61.疑いと信仰

●聖書箇所[ヨハネの福音書20章27節]

 かつて、ある食堂でテーブルの上に置かれてあった調味料の容器の中に青酸カリが入れられるという事件が報道されました。恐ろしいことをする人がいるものです。これは信頼という、人間社会の最も基本的なルールを破壊するものです。信仰生活も同様であって、完全に良いお方、神さまを信頼(信仰のこと)するというルールの上に成り立っています。ですからもし神さまを信じることができない時が生じるなら信仰生活は停滞してしまいます。平安は失われ、さらに加えられるべき新たな神さまの祝福を受け損なってしまいます。あなたの心は暗く否定的なものに覆われて行くでしょう。今回は疑いの原因とそれを克服する方法を学んで恵みを分かち合いましょう。

疑いの起源

まず疑いの起源について考えましょう。
第1に神知識の不足

 私たちは知識というと概念を考えてしまうかも知れませんが、ヘブル語でヤーバ、ギリシャ語でギノースコーと言われる知識はそのような意味ではなくて、「体験的に知っている」または「交わり」を指します。十分に神知識を持っているとは、神さまと親しい交わりがあるということです(出エジプト33:13)。
 弟子であるトマスはもう3年近くも信仰生活(イエスさまとの交わりの生活)をしていたはずでしたが、この意味における知識が十分ではなかったのでしょう。疑いは神さまとの交わりの不足から生まれます。エバが神さまのおことばを信頼しなくなったとき、彼女の交わりの相手は悪魔でした(創世記3:1−7)。悪魔は当然否定的です。したがって私たちも否定的になります。神さまを礼拝する、みことばを読む、ささげる、祈ることなどをやめるとき疑いの渦中に入ります。

第2に、不健康

 痛みや病気は心を健全でなくさせます。信仰とは希望の未来を見ることですから、疑いつつ現状に留まることは神さまのみ心ではありません。エリヤは450人のバアルの預言者たちとたった一人で対決し、勝利を得ました。しかし、この勝利者はたった一人の女性の声におびえることとなります。からだは先の激しい霊的戦いの後、衰弱していました(第1列王記19:5)。心身いずれであっても不健康のときには偉大な信仰者にも疑いが生まれます。

第3に、悪い環境

 困難や試練に出会ったときに疑いが激しく襲います。ペテロには一番弟子としての自負心がありましたが、師であるイエスさまが逮捕されるやおびえて裏切ってしまいます。彼には全世界がイエスさまを憎むという悪い環境に耐える力がありませんでした(ルカ22:54ー62)。あまりにも厳しい環境は疑いを起こさせます。

第4に、不道徳、不従順の罪。

 詩篇51篇10−12節はダビデの必死の叫びです。神さまに選ばれ祝福されていた彼でしたが、誘惑に負けて人妻バテシバを奪い、その夫ウリヤを殺してしまいます。神さまから棄てられる恐れに満たされ震えています。疑いは隠れた罪から生まれます。

疑いの克服

次にいかにしてこの疑いを克服して人生に祝福を招き入れることができるかを考えて行きましょう。
第1に、自分が疑っていることを率直に神さまに向かって認めましょう。

 「神さま、なぜでしょうか?」と問うことは決して恥ずかしいことでもなく、罪でもありません。イエスさまも「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?」と問われました。あなたの、ごまかしでない、真実の態度を主は喜んでくださいます。幼子のように「なぜ?」と問うてみましょう。
 しかし同時にこの質問をぶつける相手は人ではなくて、天地の造り主、まことの神さまでなければならないことを知らなければなりません。人に尋ねるなら人の答えが帰って来ます。信頼し、受け取るべきは神さまのおことばです。お約束です。人は愚かであって間違いをしやすく、また結果に対する保証はまったくできません。神さまは違います。すべてを益としてくださるし、その力もあります(ローマ8:28、ルカ1:37)。
 アダムは堕落後すぐに神さまによって尋ねられました。「あなたはどこにいるのか?」このとき彼は裸の、つまり真実の自分を隠しています。これでは神さまの祝福にあずかることはできません。神さまはあなたを愛していらっしゃるのであって、裁こうとしていらっしゃるのではありません。あなたにはイエスさまのあがないがあります。あなたのすべての罪は赦されています。恐れることはありません。神さまは、罪を正直に認めて悔い改め十字架のあがないを信じるあなたを、御子を棄てるほどの大きな愛で包み受け入れてくださいます。

第2に、神さまがあなたを愛してくださっていることの証拠を覚えていましょう。

 あなたが受けた数々の恵みやみわざを思い起こし感謝しましょう。そうすれば「確かに私は神さまに愛されている!」と知ることができます。
 三浦綾子さんは自らを「病気の百貨店」と名付けられました。多くの病気を経験されたからです。彼女はこうも言います、「神さまが私をえこひいきしていらっしゃる」。
 あなたにとって最高の恵みは救われたことです。永遠のいのちが与えられ天国人とされたことです。救いとはすばらしいものです。永遠のいのちとはすばらしいものです。永遠ですから、過去にさかのぼって、あなたの働いたすべての良いことは正確に記録され、悪いことや失敗は十字架のあがないによって無かったものとされます。もちろん未来もすばらしいものです。今からあなたは良い種を神さまの助けによってたくさん蒔いて行きます。あなたはそれを刈り取ることができます。それはあなたのものです。こうして愛の神さまは確かにあなたの人生に今も生きて働いていらっしゃると知ることができます。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)とはイエスさまの、見なければ信じないと言った弟子トマスへ向けてのことばです。でも見るなら信じるべきです。愛の証拠を見るなら信じるべきです。イエスさまの地上生涯は証拠を残す生涯でもありました。そしてイエスさまご自身こそ最高の、神さまの愛を示す証拠です。イエスさまはあなたの罪の罰を身代わりに受けて十字架に死なれたのです。神さまの愛を確認するとき、あなたからすべての疑いは去り、神さまへの信頼感は回復され、平安を再び経験し、生きることへの確信が戻ってきます。

 第3に、現在の悪い環境を見ないで未来を見るようにしましょう(ローマ8:28)

 環境を信じてはいけません。それはいつも変わり得るものです。今日中国は共産主義に支配され、信仰の自由が大きく制限されています。しかし、家の(地下)教会は迫害にもめげずに熱心に活動し、5千万人から1億人のクリスチャンがいると言われております(政府公認のいわば観光用宣伝用の教会[三自愛国教会]は全土の信者数を300万人と主張しますが、これは彼らだけの信者数です)。外国人に迫害を同情されたある指導者は「感謝しています」とあかししました。
 パウロも投獄という、人間的に見て否定的な環境をむしろ喜んでいます。彼にとっては現在の環境の善し悪しは問題ではありません。むしろ環境の奴隷にならずに自由人として未来に生きている方が価値があり、また魅力的であるのです(またそう考えるからこそ再び身体の自由を回復したとも言えるでしょう。パウロは牢獄から解放され自由の身になりました)。信仰とは未来に新しい環境を生み出して行くものです(ピリピ4:4、12、ヘブル11:1)。神さまを疑わずに信仰(信頼)をもってすばらしい未来を勝ち取って参りましょう。


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