21.走るべき行程を走りつくし
平均寿命が伸びています。この長さが人によっては苦痛ともなり、また喜びともなりますが、それは私たちの姿勢次第です。充実した生き方が求められています。パウロはこう言いました。「私は自分の走るべき行程を走りつくし、・・・任務を果たし終えることができるのなら私の命は少しも惜しいとは思いません。」(使徒20:24)
同意しますか。このようにも言っています。
「私が世を去るときはすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、・・・今や栄冠が私のために用意されているだけです」(第2テモテ4:6−8)。
充実した人生を送ろうとするなら時々立ち止まって自分自身を点検しないといけません。願わくはパウロのように、私の人生は完全燃焼した、と言えるようでありたい。このようなエネルギーがどのような所から来るのか考えてみましよう。
神と和解する
コロサイ人への手紙1章20−22節をお読みください。生まれながらのすべての人たちにはひとつのハンデがあります。それは神さまと戦争状態にあるというものです。私たちの抱える問題や混乱はそこからやって来ます。もし内部に戦いがあるとすればどうしても外部に漏れてしまいます。こうして私たちは他の人との間に争いを作ります。傷つけ、非難し、責任を厳しく追求します。それだけではありません。自分の将来についても不安がたえず襲って来ます。どこにいてもどこへ行っても自分は安全なのだという思いこそ私たちが望むものでしょう。かつても良かったし、これからも希望があるのだという思いです。これがパウロの、走るべき行程を走り尽くした、私には栄冠・ほうびが待っているだけです、の心境です。
そのためには私たちは神さまと和解しなければなりません。ごほうびは神さまからのみ来るからです。そのために十字架を見上げて、罪の赦しを受けなければなりません。また私の罪は赦されたと何度も確認する必要があります。イエスさまが赦してくださったことは一度分かればいいことですが、つい忘れます。いつも心の耳を澄まし、あなたの心の中の神さまの声を聞かなければなりません。これを聖霊さまの声を聞くと言います。
神さまによる赦しは過去や現在のみならず、未来にも有効です。これがすばらしいところです。明日犯すであろう、一年後に犯すであろう罪でさえ赦されるのです。また本来は加害者が赴くべきところを被害者が赴いています。これがまたありがたいところです。どういうことでしょうか。キリストは神であられたのに、人(イエス)となって私たちの住む世界に来られました。私たちが神さまと和解しやすくするためです。最も根本的な罪とは私たち人間が親である神さまを神さまとして認めないことです。
人の幸せを喜ぶ
他の人の幸せをねたむ心と顔は決して美しいものではありません。本人は隠しているつもりでも実際には隠せる性質のものではありません。ねたみは人と比較して生きる習性から生まれます。そのような生き方の場合、他の人の不幸が喜びの理由となります。「アア、良かった・・・、安心した・・・」というふうに。ローマ人への手紙にはこう書いてあります。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(12:15)。 そうできたなら何とすばらしいことでしょうか。これは私たちが誇れるものです。
もし私たちが納得ができ、充実していたと言える人生を生きようとするならこの「誇り」がなくてはなりません。「私はこう生きて来ました。」と誇れるものがです。その条件は正しい内容であり、かつ他の人に喜ばれるものでなければなりません。私たちの勝利教会はこのようなコンセプトをもって活動しています。「人々に福音を通じて本物の幸せを知っていただく。」。これは自信作です。あなたはいかがですか。同じコンセプトで暮らしてみませんか。与える者は受けます。あなた自身が本物の幸せを手にします。
タレント・能力を生かす
もっと大きくなりたい、もっと上手になりたい、・・・これは神さまがあなたにくださった大切な性質であって成長欲求と言います。もしこれが満たされないなら、欲求不満で、イライラし、自分を責め、他の人を責めるようになります。パウロは当時としては最高の教育を受けた人であって、エリートの中のエリートと言ってもいいでしよう。けれども 何であるかは分かりませんが、何かが不満でした。実はこのイライラがクリスチャンを迫害する本当の理由であったのです。彼はあるときこの原因が何であるかに気が付きます。 「私にとって得であったこのようなもの(エリートとして誇れるもの)を私はキリストのゆえに損と思うようになりました。」(ピリピ3:7)と。どういう意味でしょうか。いままでの人生で得て来たものが全くの無駄だったという意味なのでしょうか。そうではありません。使う方向、使い方、その意図が間違っていたのです。
私たちは神さまに造られたので、神さまがはじめにお造りになった意図や目的に沿ってでなければタレントや能力はべストには使いこなせないのです。また自分自身も心の中で真に満足はできません。コロサイ人への手紙3章3節をご覧ください。「あなたがたは・・・死んでおり、あなたがたのいのちはキリストとともに神のうちに隠されてある。」。私たちは自分のタレントや能力をもっとも効果的かつ有益に使えるようそのTPOを教えていただく必要があります。みことば、祈り、礼拝がその助けになります。
純粋な愛への挑戦をする
人は疑問を持ちます。特に意味を知りたがります。何のためにこのことをするのか。では、何のためですか。答えは「愛」です。何をするにも愛をもってするのが理想です。これくらい挑戦しがいのあるものはありません。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番優れているのは愛です。」(第1コリント13:13)。あなたの生きて来たことが、あなたのしてきたことのすべてが意味を持つかどうかがこの愛にかかっています。愛はあなたに最高の知恵と力を授けます。「愛には恐れがありません。」(第1ヨハネ4:18)。父なる神さまは愛から引き出された最高の知恵と力をもって私たちに永遠の命を得られるようにしてくださいました。あなたの愛はひとり子イエス・キリストに負わされました。イエスさまを救い主として心から感謝をもって受け入れてください。あなたの中に本物の愛が生まれ、その愛とともにあらゆる祝福を楽しむことができます。
あなたが神さまの助けを得て、悔いのない完全燃焼の人生を走り尽くすことができるよう心から祈ります。
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