉人を輩出していますが、たとえば物理学者アインシュタイン、心理学者フロイト、社会思想家マルクス、その他数えきれないくらい。そんな彼らがどんな運命を辿って来たかは、『屋根の上のヴァイオリン弾き』で分かります。日本でも森繁久弥がロングランをしました。苦難の歴史です。では絶えまなく続く苦難に彼らはどのように立ち向かったのでしょうか。それは常に希望を持ち続けること。エジプトにおいて苦難の間も「脱出できる、私たちは神さまから愛されている、特別に選ばれた民だ!救い主は来る!」という意識です。未来に希望を持っている者たちには失望はありません。これは個人にも言えます。ナチスの強制収容所を生き延びたフランクルはこう言います。「自分の人生に意味を見い出すことが生きる最大の力になる」。ユダヤのことわざにはこのようなものがあります。「問題があることは良い事だ」。あなたが訓練されるには理由があります。あなたが訓練された暁には大きな祝福があなたを待っています。訓練は種蒔きです。刈り取った実を楽しむ権利は蒔いた者にあります。こういう言い方もあります。井戸を掘った者にこそ、水を飲む権利がある。

神は生きて働く

 2章1ー10節をお読みになると、きっと驚かれるでしょう。ここに書いてあることは事実です。神話ではありません。事実は小説よりも奇なりとはよく言ったものです。ちなみにモーセのお姉さんミリアムはマリアのヘブル語表記、モーセは「救い出す」の意味で救い主イエスを予表しています。確かに、神は生きて働く、ことが証明されています。あなたはこのことを信じますか?あなたの日常生活において、神は生きて働いていますか?次の文章に私は感銘を受けました。

 アメリカの歴史に最もケチな人として名を残したヘッテイ・グリーンが一九一六年に息を引き取った時、その資産は三百六十億円(今日の一兆円?)にも上りました。彼女は冷たいオートミールを朝食に食べるのが習慣でしたが、それは温めるための光熱費を借しんだからでした。息子は片足を切断しましたが、その理由は、彼女が無料診療所を探している間に手遅れになったからでした。まれに見る資産家でしたが、貧乏人同様に生活することを選ぴ、安物の粉ミルクを常用することで白分の死を早めたのです。彼女の生き方がどんなに愚かしいか、説得できた人はいませんでした。何かがおかしい キリスト教の最大の論敵となったドイツの哲学者フレデリック・ニーチェは、「クリスチャンはもう少し購われたように見えてもよいのでないか」と言いました。トキッとしませんか。私は、「死んた者が復活するはずがないではないか」などという反論には困らないのですが、彼のこの言葉には参ってしまいます。二ーチェはキリスト者をばかにしたのではなく、真剣に質問したのです、この質問に、私たちも真剣に取り組まなけれぱなりません。牧帥の息子として聖書に精通していた彼は、「看板に偽りあり」ではないのか、とチャレンジしているのです。「救われた」と言う割には苦しそう、「赦された」と言っていっているが罪悪感がある、「解放された」と言っていながら拘束されている、と言うのです。言葉ではキリスト教の教理を主張するけれど、実際の生活ではそれらの主張と反対ではないか、と言うのです。このような質問に対して、言葉で答えるのは愚かです。(『恵みの雨2001.1』)

 真に解放された生活をしているなら、毎日が感謝の気持ちで溢れているはずです。なぜ?神が生きて働いておられるから。もし私たちがすなおな気持ちで神さまを見上げるなら、幼子のような気持ちですべてを見るなら、確かに働く神さまを見ることができるでしょう。

未来を明るく描く

 ヨケベデは妊娠してしまったのです。これはもう事実であり、すでに一つの過去の出来事です。彼女のすばらしさの一つはその未来思考です。未来は神さまとともにあります。過去は変えようがありません。でも未来はいくらでも変更可能です、全能の神さまにあって。ゆえに全能の神さまを信じる私はいつも楽観的です。すべては良い結果へと導かれると単純に信じています。私たちが信じる神さまは愛と善意と誠実の神さまです。あなたに良くしてくださらないわけがありません。あなたは信じますか。さて一つの質問があります。人間にとって一番解決が困難な問題って何でしょうか。それは罪。正確に言えば、解決不可能です。私たちは憎み、妬み、悪口を言い、噂をふりまきます。後悔先に立たず。悔やんでもその事実は消し去ることができません。解決法はただ一つ。赦されるのみ。でも条件があります。だれかが代わりに罰を受けてくれなければなりません。お咎めなしではこの世界に正義はありません。そこで愛の神さまは代わりに罰を受ける者を自ら用意してくださいました。御子イエスです。十字架の上で懲罰は開始されました。ここに神さまのあなたへの愛があります。高価なあなたがあなたの人生の主役であるために、神さまはあなたがまず生きるようにしてくださいました。そういう意味でイエスさまはあなたがあなたの人生という舞台で生きる、しかも主役をはれるための引き立て役となってくださいました。私たちは互いに謙虚であるべきです。あなたが主役であるとき、あなたの周囲の人々はあなたを引き立てる引き立て役、でも逆の場合もあります。それぞれがかけがえのない人生です。このようなことを経験できるには謙虚な心が必要です。それは「神さまは私をほんとうに愛してくださっているんだ」という思い。

 ヴァレー神父とHさんとの出会いは感動的です。泥酔しながらゴムひもを売り付けるHさんをやさしく受け入れます。教会員は神父を心配して注意をするのですが、神父は愛を貫こうとします。ついにそれが理解されます。神父の一言は珠玉の一言になります。「もう酒をやめようね」。生まれ変わったHさんは礼拝の一時間も前に鐘を鳴らしに教会にやって来るのです。顔に満面の笑みを浮かべながら。(『おむすびの祈り』佐藤初女)イエスさまの愛に触れる者には未来があります。



参考

■ヨケベデ (〈ヘ〉yokebed) 「主は栄光」という意味.レビ族出身.アムラムの妻.アロン,モーセ,ミリヤムの母.レビの第2子ケハテの妹(出6:20,民26:59).

■モーセ (〈ヘ〉〈ア〉moseh,〈ギ〉Mouses) イスラエルの民をエジプトから導き出した指導者であり,預言者であり,律法授与者である.その生涯は,40年ごとの3期に分けられる.以下その生涯をおもな出来事との関連で考察する.

1.誕生とエジプトでの40年. 2.ミデヤンでの40年. 3.出エジプトと荒野での40年.
4.シナイ契約.5.モアブ契約.6.モーセ五書.7.新約聖書その他におけるモーセ.

1.誕生とエジプトでの40年.

 モーセの生涯に関する資料は旧約聖書が主であり,出エジプト記,レビ記,民数記,申命記に大部分が記されている.モーセはエジプトで,レビ人の両親アムラムとヨケベデの間に生れた(出2:1,6:20).ヨケベデはアムラムのおばに当った.モーセには,3歳年上の兄アロン(出7:7)と,アロンの姉ミリヤムがいた.モーセが生れた時は,ヨセフのことを知らないパロが統治していた時で,しかもヘブル人の男の子が生れたら,ナイル川に投げ込んで殺せという命令が出されていた.しかしモーセの両親はこの命令に従わず,彼を隠しておいたが,3か月後ついにパピルス製のかご(ノアの箱舟と同じ語が用いられている)に入れ,ナイル川の葦の茂みの中に置いた.そこでパロの娘に拾い上げられ,実の母を乳母として育てられた(出2:2‐9).その後,パロの娘の子として,40年間宮廷で生活するが,パロの娘は,「水の中から,私がこの子を引き出した」と言ってモーセと名づけた(出2:10).前15世紀のエジプトの文書中には,「子供」「生れる」を意味する「モセ」ということばが人の名として用いられている(プタモセ,ハルモセ,トトモセ等)ことから,本来は「……モセ」(〜の子)というエジプト名であったのが,ヘブル語との語呂合せと,水の中から救われ,しかも神の民イスラエルをエジプトの奴隷の地から,また葦の海(紅海)の水の中から引き出すという大事業を行った人物の名として,ヘブル語マーシャー「引き出す」に結びつけて「引き出す者」という名となったと思われる.なぜなら,パロの娘が最初からヘブル語で名前をつけたというのは考えにくいからである.このパロの娘がだれであったかということは,出エジプトの年代を論じる時に取り上げられるが,早期説をとれば,トゥトメス2世の娘でハトシェプスト女王ということになり,後期説をとれば,パロの側室の一人ということになる.モーセの少年時代のことはユダヤの歴史家ヨセフォスの『ユダヤ古代誌』にも伝えられている(2:10:6).新約聖書の使7:22に「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ,ことばにもわざにも力がありました」と記されている通り,彼は当時の最高の教育を受け,読み書き計算はもちろん,天文学,地学,戦術等にも通じていたに違いない.しかも,自分がヘブル人であることを自覚し,奴隷の状態にある同胞のために心を痛めていた.しかし,まだ時が満ちず,モーセはミデヤンの地に逃れて,そこでさらに40年を過すことになる(出2:15).

2.ミデヤンでの40年.

 モーセはミデヤンの地に逃れた時40歳くらいだったという記事は,使7:23のステパノの説教中に記されている.出7:7には,モーセが再びエジプトに戻りパロの前に立った時は80歳であったとあり,使7:30には,ミデヤンに行って40年たった時,主の啓示が柴の燃える炎の中からあったとも記されている.ミデヤンの地でモーセは祭司イテロの娘チッポラと結婚し,ゲルショムとエリエゼルという子供を与えられた(出2:21‐22,18:1‐4).彼は羊の番をしながら将来の働きへの備えをした.妻の父イテロはレウエル(出2:18,民10:29)とも呼ばれている.妻チッポラはクシュ人の女(民12:1)と呼ばれているが,それはハバ3:7に出てくるクシャンのことで,ミデヤンと同義と思われる.なお,モーセの義兄弟と訳されているホバブ(士4:11.参照民10:29)はケニ人(・サム15:6)の先祖となった(士1:16).ミデヤンでの40年の終りに,モーセはホレブの地のシナイ山のふもとで神からの特別啓示を受けた(出3章).神はその時,柴の燃える炎の中からモーセに語られ,イスラエルの民をエジプトから導き出すよう指示されたが,モーセは,繰り返しそれを辞退しようとした.それに対し,神は約束と共に,特に,御自身の呼び名である聖なる4文字「主」の持つ固有の意味を説明された(出3:13‐14).この点は,出6:3とも深いかかわりを持っており,正しく理解する必要がある.「主」という呼び名は,創世記の中ですでに用いられており,決して初めて示された呼び名ではない.「主」ということばの由来に関しては確かではないが,モーセに対して神は,「主」という呼び名の意味を明らかに示されたのである.それは,ヘブル語の動詞ハーヤーを用いた説明で,出3:12の「わたしはともにいる」という表現をそのまま2回繰り返した形であり「『わたしはある.』という者である」(出3:14)と訳されている.出6:3に「わたしは,アブラハム,イサク,ヤコブに,全能の神として現われたが,主という名では,わたしを彼らに知らせなかった」とあるのも,「主」という名の意味が今や明らかにされる時がきたことを示している.すなわち,「主」という呼び名には,「契約を守り成就する」という意味があることが明らかにされたのである.ヘブル語の未完了形には進展的継続を表す機能があると言われるが(ゲゼニウス),「わたしはある」とは,「不変」「共存」「遂行」という意味で,約束に忠実であり,約束を与えた相手と共におり,その約束を成就するということを意味している.族長たちに,全能の神(〈ヘ〉エール・シャッダイ)として約束を与えた神が(創17:1,28:3,35:11),「わたしは主である」という名乗りに約束遂行の意味を込めてモーセに現れ,モーセを励まされたのである(出6:2,6‐8).

3.出エジプトと荒野での40年.

 イスラエル人がエジプトを出ることを求めたモーセに対し,パロは労働力を失うことを理由に拒絶した.このパロがだれであったかは確かでない.早期説によれば,出エジプトは前1447年,アメンホテプ2世の時に起った.前1720年頃から,人種的にイスラエル人と近いヒクソスと呼ばれた人々がエジプトを支配し,その支配は約150年間続いた.この時に,ヨセフを中心にイスラエル人がエジプトに移り住んだ.そして前1570年頃から「ヨセフのことを知らないパロ」が第18王朝を創設し,イスラエル人に対する圧迫が始まり,特にトゥトメス3世(前1479―1447年)の時に激しい圧迫がなされた.この説の根拠として次のことがあげられる.(1)ヒクソス支配の終りと新しい王朝の始まりという大変化.(2)トゥトメス1世の娘ハトシェプストが一時女王として治めたことと,兄弟トゥトメス3世と仲が悪かったこと.(3)・列6:1に「イスラエル人がエジプトの地を出てから480年目,ソロモンがイスラエルの王となってから4年目のジブの月,すなわち第2の月に,ソロモンは主の家の建設に取りかかった」と記されており,ソロモンの死が前931年とすると,治世の第4年とは前967年か968年になり,したがってそれより480年前は前1447年となる.(4)士11:26で,エフタがアモン人の王に伝言したことばとして,イスラエル人は当時300年間もその地に住んでいると言っているが,エフタの年代をソロモンより180年くらい前と考えれば,(3)と同じ年数が出てくる.(5)トゥトメス3世の息子で後継者のアメンホテプ2世は,他に類を見ない力持ちで,同時に暴虐を好む王であった(彼のものとされる強弓が,カイロ博物館に収められている).(6)アメンホテプ2世の長男は早死にで王位を継がなかった.(7)前1220年頃のパロであるメルネプタの戦勝碑に「イスラエルは跡形もなくなった」とあるが,その頃までにはイスラエル人がパレスチナに定着していたものと思われる.次に,後期説によれば,出エジプトは,前1275年頃ラメセス2世の時に起った.その根拠は考古学的な成果によるものである.(1)出1:11にイスラエル人が「パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた」とある.これはラメセス2世が,ヒクソス時代の首都アバリスを再建して,ピ・ラメッセと改称したことと,イスラエル人が居住していたゴシェンの地のワデB・アトゥムにあるテル・エル・マスクタが,ペル・アトゥム,すなわちピトムであったらしいということと劫・vする.(2)N・グリュックによるヨルダン東岸の発掘の結果,早期説による年代の頃には,モアブ,エドム地方に住居跡がなかったことになる.(3)ヨシ17:16,18によれば,カナン侵入当時,カナン人は鉄の器,鉄の戦車を持っていた,とあるが,鉄器時代の始まりを前1200年頃とすれば,早期説の年代では早すぎる.(4)ラメセス2世のパレスチナ遠征の記録中にイスラエル人のことが記されていない.以上,早期説も後期説も,それぞれもっともな点があるが,同時に,反論も可能であり,考古学的な成果も決定的なものではないので,どちらが正しいとも言えない.

 さて,パロとエジプト人に対する10の災害(血,かえる,ぶよ,あぶ,疫病,腫物,雹,いなご,やみ,初子の死)(出7‐11章)の末,ようやくパロの心もイスラエル人の心も,出エジプトへと向かうことになった.過越の儀式を通して,イスラエル人は主のさばきと守りを体験し,子羊の血による贖いを知った(出12‐13章).イスラエル人はアビブの月の15日にエジプトを出発した(出12:51,13:18).しかし,パロはすぐに心を変えて,イスラエル人の後を追った.前には海,後ろにはエジプトの軍隊,間にあるのは雲の柱,今や救いは主のみにあるという状態であった(出14:10).葦の海(紅海)の位置は不明であるが,今日のスエズ運河の南端にある苦湖の北側であっただろうというのが一般の見解である.ここでの出来事は,出エジプトにおける神の力強く不思議なみわざとして後代に至るまで覚えられたのである(出15:1‐18,申6:20‐25,26:5‐11,詩106:9).葦の海を渡ることによって,救出の第1段階は終り,以後40年間にわたるシナイの荒野での生活が,カナンへの準備また訓練の期間として始まったのである.

4.シナイ契約.

 荒野の旅においてモーセが果した役割は,第1に,民をシナイ山に導くことであり,第2に,モアブの野に導くことであったと言える.しかも,当初の目的は,シナイ山への旅にあった.途中,うずらとマナが天から与えられ(出16章),第3の月にシナイの荒野に着いた(出19:1).そこで民は,神からの契約のことばを聞き(出20章),主との契約関係を結ぶことによって,新しい国民,祭司の国としての出発を始めることになる(出19:5‐6,24:7).ところで,モーセを通して与えられた神とイスラエルの間の契約の形式が,前14―13世紀の近東諸国に見られる「宗主権条約」「大王の契約」と類似していると言われ,シナイ契約,モアブ契約を,その形式に当てはめる試みがなされている.もしこれが正しいとすれば,モーセは当時の支配国と被支配国との間の契約関係を用いて,神とイスラエルの関係を表したことになる.…… 荒野の放浪も終ろうとする頃,モーセはヨルダンの東側モアブの地で,新しい世代の者たちに対して,神との契約を更新した(申1:3,5).ミリヤムとアロンはすでに死に(民20:1,29),モーセもヨルダンを渡ることは許されていなかった(申3:27).しかし,モーセの後継者ヨシュア(民27:18‐23)によって,新しい世代は約束の地に入ることができるのである(申1:8).新しい世代が希望を持って乳と蜜の流れる約束の地に入り,そこで神の民としての生活を異教のただ中で正しく守ることができるように,モーセは,民衆のための教えと,神の約束を分りやすく解説している.それが申命記であり,それは1‐4章,5‐28章,29‐30章の3つの部分から成っている.これは同時に,神と新しい世代との間の契約であった(申29:1).120歳になったモーセは民を教え,祝福した後,ピスガの頂から約束の地を眺め,主の命令によって,モアブの地で死んだ(申34:1‐7).

5.モアブ契約.(省略)

6.モーセ五書.

 旧約聖書の最初の5つの書である創世記,出エジプト記,レビ記,民数記,申命記は,モーセによって記録され,編集されたものが基礎となっている.モーセ時代以前から文字は用いられていたし,記録する皮紙,粘土板も広く用いられていたから,モーセは既存の資料(創世記中の物語群,系図等)や,旅行中の日誌,記録等を十分に用いることができた.また,エジプトで受けた広い学問の成果を応用することもできた.創世記は,天地創造を含めて,特にイスラエルの選びが中心であり,出エジプト記は,エジプトの奴隷状態からの救出が主題となっている.そして,レビ記は神の民の聖別,民数記は約束の地への行進,申命記は新しい世代への指針がテーマとなっており,モーセの指導者としての一貫した意図を見ることができる.まさに,モーセの五書であり,「律法はモーセを通して与えられた」(ヨハ1:17)のである.

7.新約聖書その他におけるモーセ.

 新約聖書中では,モーセは他のだれよりも多く引用されている.そして,イエス・キリストの職務との比較で,モーセは律法授与者,救出者であり,キリストはその律法の完成者,罪からの真の救い主であると言われている(マタ8:4,17:1‐8,マコ7:10,9:2‐8,10:2‐9,・コリ3:6‐18).モーセは,キリストによる新しい契約の備えであり予表である(ヘブ9章).モーセは忠実なしもべであったが,キリストは神の子である(ヘブ3:1‐6).モーセによる出エジプトの出来事は,キリストの十字架と復活による贖いの予表である.イスラム教においても,モーセの人格と業績は重要な位置を占めており,モーセはマホメットの到来を預言したと言う.またコーランには,モーセとそのしもべが世界の果てまで旅行したということも記されている.(『新聖書辞典』いのちのことば社)