60.真理の霊と偽りの霊
●聖書箇所[ヨハネの第1の手紙4章1ー6節]
「愚公、山を移す」話があります。中国の殿様が、家の前にある2つの山がじゃまだと言って、結局別の場所に移してしまいます。成せばなるという教訓です。この話に対して毛沢東が新しい解釈を施して、「2つの山とは帝国主義と封建主義である」と言いました。だれがどのように解釈しても自由ですが、この山は移すべきであるかどうかの判断は非常に重要です。一生懸命に働いて山は動かしたが、実はその必要はなかったとしたら、まったく愚かなことです。判断することは非常に重要な作業です。世界には真理の霊と偽りの霊が存在し、前者の助言に従えば安全な人生ですが、後者は私たちを混乱させます。前者は聖霊(神)の道、後者は悪魔(悪霊たちは彼の子分)の道です。聖書は真理の霊に導かれて、正しく判断して行くことができるとしていますが、それはイエス・キリストを告白する霊であるからであるとも教えています。どのような意味かご一緒に学んで参りましょう。
罪の赦しを告白する霊
だれにも隠れた罪意識があります。なぜならすべての人は罪人ですから。だれにも言えない、その罪は心の中でチクチクと刺して、執拗にその痛みは続きます。これは霊の働きです。真理の霊である聖霊さまがこれをなさるとき、人を悔い改めに至らせ、神さまに立ち返らせます。霊を見分けなければなりません。偽りの霊はあなたを責めるだけであり、袋小路に追いつめて、いらいらさせ、反抗的な態度やらあきらめの生活に追いやります。悪事を働いたが正直に告白した子どもをなお叱りつけ、よりいっそう反抗的にしてしまうのと同じです。こうして偽りの霊はまことの神さまに立ち返る道を完全にふさぐ働きをします。そればかりではありません。私たちの葛藤を心の中にだけ閉じ込めておかないで、兄弟姉妹たち、家族、環境など周囲を責めるように導きます。
マリヤとマルタの姉妹はイエスさまを家に迎えますが、マルタは忙しく立ち働き、マリヤはじいーっとイエスさまの足元に座り聞き入っています。マルタは妹を訴えます。「少しでも手伝うように言ってください」マルタは霊的なことがらについてよく分かっていません。隠れた劣等感を持っているからです。兄弟ラザロを生き返らせるという、イエスさまのわざを知りながら、罪の赦しを体験していないことから来る隠れた劣等感と罪責感が彼女をしてマリヤを責めさせたのです。家事の煩雑さの中になんとか隠そうとしますが、成功せずに結局人を責めざるを得ませんでした。
偽りの霊は自分と人とを責めさせ、憎ませ、関係者を次々に袋小路に追いつめて行きます。しかし真理の霊は罪を指摘することはしますが、決して追いつめはせず、逃げ道を用意し、すなわち「イエス・キリストがあなたの罪を聖めてくださった」と宣言します。神さまの愛と誠実とを知りましょう。逃げ道なく解決の方途なく、真実だけを告げるのは愛ではありません。イエスさまは十字架においてあなたの罪を負われ、これを受け入れ信じるあなたにすべての罪の赦しを宣言するのです。もはやあなたを責める者はだれ一人いません。たとえあなた自身であってもあなたをもはや責めることはできません。あなたのすべての罪は赦されました。
未来の希望と約束とを宣言する霊
偽りの霊は現実の悪い環境に目を向けさせます。はじめ、ガラテヤ人は外見上まったく風采のあがらぬパウロに心を開いたのです。彼自身を見ないで、彼の語る神さまを見て受け入れたのでした。しかしまもなくパウロは拒絶されます。何かをきっかけにパウロという人間の外面の方が注目されるようになりました。彼らは誘惑されました。
私たちにとっても厳しい現実は私たちの内側を弱らせ、未来に希望を持てなくさせます。悪い現実を凝視させるのは偽りの霊であることを知りましょう。信仰者が見るべきは未来の約束です(ヘブル11:1)。信仰とはいまだ見えないものを、すでに存在する、と信じることだと定義されています。この信仰はときどき間違えられるように、信じる自分を崇めるのではなくて、イエスさまを崇めることにより養われるのです(ヘブル12:2)。
イエスさまとともに十字架に釘づけられた強盗の一人は、悪い現実や過去を見ないで、イエスさまと自分の未来だけを見ました。ですからイエスさまとともにパラダイスに行くことができたのです(ルカ23:39−43)。私たちの信仰の父であるアブラハムも未来を見続ける信仰によって、約束の実現すなわちイサクを得ました。神さまは真理の霊を受け入れる者を祝福してくださいます。
永遠の価値を告白する霊
イエス・キリストのくださるものは永遠の価値を持っています。ところが偽りの霊は一時的なものをもって、永遠のものであるかのように錯覚させて私たちを喜ばせます。
イエスさまは荒野の誘惑において、この世界の栄華を見せられた後、「私に従って来るなら、すべてをあげよう」とサタンに話を持ちかけられました。私たちの主イエスさまはこれをみことばによって退けられました(マタイ4:1−11)。
受け取るべきは朽ちて行く地上のものでなく、永遠のものでなければなりません。人の弱さは目先のことに気を取られることでしょう。子どもの場合にこの傾向が顕著に現われます。安っぽくても見かけの良い、そして甘いお菓子となら何でも平気で交換してしまいます。価値の判断ができません。目先のことに囚われて最も大事にすべきことを忘れてしまう。これこそ偽りの霊の働きの成果です。最も大事なものとはいのちです。しかも永遠に生きるいのちです。永遠の幸福そのものであるいのちです。
また偽りの霊はこの世の知恵によって「良いもの」を得させようとさせます。ダビデはサウル王に妬まれ、何度か槍で殺されそうになりました。あるときサウルから追いかけられているうちに、逆に殺せる状況に置かれることがありました。忠実な部下は、「今こそ倒す時です」と勧めましたが、彼は、「神さまのお立てになった方に手を下すことはできない」と言いました。やがて神さまご自身がサウルを退けられ、ダビデは王になりました。神さまの下さる祝福は地上に始まり、永遠の価値を持つものです。しかし偽りの霊は神さまのこの祝福をあなたから奪おうとしています。さらに彼は、正当でない自己弁護をさせます。「私はどうせこんな人間さ。これでいいんだ。高望みはしない。人生なんてこんなもんさ」厭世的な告白をさせて、あなたのいのちを殺しにかかります。
あなたは神さまに造られた、すばらしい立派な作品であり、軽んじられてはいけません。ですから真理の霊はあなたの心の中で、あなたのいのちを守ろうとしてあなたをしてこのように語らせてくださいます。「私は大切な人間だ。神さまに愛されている。私は自分のいのちを粗末にはしない。人生の質を高め、神さまに喜ばれよう」
勝利する人生はこのように真理の霊と偽りの霊とをよくわきまえることから始めることができます。神さまはあなたを愛して、以上のような人生の指針をくださいました。神さまの愛に応えて参りましょう。
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