179 神は愛!アーメン
聖書箇所 [創世記50章17ー21節]
「神さまはあなたを愛しておられます!」「アーメン!」。私の教会の礼拝で、私たちはこう唱えます。同じ内容でこうも言います。「神さまはあなたをありのまま愛してくださっています」「神さまはあなたをそのまま愛してくださっています」。このように言い換えますと、あなたの心の中にとまどいが生じることがありませんか。何が問題でしょうか。私は、これはあかしですが、思春期の頃から、正義、平等、公正に強い関心を持つようになりました。家庭の中で、世の中で、「これは正義じゃあーない!」「あれは違う、間違っている、フェアじゃあーない!」と感じることが多くなりました。このような怒りにも似た思いが寝る直前に沸き上がると、つまり昼間に感じていたことが思い出されると、それにこだわり一晩中眠れなくなるのです。ちょっと神経症の気がありそうですね。神経症というのは、緊張感が持続し、弛緩しないのです。怒り出すと止まらなくなるのです。たとえば、馬を例にとりましょう。馬の脈拍は50。走り出すと70、100、そして300くらいに達します。しかし停止するともとの50に戻ります。神経症の人が、はじめは100くらいでしょうか、興奮して150、200というふうに上がりますが、この数字が一度上がったら落ちないのです。私の場合にはこれと近いことが起きています。もう一度、何が問題でしょうか?アメリカ女流SF作歌にル・グインという人がいます。彼女の作品である『ゲド戦記』にこのような話が載っています。ゲドは黒い影に追い掛けられています。気味が悪く、ゲドは逃げます。しかしどこまで逃げても追い掛けて来ます。ついにゲドは振り向いて対決するのです。「あまえは、だれだ!!?」。答えは「私はゲドだ!」。再び、何が問題でしょうか?自分の中にある欠点、短所です。「愛されているのはうれしい……しかし、私の中には欠点もあるし……それをそのまま愛されたとしても……」。このような思いは当然のことです。事実として私たちには種々の欠点がありますから。しかしここにこそ、愛の神さまの出番があります。神さまがあなたの欠点を修理してくださいます。今回は聖書から4人を取り上げて、修理の仕方に着目しましょう。いずれも有名人です。
ペテロ
長所=反応が速い、感受性鋭い
短所=冷静な判断が不得意
この長所は漁師にむいています。浮きがピクッとしたときに、考え込んでいてはいけません。すばやく手が反応しなければ。しかし彼はある状況下で、冷静に物事を判断することが上手ではありません。たとえば次のような記事があります。
イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」(マタイ19:23-27)
さすがに素早い反応です。ほんとうは「私たちは」ではなくて、「私」と言いたかったのでしょうが、少しは遠慮もあるのが彼らしいところです。でも相変わらずのパフォーマンスです。正直ですね。私のしたことで、何がもらえるの?と即座に催促しています。
彼を愛する神さまは彼をどのように取り扱われたのでしょうか。それは恥をかかせること。
すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」……(マタイ26:33-35)
こういうかっこのいい宣言をしたペテロはその後どうなったでしょうか。
しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。(ルカ22:60-62)
人々は彼の言動に、すなわち裏切り行為に気がついています。そして今日も語り継がれています。ほんとうに恥ずかしい!!でもこの経験が彼を大きく変え、かつ育てて行きました。あのペンテコステの時に、人々は驚き、慌てふためき、迷っているときに、彼は冷静でした。その結果、3000人が救われ、初代教会は見事な離陸を果たしました(使徒2)。あなたはもしかするとペテロかも。ならば人前で恥をかかされたことがあるかも。でも神さまはあなたを愛して、多くの人々を救いに導く者へと変えて行ってくださいます。
パウロ
長所=知性的、論理的
短所=人の持つ弱さが分からない、人への思いやりに欠ける
彼はほんとうに知性的な人です。多くの書物を聖書の中に彼は残していますが、読むとすぐに彼の知性の高さ、その論理の緻密さが分かります。こういう彼は学者にはもって来いです。しかしこれが同時に欠点でもあります。「これは正しいことですねッ」「したがって、そのように、実行しましょう」「エッ、なぜ?なぜ、その正しいことを実行しないんですか?」「正しいことであると分かれば、そのように実行することが必要なのではありませんか!?」、と、まあ、こういうアプローチです。こういうパウロに追求されれば息が詰まる、という言い方がぴったりではないでしょうか。博識、いや博識のゆえにと言ったらいいでしょうか。思いやりに欠けています。
彼を愛する神さまは彼をどのように取り扱われたのでしょうか。それはイエスさまが直接彼を打つ。
さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、……この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。……」……サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。彼は三日の間、目が見えず、(使徒9:1-9)
これは彼には大きな試練でした。立ち上がれない、目が見えない者の苦しみを彼は体験させられました。こうして彼は次のような境地に達します。
知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。……私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。(・コリント8:1-13)
人の弱さを理解できるようにされた彼は立派な教会を、あたたかい教会を次々と建設して行きます。罪の世界でさまざまに傷付き悲しむ私たちには、休息の場として、教会の存在はなんとありがたいものでしょうか。これは私に与えられた使命でもあります。あたたかい、しかも遠くではなく住まいの近くにあれば、なんとすばらしいことでしょうか。これからも多くのチャペル(教会)を建てて行きたいのです。「これが私の教会です!」と会員たちが友人たちに誇れるように、「わたし、ここにいると、ホッとする」とあかしできるような教会を!あなたはもしかするとパウロかも。ならば試練に苦しんだかも、いや現在苦しんでいるのかも。でも神さまはあなたを愛して、多くの人々の期待に応える人物へと変えて行ってくださいます。
ヨセフ
長所=天真爛漫、単純、素朴
短所=感受性が鈍い
彼の長所は確かに長所ではありますが、これが裏目に出た典型的な例は次です。
イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。(創世記37:3-4)
年寄子であるヨセフをヤコブは特別にかわいがります。そでつきの長服とは今で言えば、最高級のブランド品をあてがったと言っていいでしょう。しかも彼はノー天気にお兄さんたちに見せびらかすのです。もらっていない、持っていない者の心の悲しみに思いは行かないヨセフ。彼を愛する神さまは彼をどのように取り扱われたのでしょ、か。それは身近な者から裏切られる経験をさせること。お兄さんたちから殺されそうになり、奴隷として売られ……、もうあなたはヨセフの物語をご存じです。辛ーい辛ーい日々が始まりましたね。持っていない者の心の悲しみを彼は学んで行きます。そうしてエジプトでお兄さんたちと再開したあの場面(創世記50章17ー21節)、涙なくして読むことはできません。このとき、神さまの祝福により、なんとヨセフはエジプトの総理大臣になっていました。
……彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。ヨセフとその父の家族とはエジプトに住み、ヨセフは百十歳まで生きた。(創世記50:17-22)
和解、なんとすばらしいことでしょうか。人の悲しみの分かる人にはいつでも和解は可能です。そして和解は希望ある未来の扉を開く鍵です。あなたはもしかするとヨセフかも。ならば人から裏切られたことがあるかも。でも神さまはあなたを愛して、人を真に愛する者へと変えて行ってくださいます。
ヤコブ
長所=宗教的、情熱的、集中力のある
短所=他の人を押し退ける、エゴイスト
彼は、「これだ!」と思い込むと、すばらしい集中力を発揮して成功に向けて突進します。しかし、これが同時に短所ともなります。他の人の都合を考えない、配慮しないのです。彼を愛する神さまは彼をどのように取り扱われたのでしょうか。それは神さま自ら乗り出して、彼の鼻を砕く。天狗になっている彼の鼻をへし折ります。
ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。(創世記32:24-32)
天使がヤコブと相撲をとったのですが、神さま自らの登場でもあります。神さま以外に彼に勝てる者はいなかったからです。あなたはもしかするとヤコブかも。ならば神さまと直接対決をしなければなりません。どうか逃げないでください。あなたの中にある罪、不正、エゴイズムなどなど、あなたはあなたの中にあるものに苦しめられてはいませんか。どこへ逃げてもそれらはあなたを追い掛けて来ます。対決しなければなりません。その対決の場は十字架。ムンクというノルウェーの画家をご存じでしょうか。『叫び』という作品を遺しています。耳を塞いでいるのは周囲がうるさいからではありません。心の中の叫びを表現しています。あなたの心の中にも叫びがあるはずです。「ほんとうは私はこんなんじゃあない!」。砕かれたとき、あなたは自分で納得の行くほんとうのあなたに出会います。あなたは十字架の上で出会います。そこで砕かれます。そうしてあなたは神の人になります。神さまはあなたを愛して、そうしてあなたを変えてくださいます。