24.シュネムの女
人生は出会いです。あなたは友人と出会い、学校と出会い、職場と出会います。配偶者との出会いもあります。この出会いのとき、何かが起こります。良いこともあれば、悪いこともあります。そしてだれもが前者を望んでいます。次の三つの聖句に注目してください。「天の下では何事にも時がある。」(伝道3:1)- 「神のなさることはすべて時にかなって美しい。」(伝道3:11)
- 「神はすべてのことを働かせて益としてくださる。」(ローマ8:28)
積極思考
積極思考の彼女はいつも窓から外を見るときに、何か意味のあることをしたいものだと考えます。彼女はある時こう直感します。「近ごろ見かけるあの方はただ者ではない。きっと神の人に違いない」。出会った彼女は夫に頼み込みます。「ぜひあの方にわが家に滞在していただきたいのです。いかがでしょう?」(9、10)。許しが出ました。こうして寝台と机といすと食事を用意した部屋を預言者エリシャに提供します。彼女の優れたところは自分自身に新しい可能性を信じていたことです。「私にも何かできることがあるに違いない。」というふうに。当時一般的に女性の活動範囲は決して広いものではありませんでした。でも彼女はそのことには頓着しません。今の自分にできることは何かを考えるからです。「神は世界の基の置かれる前から私たちを選び」(エペソ1:4)と聖書は言っています。神さまはあなたにはいろいろなことをしてほしいと願っていらっしゃる方です。あなたの存在は決して偶然ではありません。神さまの意志によってあなたは生まれて来ました。そこには当然目的があります。したがって積極的にそれが何であるかを求め、探すことは良いことであり、あなたの人生に確実に実りをもたらします。
実際神さまのために生きたいという前向きの理由は神さまからの祝福を招きました。彼女が知らずして神の大預言者を接待したことは彼女が神さまを愛していたことを証明しているでしょう。彼女に用意されたプレゼントは彼女が望んでいたものでした。それは子どもでした。彼女はすでにそれをあきらめ、自分自身をも偽っていましたが、その子どもが与えられました。神さまには不可能がなく、あなたの本当の希望に答える方です。今あなたがこの神さまを知る方法があります。ひとり子キリストのあがないを知ることです。
いつも感謝
彼女が普段感謝の気持ちを持って生活していることは明らかです。さて彼女は「裕福である。」と表現されていますが、これが必ずしも幸福を意味するものでないことは私たちにはわかります。彼女が幸せなのは感謝の気持ちがあるからです。あなたはいかがですか。毎日感射しておられますか。住む家がありますね。家族がありますね。友人がいますね。生活するお金がありますね。感謝なことではありませんか。なぜ感謝があなたに恵みを与えるかご存じですか。感謝はあなたの神さまのイメージを大きくするからです。ということは小さな神さまと付き合っている人たちもいるということです。小さな神さまではいったいどれほど大きなプレゼントをしてくれることができるのでしょうか。あなたの神さまのイメージを大きくしなければなりません。そうするときにどのような試練が来ても克服することができます。
彼女に一つの試練が襲いました。せっかく与えられた子どもが日射病で死んでしまったのです。何という悲劇、何という理不尽!でも実際に起きたことなのです。彼女はカルメル山にいるエリシャのもとに駆けつけます。エリシャは彼女の報告を聞き、駆けつけて・・・それでどうなりましたか。癒されましたね!感謝の心が彼女の信仰を、神さまについてのイメージを大きくしていました。ローマ人への手紙8章23節を思い出してください。「神はすべてのことを働かせて益としてくださる」。この事件は彼女にとっては良いことでした。
人は物質的な祝福だけでは決して幸せにはなれないし、かえって高慢になって悪い結末を迎えるのです。全くの欠乏のとき与えられれば感謝をし、二度目に与えられた時には多少のニコニコで済まし、三度目にさらに与えられた時には当然!という顔をするのが人間というものです。それでは良くありません。与える方である神さまが見えて来ませんから。
見えるものがすべてであるという世界観は間違っています。モノがすべてではありません。この地上の物質世界がすべてではありません。人間は肉体がすべてではありません。肉体の死後も人生は続きます。永遠に。天国と地獄という2つの永遠の世界があります。私たちはどちらかに入り生活することになります。真に謙遜になる時、天上と地上の祝福の両方を受けます。神さまはシュネムの女を愛しておられました。試練を通して目に見えない神さまがはっきりと彼女は見えるようになったのです。
みことばを信じること
信仰はみことばを信じる時からどんどん本物になって行きます。本物になって行くというのは新しい世界が広がるということです。いままで知らなかった世界で次々に新しい恵みを受け取って行きます。彼女は初めエリシャのことば(彼は神さまの預言者ですから、すなわち神のことば)を信じませんでした(16)。しかしみことばがその通リになり、彼女は信じて行くようになります(子供が与えられたり、生き返ったりして)。この組み合わせこそ宝物です。親にすなおな子どもと指導者にすなおな者は成長するものです。親や指導者のことばは信じるに値するものがあります。
ただし焦らないことです。ちょうど山登りと同じであって、ふと気が付いて後ろを振り返ると、「いつの間にこんな高いところまで来ていたンだろう!」と感心するようなのが一番いいのです。一歩上がって振り向いても高さは確認できません。上がっていることは確かなのですから心配要りません。
実は後日談があります。8章1節以降を見てみますと、飢餓が来ようという時に事前に知らせてもらえるという特権にあずかっています。それだけではありません。飢餓が終わって帰ってみると自分の畑と家が他人に取られてしまっていたけれども、王への訴えが効いて取り返すことができました。そればかりではありません。その畑で収穫されたものまで得ることができました。いったい何という恵みでしょうか。あなたにどんなことがあっても失望してはいけません。
最後にこのみことばをあなたに贈りましょう。
「私たちは私たちを愛してくださった方によって(どのようなことが起きても)圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:35−37)。