53.希望と勇気の神の国
●聖書箇所[マタイの福音書13章31、32節]
人は弱いもので、困難に直面するとすぐにふさぎこみます。しかも「私は正しいことをしているのに」と思うと余計悲しくもなります。そういう中で「さあ、これをしよう」と思っても障害物はあまりにも大きく感じられます。さらに理解してくれる人も協力者もいないと思えばますます意気消沈してしまいます。失望し、未来が消えていくのを感じます。
しかし私たちのイエスさまはなお希望を捨てずに前進する者を祝福してくださいます。どんなときにも勝利があるのが神の国の国民の特権です。今回はからし種のたとえに学びましょう。
小さくてOK
あなたははじまりの小さなことに不安を覚えますか。どんなに小さくても気落ちすることはありません。あなたが身近に見る偉大なものを考えてみましょうか。質は高く量も多い、圧倒されそうです。さらにその歴史には重みも感じられます。
しかし、ここが重要なところです。つまりすべてのものには例外なく小さな始まりがあります。しかもなんとそれは心の中にはじまります。姿も形もない、これを信仰と呼びます。したがって人々ははじめはその存在に気がつきません。まもなくだれにも見えるように顔を現わし、少しずつ成長し、周囲に影響を与え始めます(マルコ4:26−29)。
からし種の木が例として取り上げられているので、考えてみましょう。パレスチナではよくみかけられるもので、種子は種の中ではもっとも小さいものに属します。からし種はもっとも小さいものの象徴であり、代名詞です(糸杉の種はもっと小さい)。ユダヤ人は犠牲をささげるとき、一滴の血がしたたり落ちて、からし種ほどの少なさと言います。またお祭り(まことの神さまへの礼拝です)をするときに、いろいろな規定がありましたが、その数多い細則の一つを犯したときに、これはからし種ほどの違反だと言いました。確かにからし種は小さなものですが、やがて必ず大きくなることを忘れてはいけないのです。発芽し、水と空気と日光と栄養分(全部が神さまから)を吸収してぐんぐん大きくなります。信仰をからし種にたとえる理由がお分かりでしょう。信仰ははじめどれほど小さくても神さまに育てていただいて大きくなり、また力を得て、必ずあなた自身とあなたの環境とを作り変えて行きます。これが神の国の秩序であり、やり方です。
神の国とは十字架で罪をあがなっていただいた人たちの交わりですが、だれでも今すぐに入ることができます。イエスさまを心の中に人生の主として受け入れましょう。この特権にあずかることができます。こうしてあなたのものになった信仰、それには力があります。あなた自身とあなたの環境とを変えていく力です。神の国に入り、神さまに信頼し、小さなことから始めて行きましょう。
少ない人数?OKです。少ないお金?OKです。小さな技術OK、小さな場所OKです。どんなに小さくてもOKです。信じるあなたには神さまの助けがあります。信仰はまことの神さまに向かうものですから。あなたにとってはからし種ほどのきっかけあるいは働き場で十分です。必ず成長し、それにふさわしい祝福が与えられます。
イギリスであるとき、各国の青年が集まり、「20世紀の世界宣教」について話し合いを持ちました。文書伝道、ラジオ伝道(テレビやインターネットはまだなかった!)などが提案され、それぞれに熱心な検討が加えられました。その中でアフリカの少女はこう言いました。「私たちはイエスさまを伝えたいときには本を送ることはしません。一つのクリスチャンホームを選んでそこに住んでもらいます。村には少しずつ変化が起きてやがて多くの人々の心に信仰の火が燃え上がります」はじめは小さくてもいいのです。神さまに働いていただくきっかけと場を提供しましょう。あとは神さまのお仕事です。
昔一人の人が砂漠で隠遁生活をしていました。あるとき、「ローマに行きなさい」と神さまの召しを受けました。そのローマは当時残酷な風習で満ちていました。彼はコロシアムにやって来ました。そこでは人々は剣闘に興奮し、そのどよめきは天地をゆり動かすかのようです。飛び散る血と不気味に光る剣は群衆を一層興奮させています。彼は思わず剣士たちの間に割って入りました。「互いに神の子たちなのに、なぜ?」はねかえされつつ何度も割って入りました。しかし「じゃまするな!じゃまするな!我々は血がみたいのだ!」という群衆の叫び声の中でとうとう長官の命令が下りました。コロシアムの土の上に横たわっている者が誰であるか群衆は知るよしもありません。まもなくすべてが分かりました。静寂がコロシアム全体を包みます。聖人テレマックスは死にました。そして見世物としての剣闘もなくなったのです。多くの若い命が救われました。
あなたにとってはときに苦しい一歩のときもあるでしょう。でも勇気をもって信仰をもって進む者を主は祝福してくださいます。
あらゆる必要は満たされる
神の国としての教会はあらゆる人々のあらゆる必要を満たせるだけの容量を持っています。あなたがどのような人であっても、どのような状況下にあっても、過去にどんな失敗があり、現在どれほど深く落胆していても必ず助けられ必要は満たされます。そのときまでだれ一人としてあなたをさばくことはできません。一人子キリストをお捨てになるほどの、神さまの愛の大きさが教会の容量の大きさとなっています。
確かにからし種は小さいものですが、成長すると2〜4メートルの高さになり、枝を広げ、黒い果実ができると大空を飛んでいる鳥がそれを食べようとして止まり、また休息の場とします。聖書では大きな木とは、国、帝国、王国の象徴で、宿る小鳥は国民の象徴です。そして国には国民を守る責任があります。からし種から始まった教会は神さまによって成長させられ、すべての人々のすべての必要を満たして行きます。
教会は多様性を持つものです。地上のどの地域教会(実際に目で見える、通常「あっ、あそこに教会がある」というときの教会です。また過去現在未来という時間を超えて、また地域という空間を超えて合計された教会のことを普遍教会あるいは公同教会と言います。これは世界に一つしか存在しません。プロテスタント教会、カトリック教会、ギリシャ正教会などすべてのキリスト教会を総合したものと考えたらいいでしょう)も、真理は我々にだけあるということはできません。真理の独占は不可能です。イエスさまは幹で、各地域教会は各枝です。イエスさまだけが真理自体、真理本体であって、各地域教会は真理のいくつかの面を表わしています。ですから正しいキリスト教会は互いに否定したり、批判したり、さばいたりはしません。互いに助けあって賜物を交換しあってすべての人々の必要に答えます。こうして教会はあなたがいかなる人物であり、いかなる必要を持っていても応えることができます。
また信仰の入り方がさまざまなら、持ち方も同様です。とすると恵みの受け方も違いがあるに違いありません。互いに学ぶことができるでしょう。イエスさまはあなたを愛して十字架に死なれました。あなたは世界でただ一人の貴重な存在です。その貴重なあなたの抱えている問題がたなざらしになっていていいはずがありません。イエスさまはこうおっしゃりたいはずです。「私に代わって私の命を生きなさい。その命はあらゆる必要に満たされた命です。私はあなたが教会において信仰を得、それによってあなたがあらゆることにおいて満足することを願っています」
イエスさまの十字架の死は、あなたとあなたの生活から罪の呪いやさばきが取り去られ、恵みに満たされて生きるためです。神さまはあなたを愛しておられます。恵まれた、本来のすばらしいあなたを生きてください。あなたが主の豊かな祝福の中を歩まれますようにお祈りしております。
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