37.主の山には備えがある

 ●聖書箇所 創世記22章1ー18節

 私たちが教訓を学ぼうとして利用するものにはいろいろあるでしょう。たとえば誕生日、結婚記念日などの記念日。それから記念碑(イスラエル人の間に伝わっているものでは「塩の柱」が有名です。ロトの妻が未練がましく後ろを振り向いたのでこうされてしまった。創世記19章26節)もあります。さらには格言というものもあります。
 今回学ぼうとしているのは「主の山には備えがある」という格言で、創世記22章14節に記録されています。この格言からイスラエル人は、そして私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。この格言を生んだ事件はイスラエル人の父祖と言われるアブラハムが晩年の時に起きました。非常に印象的かつ感動的なものです。
 彼は信仰深い人ですから、「神さまはいつも私のために良いことをしてくださる」と信じていたでしょう。ところがよりによって「一人子のイサクをいけにえとして差し出しなさい」とおっしゃるのです。25年もの間祈りに祈ってようやく与えられたのにです。果たして彼は、そして神さまはどのような気持ちであったのでしょうか。
 もしあなたがアブラハムの立場であったならどうでしょうか。もちろん神さまは彼が信じるとおりに「良いお方」であって、結末は、いけにえとして一頭の羊が備えられていて一件落着。それで、アドナイ・イルエ、すなわち「主の山には備えがある」、と言われるのです。この出来事の後、主が仰せられたおことばに注目したいものです(16−18節)。アブラハムに対する祝福の再確認があり、そこに永遠の格言が生まれました。さあ学んで参りましよう。

神さまは事の顛末を見通していらっしゃる

 アドナイとは神さまのお名前です。イルエとは備えがあるの意味です。7節でイサクはお父さんに「いけにえの羊はどこにあるのですか」と尋ね、8節でアブラハムは「主が備えてくださる」と答えています。彼らの素朴な信仰、神さまへの純粋な信頼がうかがわれます。それは5節において若い者たちへのことばによっても分かります。
 さていざ捧げる段になり、いけにえがないのです。彼はたきぎの上にイサクを置き、刀を振り降ろそうとした瞬間、天使の声がそれを制止します。見回すと一頭の雄羊が見えます。アドナイ・イルエ!イルエは「備える」と訳されていますが、「見える」という動詞のひとつです。学者によりますと、神さまとの関連で使われているときには「前もって見る」という意味になるそうです。神さまはその全能の力によってあらかじめこれから起きることが分かるのです。もちろん私たちには見えませんし、予測がつきません。
 アブラハムにも見えなかった。そうです、私たちには先のことが分かりません。でも「主の山に行くなら備えがある」と言うのです。主の山とは礼拝する所です。まことに神さまを礼拝する者には常に神さまによって必要なものが備えられ、与えられることを知りましょう。あなたには先が見えなくても神さまは見ておられます。安心してください!

神さまは私たちに従順をお求めになる

 イサクはアブラハムが長いこと、祈って祈って、忍耐して忍耐して、約束を信じて信じてやっと与えられた子です。またこの事件に見るように神さまへの彼らの従順さには正直いって頭が下がります。
 しかし彼は決して優等生ではありませんでした。実際、私たちと同じ!失敗の多い人間です。あるときには神さまを疑い、それゆえに人間的な手段で子どもを得ようとしました。こうして奴隷ハガルを通してイシマエル(今日のアラブ人の祖先。一方イサクはユダヤ人の祖先)が生まれました。まことに大きな失敗でした。今日までそのことが原因となった争いは続いています。なぜでしょう。彼は弱さを持った人間であるからです。でも神さまは違います。かつて神さまはアブラハムに一つの約束をなさいました(創世記12章1−3節)。イサクは与えられ、死ぬことはなく、彼からアブラハムの子孫は数え切れないほど広がりました。約束は確かに果たされました。ところでその引金になったのがその時々の、疑いつつも結局は従順という信仰でした(ヘブル人への手紙11章17−19節)。
 信仰とは何ですか。信仰には型があります。剣道に、空手に、柔道に型があるように、信仰にも型があります。アブラハムの示した従順はその一つの型です。その従順をどのように私たちは現すことができるでしょうか。捧げることです。もしも大事なときに捧げないと、あなたの神さまはケチになります。あなたの神さまの大きさはあなたが決めます。ささげるなら神さまはさらに豊かに与えてくださり、大きな神さまとなります(第2コリント9:6)。
 どうかみことばをよく学んでそれを自分のものとしてください。「私はこのみことばが約束する祝福を信じます」と宣言してください。そして捧げてください。アブラハムもイサクも捧げました。だから祝福されました。

神さまに受け入れられる生涯こそ最高

 犠牲の動物も、イサクも本物の影です。本物があって影があります。アブラハムは自分が罪人であるということをよく知っていました。いけにえを捧げたことがその証拠です。いけにえを捧げるということは自分には罪という問題を解決する力がないことの告白です。傷のない質の良い動物を用意し、手を置いて罪を移行させ、罰としての死を与えるという儀式です。血が流されて、はじめて罪は赦されるという神さまの法律をイスラエル人は知っていました。でも動物は動物、本物ではありません。赦されるべきは動物の罪ではなく、人間の罪です。またイサクもいけにえとしては十分ではありません(なぜなら罪を持っているから)。たとえあなたがすべてのものにまさって大切にしている「イサク」でさえもこの場合には何の役にも立ちませんよ、と教えています(ヘブル人への手紙10章4節)。
 神さまがアブラハムに、そしてあなたに知って欲しかったのは神さまに受け入れられる人生こそ価値があるということであり、しかしそのために必要な捧げものが求められてもいるということです。それは神さまだけが用意できるものです。イサクは影で本物はイエス・キリストです。あなたはイエス・キリストを捧げなければ、すなわち救い主として信じなければなりません(ヘブル人への手紙10章1ー21節)。そうすればあなたはあなたの人生という舞台で金メダルをいただくことができるでしょう(第2コリント5章10節)。あなたの人生は地上でも天上でも輝くでしょう。それはあがなわれた者へ神さまから与えられる特権です。

 「主の山には神の備えがある」。かけがえのない、たった一回だけの人生に、それも世界にたった一つしかないあなたの人生に神さまからの豊かな祝福が備えられています。