47.聖く生きることについて

●聖書箇所[ペテロの第一の手紙1章15、16節]

 「子どもたちは純粋だ!」と言う一方で、大人は「世間は甘くない!きれいな心で、なんて言ってこの世間を渡れるか!?」と開き直っています。もちろん内心は不満を覚えていることは確かです。小さな親切運動が流行ったり、マザーテレサの美しい話に耳を傾けたりするのがその証拠でしょう。
 あなたを愛してくださっているまことの神さまはあなたのたましい(霊魂)の親として、あなたの人生の導き手としてあなたが聖く生きることを強く望んでいらっしゃいます。これこそ本物で真実の人生であるからです。正々堂々とした人間らしい生き方であるからです。
 今回は聖く生きることがあなたに与えるものについて、またどのようにしたら聖く生きることができるかを学びましょう。

生きる確信

 あなたは神さまに愛されています。その愛のあかしがあなたに生きることの確信や喜びが与えられることです。ここで聖の反対、罪について考えてみましょう。
 罪とはヘブル語でハータート、ギリシャ語でハマルティアと言い、目標または道を誤っている意味です。北海道を目指しているのに、大阪行の飛行機に乗っているようなものです。生まれながらの私たちは皆このようです。神さまという羅針盤を見失ったからです。
 ヘブル語にはペシャーという語もあります。これは神さまの親切を拒絶することです。ギリシャ語のアディキア、アノミアは秩序の乱れや不法状態を指しています。この2つのことばは私たちの心と生活とをうまく言い当てています。正しいことであるが故にしなければならない、でもできません。悪いことだからしてはいけない、でもしてしまいます。パウロはローマ書7章でこの葛藤を鋭く描写しています。
 さて以上あげたものを生まれながらの私たちはことごとく持っていて、これが問題です。目標が明確でなく、神さまの親切な愛に満ちた助言も聞かず、かといって自己の内部にも葛藤があり、統一性がありません。こうして私たちは自分の生への確信を失ってしまいます。神さまの愛はこのような現状の私たちに絶えず向けられています。
 父なる神さまは御一人子をこの世界に送られ、このような現状をあなたに代わってこの地上で、そして十字架で体験してくださいました。サンテグデュペリはこう言いました。「愛とは互いに見つめあうことではなくて、同じ方向を見ることだ」神さまはあなたの近くにあなたの友イエス・キリストをお遣わしになり、彼はあなたの負っている課題に取り組み、遂にはあなたに代わって十字架で苦しんでくださいました。ここにあなたの罪は聖められました。
 今小さな勇気をもって神さまのもとに帰りましょう。神さまはあなたを喜んで受け入れ、あなたの生に力強い支持を与えてくださいます。キリストが死なれたのはあなたが生きるためです。イエス・キリストを信じましょう。心に聖さとともに平安も生まれ、生きて行こうとする前向きの姿勢があなたの身近な人々にも伝わることでしょう。

日々新しく

 あなたは日々新しい人として生きることができます。自然界を見てみましょう。草、花、山などなんと美しいことでしょう。宇宙の神秘さは同時に夢を与えてくれますが、日本経済の高度成長はそれらを次々とぶちこわして行きました。そしてそのような動きは本来人間の心から出発しています。正義でなく自己だけの利益を愛し、愛でなく憎しみで心を満たし、最も大事な身近な人々と傷つけあいます。
 ではこうして悪いことをしているから罪人と呼ばれるのでしょうか。そうではありません。罪の性質を生まれながらに持っているからそう言われます。その罪とは「私は神さまなど不要です。一人で生きられます」というものです。これを人類の祖先アダムの罪、原罪と言います。ですから人生の問題とは罪の問題です。それにはどのような解決があるでしょうか。たった一つ、それは赦されることです。罪は一度犯されてしまったら元どおりにすることは不可能です。もちろん時間を逆転させればできるかも知れませんが・・・。
 さてそればかりではありません。罪は犯した本人をはじめに傷つけます。負傷者は治療が必要なのであって、放置されるのは良いことではありません。聖さの反対である罪が罰をすなわち傷をあなたに負わせます。従って罪をそのままにしておくことは常に過去の重荷にあえぎ、苦しみながら生きることになります。そこであなたを愛してやまない神さまは身代わりに罰を受ける方を用意されました。イエス・キリストです。彼はあなたの罪を負われ、苦しまれ、血を流されました。これをあがないと言います。この世界において、まことの神でありまことの人であられるイエス・キリストだけがこの尊い務めを果たすことがおできになります。正真正銘の人間であり、完全無欠の罪のないお方です。神さまはこのようなお方に人類の過去・現在・未来のあらゆる罪を負わせられたのです。
 もしあなたがこの事実を個人的に受け入れなさるなら、そのときあなたの罪はまったく赦され、つまり聖められてあなたはまったく新しい人になります。これは神さまの知恵であり、力です(第1コリント1:18)。神さまは最愛の一人子を捨ててまであなたを愛しておられます。あなたを罪からまったく聖め、以前とは違った人とするためです。その新しい人とは夢を美しくかつ大きく描くことのできる人のことです。心というキャンバスがきれいにかつ真っ白にされたからです(イザヤ書1:18、第2コリント5:17ー21)。

みことばが個人的なものに

 みことばには力があり、その恩恵をあなたはおおいに受けるでしょう。どうして私たちは日常生活の中で争いを多く経験するのでしょうか。自分の欲求を満たすことにあまりにも急ぎすぎるからかも知れません。他の人への思いやりはあるでしょうか。互いの徳を高める事柄にあなたの思いは多く行っているでしょうか。
 神さまのみこころを知りましょう。神さまはあなたが聖く生きることを何よりも喜んでくださいます。神さまの力は聖いところに働きます。世界には世界史があります。東洋には東洋史があります。そしてあなたには自分史、すなわちあなた史があります。神さまはその歴史を一回きりに定めていらっしゃいますが、もし今キリストを受け入れなさるなら、神さまに最も喜ばれる聖いあなた史を今始めることができます。そして世界の終わりのときに神さまはあなたをもろ手を上げて歓迎して下さり、天国に移してくださいます。そればかりではありません。この天国は今もうすでにあなたの手の中にあります(ルカ17:21)から、その祝福を先取りすることさえできます。さらに過去の失敗さえあなたの栄光となります。神さまはあなたを愛しておられ、あなたが十字架によって勝ち取った聖さの報酬としての祝福をお与えになります。こうしてあなた史は勝利します。
 さてここで聖さの発揮される場を考えてみましょう。
第1に心の中に。
第2に使命にです。生きるためには果たすべき仕事や使命があるはずです。
第3に行為においてです。人が見ていなくても神さまは見ておられます。
 神さまの目に耐えられるだけの聖さこそ本物です。このような聖さをくださるお方はただお一人です。父なる神さまから、そしてイエス・キリストから遣わされた霊、聖霊さまです。
 ところで具体的に力を受け取るメカニズムを考えてみましょう。神さまを信じることには2種類あります。神さまの存在を信じること、これが1つ。この場合必ずしも神さまの力と聖さに満たされているとは言えません。聖書のおことばは特定の人に特定の状況で個人的に与えられて、はじめて力を持ちます。この適用をしてくださるお方こそ聖霊さまです。彼は彼自身聖さを属性として持っておられるので、聖さを求める者をどこまでも好いて下さいます。そしておことばをあなたに個人的に下さいます。そのおことばの約束する祝福はあなたのものになります。このような意味で聖霊さまはあなたに語り、あなたに限りない恵みを与えます。