41.謙遜の恵み
●聖書箇所[ペテロの第一の手紙5章5節]
南北戦争のときです。ある寒い日、北軍の司令官ワシントンが陣地の視察に向かいました。ちょうど防塁を築いているとき、兵士たちは忙しく立ち働いていました。その中に伍長の指揮のもと巨大な丸太を動かす作業をしている部隊がありました。汗をかきかき、号令に従って持ち上げようとしますが、なかなか思い通りに行きません。何度も繰り返しては失敗します。もうあと少しという場面にでくわしたワシントンは外套を着たまま飛び込みます。伍長に彼は尋ねました。「なぜ君は手伝わないのかね?」「私は伍長ですよ!」「ああ、なるほどわかった。今度こういうことかあったら、私を呼んでくれたまえ。私は司令官に過ぎないから」。美しい話ですね。ワシントンの謙遜さが胸を打ちます。
聖書はたびたび謙遜でありなさいと勧めています。そしてそうする者は高められると教えています。今日は謙遜な者に与えられる恵みを学びましょう。
「聖」い人格と生活
「聖」い人格と生活はあなたへの恵みとして神さまから与えられます。聖書では「聖」とはヘブル語でカデッシュ、ギリシャ語でハギオス。その意味は、切り離す、分離する、です。罪のこの「世」から分かたれることです。したがって「聖」はこの「世」には本来存在しないものです。「聖」はすべて「聖」い神さまのもとでのみ発生し、「聖」い者にのみ移されますから。
ではなぜ謙遜が「聖」い人格と生活とを招くのでしょうか。神さまの前にへりくだること自体がこの「世」にはできないし、存在しえないことであるからです。「あなたの前ではとても小さい存在です。あなたの前に出る資格のない者です」という自覚、を意味してこう書きました。
典型的な例が進化論です。たとえば家の前に車が停っているときに、自然に偶然に地中の鉱物がこのような形に進化したと真顔で言います。だれが信じるでしょうか。自動車メーカーが製造したのです。でも進化論を信じる人たちはそのようには認めません。少なくとも理論的には世界の起源については50対50の確率で創造論も取り上げられ検討されて良いはずです。でも決して創造論を真剣に検討しようとはしません。まったく非科学的な態度です(ただし進化論自体が科学ではなく、ひとつの想像、あるいはイデオロギーであるから仕方がないとは言えます。「だって進化論こそが私の好みです!」と言っているのですから)。
なぜこんなあたり前のことが受け入れられないのかと言いますと、その理由はきわめて単純です。天地の造り主なる神さまの存在を認めたくない(私の好みではない!)からです。つまりへりくだることができないのです。
ではだれがへりくだらせることができるかと言いますと聖霊さまです(第1コリント12:3)。へりくだりは聖霊さまの専売特許です。どのようにしたら聖霊さまを招く経験をすることができるでしょうか。イエスさまの十字架を自分のこととして受け入れることです。聖書は私たちが生まれながらに高慢だと言っています。とうぞルカの福音書18章9節から14節をお読みください。パリサイ人は「私はこれだけ聖い生活をしています」と誇っています。しかし本当の自分白身に目覚めて自分を小さくする(小さい者であると認める)とき、すなわち罪を認めるとき聖霊さまがあなたの中に住んでくださり、へりくだらせてくださいます。これがあなたが人生において始めて経験する「聖」めです。これ以降漸進的に「聖」めが進みます(これを聖化と言います。信じたときのことを義認といいますが、そのときから聖化が始まります)。
汚れた社会の中で、環境の中で聖霊さまはへりくだっているあなたの中でわきあがる泉のように、「聖」をあなたに与えます。あなたはいつも悪習慣やら悪いことから離れて生きることができます。
良好な人間関係
人が人々の中でしか生きて行くことができないのは言うまでもありません。狼に育てられた少女は狼のように生きていたのです。けれども社会は空気のようにきれいなものもあれば、きたないものもあります。そしてそれほど器用に避けられるものでもなく、また簡単に切り捨てることができるものでもありません。もしこのことが解決できたなら積極的な未来志向型の人生が生まれるでしょう。
人間関係はまさに幸福の条件です。幸福な人は新しいことに勇気をもって挑戦します。そのためのアイディアさえ次々に与えられます。人々は感動してあなたに新しい利益をもたらすようなすばらしい情報を持って来るでしょう。一本の矢は折れやすくても3本の矢(糸の例、伝道4:12)は折れにくいのです。人々との協力こそあなたのすることを成功に導きます。
スペイン生まれの91才で亡くなったピカソの残した絵を専門家が調べたところ、本物だと思ったのは間違いで、ずいぶんと偽物が多かったそうです。有名な美術評論家いわく。「彼は知っていたはず・・・偽物からも学ばうとしていたに違いない」。偉大な人は偽物からでも学ぼうと他の人を尊重しています。このような態度が偉大なあのピカソを生んだと言えるでしょう。この話は同時になぜ謙遜が良好な人間関係を生みだすかを教えているでしょう。
謙遜とは「人を自分よりもすぐれた者と思」(ピリピ2:3)うことです。人をほめましょう。まず人の持つ良い点に注目しましょう。次に正直に言いましょう。ほめられると人はそのように行動しようとします。更に将来の希望と夢を語り合いましょう。「このことができそうですね!」。これらは人の可能性を開発するもので、あなたは好かれるようになるでしょう。また同じことを自分にもするならもっと良い結果が生まれるでしょう。ほめられている者同士が悪い関係に入ることはないでしょうから。
生きることへの確信
自分の生に確信のある人は恵まれた人です、「私が生まれて来たことは歓迎されている」というふうに。反対に考える人が少なくありません。「私は呪われている。嫌われている。歓迎されていない。受け入れられていない」という思い込みが不幸を生みます。
神さまはあなたを愛してこの地上に生きる人生をくださったのです。請われて生まれて来ているのです。「いつまでこんな状態のままほおって置かれるのですか?」とつぶやくことは良いことではありません。
ヨハネの福音書9章1節から8節を読んでみましょう。犯人探しよりも未来を追求すべきであると教えています。へりくだるとはこのことをすなおに受け入れることです。神さまがあなたにすばらしいことをしてくださる希望を信仰によって告白しましょう。期待感のあるところに神さまの恵みは現れます。信仰とは期待です。
もし神さまに反抗的なら失敗します。なぜなら自分を裁き、呪って、自分自身を傷つけるものだからです。「私はダメな人間です!」と言いつつ、すべての問題の原因を神さまに押し付けています。それは神さまへの反抗であり、高慢です。サタンがいい例です。「神なんかの下にいられるか!」と恵みの座から自ら離れて行きました。こうして地獄行を自らの運命としてしまいました。
高慢は一種の霊的な力で、私たちを悪い方へ導きます。でも謙遜な人は、素直に、「私の生を支持してくださる神さまに心から感謝します」と言い、神さまのお考えを気持ち良く受け入れます。こうして生きる確信が与えられます。神さまの御手の中にあるとき、だれがあなたに敵対できるでしょう(ローマ8:35ー39)。謙虚な者には常に希望があります。
ほんものの強い人
真理は大声を上げなくてもいいのです。1+1=2です。これを「3です」と言う人がいたとして、あなたは顔を赤くして、夜も寝ないでまでして説得しようとはしないでしょう。真理はそれ自体説得する力を持っています。腕力など要りません。静かに話せば心は動くはずです。ですから真理を持てばとても強い人になることができます。
ところでこの世は弱い人で構成されています。これは悪いこと、悪い習慣と知っていても、やめられません。これは良いこと、良い習慣と知っていても続けることができません。ローマ人への手紙7章15−25節をお読みください。パウロの有名な苦しみの場面が描写されています。でも謙遜な人は強いのです。真理を持っていますから。
イエスさまはご自身を真理であるとおっしゃいました(ヨハネ8:32)。イエスさまを心に迎える者は真理を持っています。あなたが話すとき人々はあなたの心の中に住んでおられるイエスさまという真理によって説得されて行きます。ですからあなたはあえて弱さを認めましょう。弱い所にこそ神さまの力は働きます(第2コリント12:9、10)。弱さを認めることはへりくだることです。昨日、あるいは昨年できなかったことが、今日、そして今年できるようになります。「神はへりくだる者に恵みを与えられ」ます。あなたに主の恵みをお祈りします。
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