174 平安と強さはどこから

聖書箇所 [出エジプト記32章]

 神さまは良い方です。とっても良い方です。だからいつもあなたに良いものをくださいます。たとえば平安。いいですねえ。心に平安があれば、何かに取り組む時でも迫力があります。つまり強さがありますね。この二つは同時に存在します。反対に不安があると、つまり自信がないと、と言い換えてもいいのですが、「大丈夫かなあー……?」なんて思っていると、案の定失敗なんてこと、ありません?大事なものを失わせる、それが不安という困った輩です。イスラエル人たちは山に上ったっきり、一向に姿を現わさないモーセにしびれを切らして金の子牛という偶像を作ってしまいました。これは私たちの人生でもっとも大事な神さまを捨てることを意味しています。なんということをしたのでしょうか。このようなことになったのは人間の持つ弱さに起因しているということもできます。平安と強さはどのようにしたら得られるのかを考えましょう。
 
神を見る

 神を見るあなたには何が起きるでしょうか。あなたの中に神の愛がどんどん注入されます。心は暖かくなり、少しずつかも知れませんが、確かにうれしくなって来るはずです。こうしてあなたの中に平安が生じます。心って胃袋のようです。空っぽだといらいら。けんかをしやすい時間帯というのがあります。午前11時頃、そして午後5時頃。食事前、空腹な時ですね。こういう時間には難しい話はしない方がいいですよ。大切な話は食後です。きっとあなたの意見に賛成してくれますよ。食事前にはいらいらしているのが人間の常。胃袋が空っぽだから。心の中も平安がなかったら、がらんどうだったら、前進する力もないに違いない。32章1ー4節を読んで下さい。人々はテストされています。

 民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。

 空腹をいやすために人間は何かを胃袋に入れるものです。ここでは金の子牛。なんとなさけないイスラエル人たち。さらに弟であるけれどもトップレーダーであるモーセに叱られたアロンは見苦しい弁明をしています。

 アロンは言った。「わが主よ。どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、民の悪いのを知っているでしょう。彼らは私に言いました。『私たちに先立って行く神を、造ってくれ。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。』それで、私は彼らに、『だれでも、金を持っている者は私のために、それを取りはずせ。』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」(22-24)

 今、流行りの表現ではこうでしょうか。「みんなから頼まれた」、あるいは「秘書がやった」。アロンは人を見ています。人ってどれほど信用できるものなのでしょうか。
 バ−ガ−博士がマンハッタンのアパートで死んでいるのが発見されました。40才でした。なぜニュースになったのかと言いますと、彼は有名な新聞のダイエットコラムニストであったから。著書には『あなたに免疫がつく食事法』というベストセラーがあり、この中では、ゆでたブロッコリーを毎日食べていればたいていの病気は予防できると主張していました。『永遠に若く』という本では100才迄生きられるとも書きました。
 ジョン・フィックスは日本でも有名になりました。ジョギングの神さまなどと崇められ、一大ジョギングブームを引き起こしました。毎日走れば寿命は伸びるなどと言っていましたが、ジョギング中に52才で亡くなりました。悪意はないのですが、人間の頭脳や能力の限界です。人間のことばではなく、神のことばに注目しましょう。そうすれば神が見えます。盲聾唖の三重苦で有名なヘレン・ケラ−。家庭教師のサリバンが出会った時、野獣のごときと言われています。なぜ?ことばは内にある思いを表現する大切な手段ですが、これが原因。もしことばが使えないとすると人間は長くは生きられません。せいぜい犬と同じくらいの寿命です。ストレスが貯まり、生きることができません。彼女の中のストレスは極限に達していました。サリバンはへレンの手の平に文字を書いては実物に触らせ、こうしてことばを教えて行きました。やがてハーバード大学に進みました。サリバンはことばがこの子の目になると考えたのでした。ヘレン・ケラ−の著書に『私の宗教』がありますが、彼女の一番の愛読書は聖書であると書いています。そして聖書の中でも詩篇、その中でも23篇。「主は私の羊飼い。私には乏しいことはありません」。彼女は神のことばを通して神を見ていたのです。そして平安をいつも得、それが彼女の強さの源でありました。

与える

 与えるあなたには何が起きるでしょうか。与えるあなたは神のようになれます。亀のようではなく、神にでもありません。神のご性質を身につけると言いたいのです。
 アルバート・シュバイツアーはすでに音楽家としても神学者としても有名になっていましたが、30才の誕生日に画家が彼の肖像画を描いていました。その間、彼の心の中にある思いは貧困と病に悩むアフリカの人々のことだけでした。「先生、できました」と声をかけられたシュバイツアーは「今、ここにいるシュバイツアーはもう明日にはいない。今日が最後だ。これから新しいシュバイツアーとして生きる」。ここに『アフリカの聖者』の具体的な一歩が記されました。その業績のすばらしさをあなたはご存じでしょう。与える者の美しさと与えることのすばらしさ。与えると、与えられるという経験もします。こういうことわざがあります。 

 「牛乳を配達してもらう人よりも、配達する人の方が健康になる」

 あるマッサージ師がこう言いました。「マッサージを受ける人より、マッサージをする私の方が健康になる」。実は先週、私は生まれて初めてマッサージを受けました。開店したばかりで割り引きがあったからです。先のことばを思い出し、「私が料金を払うのではなく、払ってもらってもいいなあ」なんて考えていました。もちろん冗談です。神のようになれる、と書きましたが、二つの面があります。一つは聖さ。やましさがあると私たちは何かをする時に迫力がないのではないでしょうか。返ってそのやましさを隠そうとして吠える、のでは。それが次の節で表現されています。

 彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。……アロンは……祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」そこで、翌日、……民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。(4-6)

 日本でも同様ですが、偶像の祭壇の周囲に何があるか。それは遊廓。みだらなことを人々はいたのです。心の中のやましさを隠すために人はこういう騒ぎを起こすものです。犬が吠えるのは恐いから、それと同じです。逆に平安があれば、やましさはない、すなわち聖さがある、と言えます。そして強さも。モーセは今や抜群の強さを発揮します。なんと神を動かした!

 すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。(14)

 モーセの聖く、強い訴えに神は耳を傾けざるを得ませんでした。神を動かす、これ以上の強さがこの世にあるでしょうか。ちなみにマザーテレサがこういうことを教えています。
 夜寝る前に、こう自分に問いかけるとよいのです。「今日私は、イエスさまに何をしただろうか。今日私は、イエスさまのために何をしただろうか。今日私は、イエスさまといっしょに何をしただろうか」そして自分の両手を見てください。これが、自分の良心に問いかける最善の方法です。(『クレイ』2002.4)
 では、与える者になるためには、私たちはどうすべきでしょうか。それは小さく与えること。私はK-1という格闘技に関心を持っています。理由は彼らの戦う姿にプロフェッショナリズムを見るから。真剣勝負です。勝った者もおごらず、健闘を讃えあって、両者抱き合って別れます。さらにトレーニングを積んで再び最高のコンディションで戦うことを誓う。ある日の番組で何回もチャンピオンになったことのあるピーター・アーツが弟子に教えている場面を映していました。「何を教えたのですか?」と聞かれた彼は「小さなことを教えました」と答えていました。私はこの答えに感動しました。これがプロフェッショナリズムだ!大きく祝福される秘密だ!と。

 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。(マタイ25:23)
 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。(ルカ16:10)

 小さな親切が、小さな気配りがやがてはあなたを大きく与える者へ、いよいよ神のような人へと変身させます。神のような人はいつも平安と強さを身につけていて、何ごとにも確信とともに取り組み、成功をさせて行きます。
 
柔軟に考える

 すると何が起きるでしょうか。あなたの夢は実現します。アルバート・シュバイツアーはアフリカに行く希望を持ちましたが、当時彼は求められていた技術を持つ者、すなわち医者ではありませんでした。しかし、彼は朝大学で講議をした後、午後からは医学の勉強に励みこの壁を超えました。こういう彼の前に大きく立ちはだかったもう一つの壁がありました。ヨーロッパで戦争が起きフランスに帰らなければなりませんでした。でもその間、アフリカのことを話したり、オルガンコンサートを開いたりして、資金を集めるチャンスとしました。やがてアフリカに戻ったのですが、以前の施設はまったくみじめな状態になっていました。彼の前にはいつも大きな問題があったのですが、どんな場合も祈り、考え、前向きに取り組みました。ある人たちは「これを失敗したら、私の人生は終わりだーーッ!」と思い込んでいます。ほんとうにそんなことってあるのでしょうか。
 私はクリスチャンになってからまもなく、「一教会一牧師一会堂」という伝統的な考えに疑問を持ち始めました。そうして、なぜいままで教会はこのやり方で満足して来たのだろうかと問い始めました。やがて神さまから私は答えをいただきましたが、私たちは、一時が万事、今(まで)は最善でも次回は最善ではないかも知れないという心の柔軟性が大切ではないでしょうか。私たちは、しかし、失敗が恐いのです。でも罪のみならず、イエスさまは十字架の上であなたの失敗をもあがなってくださったはずです。十字架を信じるのがクリスチャンではありません。十字架と復活を信じるのがクリスチャンです。違いはどこにありますか。過去にこだわらないのが後者です。あなたは過去に縛られてはいませんか。「あのことを、私は決して忘れない!」「私はあの人を決して赦さない!」なんて、生き方をしていませんか。いずれも過去に牛耳られていますよ。あなたの心は自由でありませんね。私はタイに行ったことがありますが、タイにはたくさんの象がいます。子象の足にしっかりと杭につないだ鎖を結んでおくと、いくら暴れても逃げることはできません。まもなくこれを学習して、静かになります。やがて大人に成りますが、以前の記憶が残り、軽く縛っておくだけで象は決して逃げません。過去に縛られています。過去に縛られると、もはや柔軟性はありません。あきらめがあるだけです。でも生きている人間ならたとえ小さくとも希望や夢を抱くはずです。それがかなえられないと自分自身で決めつけているのも寂しい人生ではありませんか。もっと柔軟に考えても良いのでは。
 精神科医の工藤信夫先生が、学生たちに『生の冒険』(ポール・トウルニエ)を読む課題を課し、受取ったレポ−トに感動したと書いておられました。そのレポートの内容を紹介しましょう。

 このような背景で聖書を読むと聖書の物語が様々な冒険で彩られており、登場人物たちの人生もまた鮮やかな冒険に満ちているのかがわかる。(中略)この神が同じように私にも「生きよ、冒険せよ!」と声をかけてくださる。それで「聖なる働き」に参加する思いをもって、私でも「神とともなる人生という冒険」にあずからせていただけるとは、これまで考えたこともなかった視点であり、名誉なことであり、改めて「私の神」を誇りに思う(『いのちのことば』2002.5)

 私も感動しました。
 神ご自身、とても柔軟なお方です。32章14節はそれを証明しています。あなたが神の子であるなら、失敗を恐れず、過去に捕われずに新しいことに取り組むことをお勧めします。もし失敗しても、もう一度試みてはいかがでしょうか。またあなたはなぜ祈るのですか。あなたの情熱に応えて考え直してくださるからではないのですか。神はあなたを愛してくださっています。必ずやあなたの夢を実現させてくださるでしょう。柔軟な心を持てばどんなことにも可能性はあります。そしてそれを知ることがあなたの中で平安となり、強さとなります。最後に一つのことを話して終りましょう。
 アメリカにロバート・シュラー牧師が説教する『力の時間』というテレビ番組があります。ある時、イスラエル原産のオリーブの苗木をプレゼントしますと彼が発表しました。さっそく応募者に発送しましたが、二週間くらいしてから次々に苦情が寄せられました。枯れていると言うのです。彼はがっかりしました。それからしばらくして視聴者から一通の手紙が届きました。

 「私はオリーブの苗木をいただいた者です。愉しみにしていたのですが、届いた時にはすでに枯れていました。がっかりしましたが、それでも捨てることが出来ませんでした。私は毎日毎日水をやりました。するとなんと数日経って緑の葉がついているではありませんか。枯れたと思ったオリーブの木が再び命を得たのです。その瞬間私は自分のことを思い出しました。かつて死んだような私の人生もイエスさまによって新しくされたことを。私はこのオリーブの木を見るたびに主を賛美しています」