33.感情のバランス
感情(あるいは情緒)が安定し、コントロールできている人には幸せ感がいつもあります。反対に感情のバランスを崩しやすい人は「私は不幸!」と容易に考えやすいのです。そのときは「私がどうしてこんなひどい目に遭わなくてはいけないの?!」とか、「私は立派です!」と両極端に大きく気持ちが揺れています。今回は感情のバランスをどう維持し、かつ管理できるかを詩篇1章1篇を参考に考えてみましよう。
過去の悪影響から離れる
サタンは私たちの感情のバランスを崩す張本人のひとりです。彼に振り回されると「風が吹き飛ばすもみがらのよう」(4)になります。どのようにして彼はそれをすることができるのでしょうか。私たちの苦い過去を、てこにしてです。説明しましょう。だれにも傷つけられたり、失敗したりの苦い記憶は多かれ少なかれあるものです。ある人は生まれてすぐに捨てられ、愛情を知らずに成長します。他に受験、恋愛、結婚、就職などに失敗したなどなど。思い出すと実に辛いものです。
このような苦い過去は、加害者であること(つまり他者に罪を犯したこと)から来る罪責感と、被害者であること(つまり他者から罪の被害を受けたこと)の2つに分けられます。いずれにしてもこれらは私たちの人格の中にちょうど爆弾を抱え込んでいるようなもので、あるちょっとしたきっかけで爆発することがあります。
早い時期では人生に悩み始める思春期のころです。精神病になる人さえいます。あるいは過去に触れられる、あるいは思い出させられるような経験をすることなど。たちまちにして否定的な感情が表に出ることとなります。その感情は刃物であり、武器になります。結局だれか近くにいる人を傷つけてしまいます。その筆頭に上げられるのが自分自身です。あなたがもし感情を爆発させるとすると最初に傷つける相手はあなた自身です。
さてサタンはどのようにこのことに関与するのでしょうか。この点については実は「敵ながらあっぱれ!」と言わざるを得ません。なぜかと言いますと、法的な根拠をもってあなたを責めるからです。その根拠とはあなたが誰かに罪を犯しているという事実です。罪を犯していれば罰を受けるのは当然です。
では私たちに救いはないのでしようか。イザヤ書53章4節のことばに期待しましょう。もはやあなたは罰を受けなくてもいいのです。イエス・キリストが十字架で代わりに罰を受けてくださったから。サタンはこうしてあなたを責める根拠を失います。ハレルヤ!
他の人と連帯する
人は結局仲間を求めるものです。悪者はさらに悪い仲間を増やそうとします。もちろんその呼びかけに応えないことが大切です、滅びないために、祝福を逃さないために(1、6)。でも拒絶したり拒絶されたりして生きることには私たちには抵抗があります。たとえば幼いとき親から冷たくされると私たちは「社会は敵だ!」と思い込むことになりますし、長じて他の人に親切にされても裏があるのではと疑うのです。親切を率直に受け取ることができません。こういう人は攻撃的か、きわめて臆病です。拒絶はそのような意味で殺人に匹敵します。でも私たちはこれに出会うことから避けられません。というのはこの世界は罪の世界だからです。でも正しく生きる人と連帯するというのはいかがでしょうか。「その人は何をしても栄える。」(3)と言われています。あなたはイエスさまを信じてその仲間になることができます。交わりに参加し、それを楽しみ、喜びとうれしさとを共有できます。うれしかったことを喜んでもらい、悲しかったことを聞いてもらうことができます。信頼できる仲間(友人、家族)を持つ人の情緒はとても安定しているものです。
喜び中心の生活をする
「幸いな人は・・・喜んでいる人です」(1−2−3)喜んでいる人はいつ見てもいいものです。何といっても明るい人は人に好かれます。人々はその人のそばに近寄って来ます。喜びという感情は人に備わっている基本的な性質です。これを活用しないと気分が否定的になり、被害妄想的になります。
「自分だけがどうしてこんなに不幸なのだろうか。」しかも一度そう思い込むとなかなか脱出することができません。またそうなった場合に人は周囲からの援助を拒みやすいので助けることが難しいのです。
喜びの生活のための秘訣を書いておきましょう。ひとつは生活の中に喜びの材料を見つけることです。小さなことから始めて1つ1つに感謝をしてください。
「主の教え」(2)によるとこの世界のすべての恵みは神さまからのものです。あなたは感謝をささげる中で自分がいかに恵まれているかが分かりうれしくなるでしよう。
2つ目はみことばに従うことです(2)。本当の喜びは神さまのことばに対して従順であるときにやって来ます。喜びとは従順の報酬です。神さまがあなたの従順をたいへんお好きです。覚えて下さい。他者から好かれ愛されると情緒は安定して行くようになるものです。
健全な自己像(セルフイメージ)を持つ
私たちは神さまの子となる時、人生が栄える保証を手にするのです。これはほんとうです。さらに死んでも祝福の天国が待っています。ところがそう信じない人がいらっしゃるのです。これを不健康な自己像と言います。これらは低すぎる自己像と見栄を張って高くしすぎた自己像の2つです。これがあなたのバランスを崩す源です。というのは低い自己像は気を滅入らせるし、立派に見せかけてもいつかはばれてしまうし、そのときのことを想像するとこれまた気が重くなるというわけです。
前者は自分や自分の存在には価値がないという思い込みですが、神さまの一人子の命を引き換えにあなたは救われるというのにどうしてそのように低い価値を想定するのでしょうか。またイエスさまはあなたに天国の家を作るために一度この世界に来られました。
口が裂けても「私の人生はダメな人生だ!」などと言ってはいけません。神さまを信頼してください。「神さまによる私の人生への取り扱いは万全だ!」「神さまは私の人生を立派にデザインしてくださっている!」と信じてください。
その証拠にあなたにはいろいろな優れた実(3、賜物)が与えられているはずです。よく見てください。ねたむ必要はありません。他の人のものと比較して悩む必要はありません。あなたには良いものが与えられています。確かに他の人の実で目立つものはあるでしょう。とってもまぶしいものも中にはあるかもしれません。でもときどき悪者が悪いことをして手に入れている場合もあるのです。そうは簡単に他の人のものの方が価値があるとは言い切れないのです。ここに信仰が必要です。神さまはあなたに最善をなさっています。信じて、感謝しましょう。
正しい自己像こそがあなたの情緒を安定させてくれます。