40.信仰生活の勝利

●聖書箇所[ヘブル人への手紙12章1−13節]

 生きることは難しいことだと言えるでしょう。実際、生存競争、受験戦争、就職戦争などが、あなたが生きる現場には溢れていますね。信仰生活も一種の戦いと言えます。成功と勝利を目指して、今日は競技者の知恵に学びましょう。

身軽になる

 利口な競技者は、よく整備された、穴もなく石ころも落ちていないフィールドとトラックを使い、また競技をするにふさわしく身軽ないでたちで登場します。精神統一も不十分でいらいらして落ち着かない心のままで、かつ着替えを入れたリュックサックを背負っていたりしてはいません。勝つためには障害物を徹底して「捨て」るのが常識です。
 信仰生活の障害物とは何でしょうか。背負う物は罪(「いっさいの重荷」とは「まつわりつく罪」から来る思い煩いや誘惑です)です。
 アダムとエバが地上に生を受けたとき、罪の重荷は全くありませんでした。生きることはやけに楽しく、幸福でした。ところがまことの神さまを捨てる罪を犯してから、生きること自体が重荷になって来ました。勝つためには一刻も早く罪の重荷を降ろさねばなりません。
 また穴や石ころとは誘惑のことです。どんなに強い人でも立ち向かうペきではありません。避けて進む方が利口です。
 次に落ち着かない心は聖霊さまに導かれない心です。精神統一ができない競技者は勝つことができません。
 どうしたらこれらの障害物を取り除くことができるでしょうか。みことばによってです。イスラエル人が約束の地に入ろうとするときにどうしても城塞都市エリコを陥落させなければいけませんでした。指揮官ヨシュアは作戦を考えはしましたが、何よりもみことばが与えられました。「6日間毎日一度ずつ回り、7日目に7度回りなさい」というものです。不思議なことに7日目7度目のラッパの音と信仰者の叫び声とともに域壁は崩れ落ちました(ヨシュア6章−)。
 もしみことばを受け入れなさるなら、あなたの罪は直ちに赦されて重荷はなくなります。イエスさまは十字架にあなたの罪を背負われ滅ぼして3日目に復活してくださったからです。またどんな穴や石ころ、すなわち誘惑からでも、みことばとともに働く聖霊さまがあなたを守ってくださいます。落ち着かない時も、みことばとお祈りとで成り立つデボーションを朝と夜に持つことによって克服できます。神さまのおことばを思い巡らし、その日を反省し、目標を確認することによって信仰生活は必ず勝利できます。思い煩いや誘惑は後ろに追いやられて、恵みを受け取る体制が整います。

信仰の偉人から学ぶ

 良い成績を残し、勝利する者は常に先人に学びます。それも実力ある人からです。ですからよく学ぶ人は着実に力を付けて行きます。何歳になっても学びを止めません。成長していないからでなく、成長しているからこそ、からだに栄養が必要なように学びが必要です。なぜなら新しい、変化する状況に対して効果的な対応をしなければどんな貴重な過去の体験や実績も絵に書いた餅になってしまいますから。
 さて偉人(「多くの証人たち」のこと、11章に具体的に人名が見られます。最終的には「信仰の創始者であり、完成者であるイエス」)に学ぼうとするのは実践的かつ実戦的な知恵を期待できるからです。それは信仰生活の技術です。
 いろいろなものを得ることができるでしょう。お祈りの仕方、聖書の読み方、時間やお金の使い方、子どもの育て方、伝道の仕方、目標設定の仕方など。ただし単なるコピーに終わってはよくありません。信仰生活は漸進的、かつ個性的です。ある日突然の飛躍、つまり奇蹟をいつもいつも求めることは間違っています。1タラントずつ積み重ねることによってはじめて30倍、60倍、100倍になります(マタイ13:3−9)。一気に行こうとすると、中には友人を悪意で見返してやろうという気持ちであったりすると、結局は挫折感や劣等感や自己嫌悪感のとりこになり、自分を裁いてしまいます。「心は元気を失い、疲れ果ててしま」います。それではイエスさまが「十字架を忍んで」くださった意味がありません。神さまがあなたにくださった個性に従って学んで参りましょう。後は神さまの青任でことは運びます。神さまは勝利の主です。

ゴールを見る

 霊の世界の原則は主イエスさまを受け入れた者はすでに勝利しているというものです。ところがあなたはいかがですか。あなたの中で勝ったり、負けたり、そして負けたり、実に忙しいのではありませんか。これはサタンが与える錯覚にすぎません。彼の作戦は、過去、現在、未来に分割して言う、その言い方に表わされています。「過去の罪は赦された、確かに。しかし今日犯した罪や失敗はどうする?」サタンはあなたの一番弱い所を突いて来るでしょう。現在を敗北と考えると未来の勝利が当然疑わしくなります。次に過去について肯定的に確信したことまで疑心暗鬼になってくるのです。
 モーセが出エジプトを導こうとするときに、イスラエル人はパロのしつこい妨害に何度も失望しました。次に敢行した後、紅海とエジプト軍の挟み打ちに遭います。ここでも敗北気分に圧倒されます。でもモーセの信仰は「必ず勝利できる、神さまが約束してくださっている地に入ることができる」というものであり、これがこの大事業を成し遂げさせました。
 信じる者は一時の敗北と見えることに執着せず、あくまで勝利を信じ続けるものです。天国というゴールが約束されている事実とその手前の地上における未来の祝福を信じる信仰とは現在のいかなる環境をも克服させます。その模範また証拠があります。イエスさまは親兄弟や友人たちから誤解され、同胞からついには殺されてしまいましたが、父なる神さまはその力をもって復活させなさいました。人間的な目では失敗と見えることも、神さまの目からは勝利の前奏曲でしかありません。
 神さまはあなたを愛して訓練をしてくださっています。5節以降をお読みください。どんな環境のときにも勝利を信じて進みましょう。イエスさまを信じる者は必ずゴールに着けます。「前に置かれた喜びのゆえに」進まれるイエスさまご自身の迫力に学びたいものです。神さまの、昔から変わることのないルールは、「正しい者は必ず勝つ」というものです。そしてあがなわれた者は世界で唯一正しい者です。生まれながらに義人はひとりもいません。あがなわれた者のみ正しい者です。そしてあなたは主イエスさまにあって正しい者です。

主に従う

 どの世界にも指導者がいるものです。彼次第で人々は幸福にもなり、不幸にもなります。だれを選ぶかは非常に重要な問題です。いのちに関わる問題です。最も身近なところでは、夫婦や親子の関係に適用できるでしょうか。ただし子は親を選べないから大変です。親はきちんとやってくれないと子は困ります。
 しっかりやってくれる指導者は、しかしありがたい存在です。仕えてくれますから。間違いを教え、矯正し、方向を正してくれます。あなたにサービスをしてくれます。あなたを応援してくれます。自己流では何事もうまくならないものです。基本が大切です。良いすぐれた指導者はそれを教えてくれます。
 さて最高に模範的な指導者、指導者の中の指導者とは主イエスさまのことです。限界のない完璧な指導をしてくださいます。人は失敗をしますが、彼は神さまですから、そういうこともありません。見通しを誤ることもありません。
 どのようにしたらあなたは彼を指導者として仰ぎ、従うことができるでしょうか。生まれながらのどの人も理性や努力によっては不可能です。聖霊さまの助けによるしかありません。自分が罪人であることを認め、イエスさまが救い主であると認めましょう。そうすればイエスさまの名を使って父なる神さまに祈る特権が与えられ、それによって更にあなたの中に住み始められた聖霊さまは、あなたのより一層の熱心な願いによって、満ち、しかも溢れて、あなたは喜びつつ従いたくなります。あなたは次々に恵みを経験し、ますます神さまが愛のお方であることを知って行きます。イエスさまご自身そのことを身をもって体験なさいました。主に従う者に敗北はありません。主に従う者を主が見捨てられることはありません。どんなときにも勝利を固く信じて生活して参りましょう。
 神さまはあなたを愛してくださっています。世果中で神さまの愛にだけ希望があります。最後にこのみことばをあなたに贈ります。
 「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから弱った手と衰えたひざとをまっすぐにしなさい」」(11、12)