175 砕かれる恵み

聖書箇所 [箴言3章6節]

 イエスさまがマリア・マルタ・ラザロ兄弟の家で食事をなさっていたときに、マリアは非常に高価なナルドの香油を使い、自分の髪の毛でイエスさまの足をぬぐいました(マルコ14:3-5)。壷が砕かれたとき、家の中は香油の香りで満たされたはずです。私たちが砕かれるとき、キリストの香りが周囲に漂い、人々はもちろん、私たちも祝福されます。では私たちはいつどこで砕かれるのでしょうか。今回のみことばはこうです。

 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

 主はどこにでもいらっしゃるので、あなたが砕かれたいと願うとき願うところで、つまりいつでも砕かれます。しかし今回は三つのケースを学びましょう。

 試練

 私たちの人生には苦しいことってありますね。どうして?いったい、いつまで?などなどの葛藤があなたの心を駆け巡ることがありますね。旧約聖書から試練に悩んだ人を一人取り上げ、考えてみましょう。彼女の名前はエステル*2。時は紀元前5世紀。ペルシア王に嫁いだ彼女は養父であるモルデカイからユダヤ人絶滅計画を根拠に王に執りなすようにリクエストします。これは彼女にとっては大きな決断になるはずです。たとえ妃と言えども「おうさまーッ!」って気楽に顔を出すわけにはいきません。もしそんなことをしたら、死刑が待っています。モルデカイ*1とエステルのことばの中に、エステルの葛藤を読み取ることができます。

 モルデカイはまた、ユダヤ人を滅ぼすためにシュシャンで発布された法令の文書の写しをハタクに渡し、それをエステルに見せて、事情を知らせてくれと言い、また、彼女が王のところに行って、自分の民族のために王にあわれみを求めるように彼女に言いつけてくれと頼んだ。ハタクは帰って来て、モルデカイの伝言をエステルに伝えた。するとエステルはハタクに命じて、モルデカイにこう伝えさせた。「王の家臣も、王の諸州の民族もみな、男でも女でも、だれでも、召されないで内庭にはいり、王のところに行く者は死刑に処せられるという一つの法令があることを知っております。しかし、王がその者に金の笏を差し伸ばせば、その者は生きます。でも、私はこの三十日間、まだ、王のところへ行くようにと召されていません。」彼がエステルのことばをモルデカイに伝えると、モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」エステルはモルデカイに返事を送って言った。「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」そこで、モルデカイは出て行って、エステルが彼に命じたとおりにした。(4:8-17)

 エステルは賢明でした。自らの弱さを知り、自分が正しい決断をすることができるように断食の祈りという応援を依頼しました。でも彼女にとって苦しいことであることには違いはありません。しかし、試練はエステルを聖めました。神さまは聖い者を祝福されます。結論を言えば、ユダヤ人たちはエステルの活躍により救われ、エステルは迫害者ハマンの財産を得ることを許され、モルデカイは総理大臣に任命されました(10:3)。心の聖い人こそ沢山のお金と大きな権力を持つべきです。神さまは聖い人を用いて多くの人々にご自身の祝福を分かつでしょう。これが第一のキリストの香りです。人々はその祝福を配る人を見て豊かなほほえみを返します。その人とはあなたです。どうか試練は神さまの愛の御手の中で起きていると信じてください。試練などにより聖められた人こそが今の時代、求められています。先日ヒトラーについてのドキュメンタリー番組を見ました。はじめに暴力で国を支配しようとしましたが、果たせず、次に選挙で合法的に権力を得ることを画策し、ついに権力を握った彼がしたことは世界のだれもが知っています。聖められていない、不純な動機でなされることは人々を不幸にします。幸福というキリストの香りは聖められた人から漂い出すのです。聖められたあなたが他者のために金銭を、力を、賜物を使うとき、人々は生きている神さまに気づき、心開き、幸福を手にします。人々はあなたの周囲にはいつも幸福があると言って感謝するでしょう。

 みことば

 みことばが個人的に受取られるとき、私たちはわくわくさせられます。心踊り、平安と希望に満たされ、人生に肯定的な確信を持ちます。新しいあなたがそこに生まれます。さて旧約聖書にダビデ*3が登場します。彼は有名なバテシバ事件を起こし、預言者ナタンが彼に注意を喚起します。でもダビデの心にはそのメッセージが届きません。預言者ですから、そのことばは神のことばです。でも何も彼は感じていません、少なくともはじめは。彼はきっとこう考えていたのです。「不倫など、だれでもやっていることだ!」「不倫だなんて言うことすらおかしなことだ!」と。確かに当時いわゆるお偉いさんたちはこのようなことをごく普通にしていたのです。非常識な世界にいて非常識なことをしても、行為者は決して非常識なことをしているとは理解できないものです。でも聖霊さまが働かれました。その証拠に彼は怯えました。

 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。(詩篇51:10-11)

 聖霊が失われればいのちはありません。彼は深ーい苦しみを経験します。その苦しみの末、と言うよりも苦しみの深さが赦されたことの喜びを一層引き立たせます。

 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ(32:1-5)

 みことばがあなたの心の深い部分に触れるとき、あなたは全く新しくされます。ただしこれは自由意志が健全に働くことが前提で起きることです。ここで少し説明が必要でしょう。私たちは互いに人を尊敬すべきです。それは人格を尊重することを意味しています。人格を尊重するとは自由意志を尊重することです。自由意志がないものをロボットと言います。自由意志を無視したら人をロボット扱いしていると同じです。聖霊さまはご人格を持つお方ですから、人格を持つあなたを、したがってあなたの自由意志を尊重してくださいます。強制はなさいません。みことばを受け入れるかどうかはあなたの自由な意志に依ります。みことばへの態度は二種類しかありません。受け入れるか拒否するかです。後者には表面上、聞かなかった振りをする、右から左に聞き流すことも含まれます。もしあなたがみことばに対して個人的に前向きな反応を示しなさるなら、あなたはそのとき新しくされるでしょう。みことばにはそれだけの力があります。みことばはないものをあるものにすることができます。

 初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。(創世記1:1-3)

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネ1:1-3)

 あなたはみことばに対して心を開きますか。ヨハネの福音書13章に洗足の記事があります。

 イエスは、……夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」(3-9)

 二人の会話は興味深いものがあります。その一つは「何の関係もなくなる」と言われたときのペテロの反応です。まるでお風呂と勘違いをしているのですが、しかし神さまの心は広く、やがてペテロを大きく豊かに用いられます。「関係を持ちたい」、あるいは「無関係でいたくない」というすなおさ、みことばに対するまじめさが評価されました。これは彼の優れた資質です。みことばとの接触、それはあなたを新しくします。新しいあなた、それ自身がキリストの香りです。
 こういう話を聞きました。大空を高く飛ぶ鷲。優雅であり、かつたくましい鷲。その鷲でも疲れるときがあります。そういうとき鷲は森の中奥深く、しかも谷底まで降りて行って、一人(一羽)しばらくそこに留まるというのです。するとまもなく古い羽は抜け落ち、新しい羽が生えて来ます。そうして新しくされた鷲は再び空へ向って飛んで行く、というのです。

 あなたもどうか一人になってください。だれにも邪魔されない時空間を確保してください。そこでイエスさまと個人的に親しく交わりを楽しんでください。あなたはみことばを語られ、砕かれ、新しくされ、そうしてかけがえのない至福のひとときを過ごすのです。 そういうあなたから漂って来る香りは何でしょうか。少なくとも周囲の人々は気づくはずです。

 十字架

 キリスト教関係のある新聞に説教記事を載せた牧師の体験です。読者から次のような手紙をいただいたと言うのです。

 私は通勤の電車の中で、いつものように……新聞を読んでいました。あなたの書かれた文章が目に入りました。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架の上で死んでくださったお姿がそのまま、そこにはありました。私は電車の中で自分の目から涙が出て来るのをどうしてもこらえることができませんでした。私は吊革につかまって、立って新聞を読みながら、ぽたぽた涙をこぼしていました。ふと気がつくと私の涙は前に座っている女子高校生のひざの上に落ちていました。その女子高校生は不思議なものを見るように、私の顔を見ていました。私はその電車を降りるとき、その女子校生の手の中に新聞を押し込み、言いました。「読んでください。あなたのために死んでくださった方のことが書いてあります。」牧師の返事はこうでした。「あなたが涙を流して読んでくださった記事を、私も泣きながら書きました。」

 十字架に触れるとき、あなたは砕かれます。砕かれるとき、あなたには何が起きるでしょうか。この世では得ることのできない平安です。

 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14:27)

 実際多くの人が不安に悩まされています。たとえば、ある主婦がたった一度の万引きで町の中を歩けなくなってしまいました。遠くでおまわりさんを見かけるだけで、スーパーの看板や建物を見かけるだけで、不安が大きくなるのが自分でも分かるのです。これは罪から来る不安です。また、私は愛されていないかも、と思うと私たちは不安になります。キッチンドリンカーってご存じでしょうか。単身赴任の夫によって長期間家をあけられている主婦の間に広がった悪習慣。みりんを直接飲むことで気持ちを落ち着かせる、つまり不安感を麻痺させようとしたことが始まりで、アル中になってしまうのです。愛されていることが確信できない時、私たちは不安になります。さらに占いが流行るのも不安があるからと言うことができます。明日に希望が持てないとか、とにかく不安なので未来に関して情報がほしいのです。そして死が恐い!!どのようにこの強烈な不安を払拭してくれるのでしょうか。神さまの前に悔い改めることです。

 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(・ヨハネ1:9)

 ここでは罪は複数形です。一つ一つの罪を悔い改めることです。そしてもう一つ大切なことはすぐに赦されたことを信じることです。あなたは心の中でこの世では得られない平安を経験するでしょう。その平安はキリストの香りとなってあなたから漂い出るのです。

 神さまの祝福を祈ります。

*1モルデカイ 

 ベニヤミン人シムイの孫,ヤイルの子.曾祖父キシュは,南王国ユダの王エコヌヤと共に,ネブカデネザル王によって,エルサレムからバビロンに捕え移された(エス2:5‐6).モルデカイは,おじの娘エステル(ハダサ)を養女としていたが(エス2:7),ペルシヤ王アハシュエロス(クセルクセス1世.前486―465年在位)の時代,エステルがペルシヤ王妃として召し入れられた.彼は王の暗殺計画を知り,エステルを通して王に報告し,陰謀者2名は処刑された(エス2:21‐23).この後モルデカイが王の命令に背いてハマンにひれ伏さなかったので,ハマンは怒って王国中のユダヤ人の絶滅をはかった(エス3:5‐6).しかしモルデカイは王妃エステルの協力を得てハマンの策略を食い止め,その結果ハマンは木にかけられ,モルデカイには王に次ぐ位と栄誉が与えられた(エス10:3).以後,ユダヤ人は毎年アダルの月の14―15日をプリムの祭として祝い続けているが,その日は,モルデカイの偉大さをたたえて,「モルデカイの日」とも呼ばれている(・マカベア15:36).

*2エステル

 ペルシヤ語で「星」という意味.ベニヤミン族に属し,ヘブル名はハダサという名であった.父母が早く死んだため,いとこのモルデカイに養女として育てられた(エス2:7).彼女は美しい娘で,後にペルシヤ王アハシュエロスの王妃となった.彼女の決死の嘆願により,ペルシヤにいたユダヤ人のいのちが救われた.

*3ダビデ 

 イスラエル王国2代目の王.前1010年から970年頃までの40年間統治した.……もともと彼は羊飼いであった(・サム16:11,17:28).この職業が,後に武将として必要な勇気と決断力を身につけさせたことはダビデ自身の告白により確認できる(・サム17:34‐36).さらに羊飼いとしての経験は,彼の神理解を豊かで深いものにしたことであろう(参照詩23篇).……サウルは,サムエルに代って全焼のいけにえをささげたり(・サム13:8‐9),アマレクとの戦いで聖絶すべきものを聖絶しないでとっておいたりしたため(・サム15:9),ついに神から見捨てられてしまった.神はサウルを王位から退けると,次期王をエッサイの子の中から選ぶことを預言者サムエルに示した.サムエルはベツレヘムに赴き,エッサイの子の中から8番目の子ダビデが王となることを示された.そこで彼はダビデに油を注ぎ,イスラエルの2代目の王となることを宣言した(・サム16:1‐13).……王国の基礎をつくったダビデは,ペリシテ人(・サム5:25),モアブ人(・サム8:2),エドム人(・サム8:14)など周辺の近隣諸部族を次々に征服し,王国の勢力を拡張していった.当時,南方エジプトにも,北方メソポタミヤにも強大な国家は存在しなかった.したがってダビデは,エジプト国境およびアカバ湾から,上ユーフラテス地方に至るまで,強大な影響を与えることができたのである.このように王国が繁栄を誇り,ダビデの全盛時代とも言うべき時に,バテ・シェバ事件が起る.部下が戦いに出ている間,ダビデは安逸をむさぼり,ヘテ人ウリヤの妻バテ・シェバと姦淫の罪を犯した.そのうえ,その罪を覆い隠すため,夫ウリヤを戦いの最前線に送り込み,戦死させてしまったのである(・サム11章).この時ダビデは預言者ナタンからきびしい叱責を受けるが,その時の苦悩は詩51篇に赤裸々に告白されている.……すでにふれたように,ダビデの信仰が完全無欠であったというわけではない.多くの弱さと罪を露呈させながらも,絶えず砕かれた心を持って悔い改め,神の赦しと恵みを味わい続けたのである.……(『新聖書辞典』いのちのことば社)