176 ペンテコステ 1(あなたに聖霊降臨)
聖書箇所 [使徒の働き2章]
今日はペンテコステ。変な名前って思いますか。由来は五旬節*です。でも意外になじみのあるものでもあります。たとえばペンタオーシャン、これは五洋建設という建設会社の名前。ペンタゴン、これは本来五角形の意味で、アメリカ国防総省のこと。ペンタは五です。さてこんな話は終わりにして、ペンテコステ、聖霊降臨日(祭)はあなたにどんな意味があるのかを考えましょう。五種類の登場人物を以下用意しました。それぞれに何が起きたのかが焦点です。同様のことがあなたにも起きますよ。
キリスト[マタイの福音書3章16ー17節]
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
神の御霊が鳩のように下った結果、キリストが、「これは私の愛する子、とてもとても大切な存在です」(「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」)と言われたというのです。なんとうれしい言われ方でしょうか。私の子どもはもう大きいのですが、小さかった頃、一緒にお風呂に入っては、ぎゅーっと抱き締めて「大好きだよーっ」って言っていました。「お父さん、痛いよーっ」と抵抗しつつも、子どもたちのうれしそうな顔を忘れることができません。私の育った家庭には二つの悲しみがありました。一つは、私は北海道で育ったのですが、ある日突然五才の女の子を母が連れて来てこう言いました。「この子は今日からうちの子になる!」。私にはなにがなんだかさっぱり分かりませんでした。でも彼女は次の日もまた次の日もうちにいるのですから、だんだんその意味が分かって来ました。彼女はそれまで親から「あんたは出ていってもらうよ!。うちには、いては困るよ」と言われ続けて来ました。これをお読みのあなたにはこのような経験がお有りでしょうか。なんと残酷な、と私はこのせりふに胸が押しつぶされそうです。もう一つは兄(私は次男です)のことですが、彼は中国で誘拐されたまま、行方不明であったことです。40年経って見つかり、私は両親の代理として兄に帰国の意志を確認しに行きました。兄は即座に「帰国したい!」と言いました。何年会っていなくても親は親、子は子。子どもは親のもとにいたいと思うものです。でも子どもである兄から見れば、雑踏の中で「どうしてお母さんは私を見失ったのか」と問うに違いありません。親にとっては単なる不注意からに過ぎなくても、子どもの側からすれば「私は捨てられた」意識が残ることは避けられないでしょう。逆に言えば、「あなたは私の愛する子、とてもとても大切な存在です」というメッセージはかけがえのないものと言えます。私はある時から心理学者アブラハム・マズローの欲求五段階説に触発され続けています。人間の欲求は五段階に積み上げられたピラミッドの姿をしているというのです。下から順に、生理的欲求(水や食事などの欲求)、安全欲求(地雷等にいつも怯える生活ではなくて、安全に)、所属欲求(あるグループに所属し、歓迎されたい)、自尊心欲求(自分には価値がある)、自己実現欲求(宇宙との調和などと彼は言いますが、これは神学的には受け入れることはできません。神との調和というふうに変更すればいいでしょう)です。前二者は今日の日本に住む人々には確保されていると言って良いでしょう。課題となるのは残りの三つです。これらは今の時代に欠けているものではないでしょうか。リストラの嵐が吹き荒れています。それは「あんたはここには不必要だよ!」「あんたはもう価値はない人間だよ!」というメッセージでもあります。聖書は何と言ってますか?
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)
私はこの真理を教会で実現したい、教会でこそ実現すべきだと強く願いましたし、今もそう願っています。個人的にあなたがこの恵みを受取るにはあなたの心を開いてください。「天の窓を開く」ように大きく開いてください。あなたはこのメッセージを受取るでしょう。これは聖霊さまのお働きです。
聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(Tコリント12:3)
マリア[ルカの福音書1章28ー35節]
御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありま ケん。」そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
なんと、マリアは子どもを身ごもる、産むと言うのです。これはひどいことになった、と直感したでしょう。ふしだらな女というレッテルを張られることは避けられません。やさしい婚約者は密かに離縁しようと考えました(マタイ1:19)。彼女の驚きと心の傷を癒したのが、聖霊さまです。彼女にはこの事実を受け入れる勇気が備わりました。あなたもいわれのない非難や中傷に悩んだこと、ありませんか。そのようなとき、あなたは孤独でしたね。でも孤独を放置して置いてはいけませんよ。被害妄想になりやすいからです。このような記事を見つけました。
「被害妄想」という言葉は、一般的にもよく使われます。……「被害妄想」という症状は誰にでも起こる単純な現象です。「被害妄想」の原点にある「被害意識」というのは、結構、簡単に体験できます。まず、両手の人差し指を両耳に入れてみて下さい。ほとんど外界の音が聞こえなくなるまで、です。しばらくすると、自分を取り巻く世界が一変してくるのがわかるでしょう。自分の視野の中で人々がこちらを見てほほ笑んでいるのが、すべて、自分の悪口でも言っているかのような錯角に陥ってきます。……これらに共通するのは、自分に欠点、弱点があること、言い換えれば劣等感や自信欠如です。すなわち、自分に自信がない時、人は被害的になるのです。……この「被害意識」を頭の中で毎日毎日、繰り返すうち、訂正不能になると立派な「被害妄想」に発展していきます。(精神科医鬼頭清裕のコラム「精神科メモ」『読売新聞』2002.4.21)
私たちは何かあるごとに、被害妄想的になりやすいのではないでしょうか。「私の場合、どうしていつも悪い結果になるんだろう?」などなど。上記のコラムで、対処法として人と積極的に話すことを勧めています。私は聖霊さまと会話をすることをお勧めします。普通に人と話すように話し込んでみてください。あなたの心が慰められ、癒されることを経験できるでしょう。聖霊さまはオロナイン軟膏、いやしの油です。ドイツ人のある詩人がこういう詩を作りました。
心に太陽を持て 友だちと言葉を持て 唇に歌を持て
私はこれを次のように変えたいのです。
心に聖霊さまを持て 友だちと言葉を持て 唇に賛美歌を持て
シメオン[ルカの福音書2章25ー29節]
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
イスラエル人、あるいはユダヤ人はローマ帝国の植民地です。民族のプライドは傷つけられ、それがこの祈りの背景になっています。年老いた彼の最後の望みは救い主をその手に抱くこと。それは聖霊さまがくださった希望でもあり、叶えられるものでもあります。それが聖霊さまのお仕事です。
中米の伝道者ジミー・ヒューズはマフィアの殺し屋でした。やがてアル中になり、薬中毒にもなって行きました。ついに彼は自殺を決意します。その日午前三時、グアテマラにいるクリスチャンであるお姉さんが聖霊さまに促され、彼のために祈り始めました。するとまもなく、牧師であるお母さんから電話があり、ジミーのために一緒に祈ろうと言うのです。朝、お母さんは教会で説教していました。突然「ジミーのために祈ってください!」と言い出し、教会あげて祈り始めました。後になって分かったことですが、そのときは、ちょうど口に銃口を当て、引き金を引いたときでした。彼は「死んだ!」と思いました。ところが弾丸はそれていました。そのとき、イエスさまの声が聞こえました「ジミー、私はあなたを愛しています。あなたのすべての罪を赦します」と。この瞬間、彼は悔い改めます。長い間の家族の祈りは聞かれました。
たとえどんなにきびしい状況でも希望を捨てないことです。シメオンはついにイエスさまを腕に抱きました。そのようにあなたの願いも叶えられます。希望を持ち続ける力、それは聖霊さまから。叶えるのも聖霊さまのお働き。
弟子たち[ルカの福音書24章49節→使徒の働き2章1ー21節]
さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。……人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか。」と言った。しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。(使徒2:1-21)
落胆していた弟子たちは、裏切っていた彼らは見事復活しました。聖霊さまによりパワーと確信とに満ちた弟子たちの美しい姿がここにはあります。私たちの人生においてはさまざまなことが起き、落胆させられることも少なくありませんね。そのような時にこそ、聖霊さまからパワーをいただかなければなりません。そのための秘訣は待つこと、そして祈ること。
イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」……聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」……彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。(使徒1:4-5,8,13-14)
バートランド・ラッセルは言います。「幸福な人間は客観的に生きる人である」。主観的に生きるとは、辛いときに、容易にパニックになりやすいことを意味しています。反対に、客観的に生きる人は「人生、長い間には、こんなこともあるかなー」と言ってしまえる人です。祈ること、待つことのできる人はこういう生き方ができます。ゆえに聖霊さまが働きやすいと言えます。
25才のときに、日本に伝道に来たエミー・カーマイケルはイギリスに戻った後、次はどこに行くべきでしょうか、と主に尋ねたところ、「インド!」という答えをもらい、赴任しました。しかしスタッフがちっとも協力的でなくて行き詰まります。ぶつぶついう生活が続く中、ついにこの件で祈り始め、聖霊さまに一つのことを示されました。それは「自分に死ぬ機会にしなさい」でした。やがて自分の中にこそ不従順があると気がつき、悔い改めたところ、すべてが解決しました。スタッフの不従順は自分の不従順を写したものであったのです。祈ること、待つこと、このコンビネーションはあなたに新たな力と知恵を与えてくれます。
神さまの祝福を祈ります。
*ペンテコステ →ごじゅんせつ 五旬節
■ごじゅんせつ 五旬節 五旬節とは50日目の祭日という意味で,大麦の初穂の束をささげる日から数えて50日目に行われた(レビ23:15以下)ことから生れたギリシヤ語訳のペンテーコンタ・ヘーメラスの訳語である.ペンテコステとも言う.五旬節,すなわち7週間経過するところから「七週の祭り」とも呼ばれていた(出34:22,申16:10).立ち穂に鎌が入れられて始まった大麦の収穫の終りを意味し(申16:9),いよいよ小麦の収穫となるのである(出34:22).それゆえ「刈り入れの祭り」(出23:16),「初穂の日」(民28:26)とも呼ばれている.この祭は3大祭の一つとして(申16:16),ソロモンの時代にも守られていたようである(・歴8:13).その日にはいかなる労働もしてはならず,聖なる会合が開かれて,イスラエル人のすべての男子は主の前に出ることが義務づけられた(レビ23:21,申16:16).新しい小麦粉にパン種を入れて焼いた2つのパンが,和解のいけにえと共に祭司によって主に向かって揺り動かされた(レビ23:17‐20).敬虔なイスラエル人はこの日を喜びの日として(申16:11),穀物収穫の恵みに対する感謝と主に対する恐れを表現した(エレ5:24).ささ ーられる罪のためのいけにえと和解のいけにえは,贖われた人々の感謝と恐れを表すものであったが,さらに神の契約の民として,エジプトから解放されたことを記念する祭でもあった(申16:12).いけにえをささげる根底には,罪の除去と神との和解の概念があるのである.後に五旬節はシナイにおける律法の賦与を記念するものと考えられるようになった.サドカイ派の人々は過越の後の第1日曜から50日目に祝いをなし,それをエルサレムの神殿が破壊されるまで守り続けた.しかしパリサイ派の人々はレビ23:15の安息日を種を入れないパンの祭と解釈し,それが紀元70年以降ユダヤ教では一般的となった.それで今日ユダヤ人の暦では五旬節はいろいろな曜日に当るようになっている.新約聖書では五旬節に関して3つの言及がある.(1)使2:1.キリストの復活と昇天の後,五旬節の日に弟子たちはエルサレムの家に集まっており,天からのしるしを受けた.聖霊が下り,新しいいのち,力,そして恵みがもたらされた.それゆえ五旬節は聖霊降臨日とも呼ばれる.(2)使20:16.パウロは五旬節の日にはエルサレムにいたいと,旅路を急いだ(紀元56―57年頃).(3)・コリ16:8.パウロは五旬節までエペソに滞在するつもりでいた(紀元54―55年頃).伝道のための扉が開かれていたからである.(『新聖書辞典』いのちのことば社)