62.人生の落し穴3題

●聖書箇所[ローマ人への手紙8章28ー39節]

 「一敗地に塗る」とは中国・秦の末期、乱世期に住民に向けた劉邦の警告のことばです。すなわち、もし指導者を選び間違えれば、私たちは「一敗地に塗れ」2度と立ち上がることができないと言っています。人生を進める上で信頼できるリーダ−を得ることは非常に大切です。
 ところで世界の2大リーダーとはまことの神さまとサタンです。ともに人間の力を凌駕しています。もちろん私たちは聖霊さまのあかしによって神さまこそ従うべき唯一のリーダーであると知っています。しかしサタンは彼自身の存在や彼の目的が人々の人生をみじめな敗北へ導くことであると明らかにしようとはしないので、私たちは知らず知らずのうちに、サタンの考えに沿って生活していることがあります。
 サタンはどのような武器を使うのか、特に3つを選んで学んでみましょう。これらのものは辛いとき、悲しいとき、寂しいときなどに容易に私たちの心の中に出現するものです。でもだれも何事も「私たちの主イエス・キリストにある愛から、私たちを引き離すことはでき」(39)ないはずです。あなたは「神を愛する人、神のご計画に従って召された人、神がすべてのことを働かせて益とされる対象の人、栄光を与えられる人、神に選ばれた人、御子をさえも惜しまずに死に渡される対象の人、義と認められた人、イエス・キリストによってとりなしをされている人」であるからです。決してサタンに負けるはずがない、また負けてはいけないのです。

あきらめ

 巷に溢れる離婚の話、自殺、目的のない離職、絶交、心中、蒸発などこれらすべての悪いことはあきらめから生まれます。なぜこのようなことになるのでしょうか。それはあきらめの持つ性質から来ています。

 第1に、あきらめはすぐ上の、身近な目標を放棄させます。だれも小学校を飛び越して中学校に入学することはできません。物事には順序、過程があり、人生も今私たちが置かれているところを出発点とし、すぐ上の目標を達成しつつ自己を成長させるものです。
 フォードが自宅の庭に小屋を置き、第1号車を寝食を忘れて組み立てていました。しかしやがて疲れます。というのは作っているうちに次々にアイディアが新しく湧いて、きりがなかったから。彼は冷静になって考えました。今ここで第1号車を放り出したら永遠に第2号車は生まれて来ないだろう。彼は忍耐して遂に完敗させました。すぐ上の或いは身近な目標をあきらめないで追い求め続ける者には限りない前進があります。

 第2に、あきらめは神さまと兄弟姉妹の愛を棄てることだからです。「愛は死よりも強い」(雅歌8:6)とあります。愛の持つその強い力に期待して忍耐するところに勝利は生まれます。神さまは必ず私の願いを実現してくださると信じて忍耐すべきです。人の目に見えなくても確かに水面下では神さまは働いていらっしゃることを信じてください。あなたのために、イエス・キリストも(34、ルカ22:32)、兄弟姉妹も愛をもってとりなしの祈りを捧げています。とりなしの祈りには力があります。あきらめないで神さまが立ち上がって下さる時を待ちましょう。

 第3に、あきらめは勝利者である神さまの子としてはふさわしくない態度です。あきらめる人の歩き方は力なく、ぎごちなく、目はうつろで、心は萎えています。サタンの惑わしにだまされずにあきらめないで、聖霊さまの下さる希望と保証を信じ、口で大胆に告白し人生を勝利させて参りましょう。

不平不満とつぶやき

 つい他の人と比較してしまう性格は罪人に先天的に備わっています。セールスマンは売るときに「隣の奥さんもお買いになりましたよ」と言います。他の人と比較することは苦々しいことでもあります。自分のペースを守ることができません。あの人に与えられているものがどうして私にはないのか。このように焦る気持ちは辛いものです。今与えられているもので満足しましょう(第1テモテ6:6ー8)。信仰があれば十分です。信仰者には天国の約束が与えられており、信仰とは天国の恵みを実現する手段です(ヘブル11:1)。不平不満とつぶやきの性質を考えてみましょう。

 第1に、神さまのご臨在を無視します。イスラエル人は昼は雲の柱、夜は火の柱によって荒野の旅を導かれました。私たちの生きる新約時代にも神さまの導きはあります。それは父なる神さまとイエスさまとから派遣された聖霊さまです。信じる者には内住してくださるこの方は、あなたが不平不満とつぶやきをやめるとき、あなたのかけがえのない人生の導き手となってくださいます。

 第2に、それはサタンから来るものであるために神さまの約束を軽蔑させます。イスラエル人のエジプト脱出に関わる恵みはすべて神さまが約束を忠実に履行された結果です。でもつぶやく人はすべての恵みを否定的に悪意をもって理解してしまいます。美しく豊かな土地への希望は消え(詩篇106:24、25)、呪う唇だけが残りました(出エ14:11)。感謝は貪欲に変わりました(民11:6)。
 不平不満とつぶやきは神さまを失望させ、その働きを制限させ、私たちから喜びと前進する力を奪います。感謝する心を養いましょう。これまでの恵みを教え上げましょう。神さまは前進する勇気と新たな恵みを増し加えてくださいます。(マタイ25:23.29)

人の悪意に悪意で立ち向かうこと

 第1に、悪意で人に向かうことは、あなたを愚か者にしてしまいます。身長が3メートルもあるゴリアテはペリシテ人の代表としてイスラエルに挑戦したときに、ダビデに向かって「たかが羊飼いではないか!」と罵りました。更に「髭のはえてない素足のこども」、「石ころしか持たない者」とも言い、軽蔑して悪意を見せました。けれども神さまはダビデを守り、勝利をお与えになりました(第1サムエル17:1−54)。ダビデはこうして神の箱とともにエルサレムに凱旋しましたが、からだ全体で表わした喜びを妻ミカルは軽蔑の目で見ました。彼は神さまがともにおられる喜びと信仰とを率直に表現しているだけです。妻には一生子どもが与えられませんでした。
 あなたの生き方や信仰生活や祈り方に抗議をする人がいるかも知れません。また喜びの表わし方に異議をさしはさむ人がいるかも知れません。もしあなたが同じように悪意で悪意に報いるなら、あなたも愚かな人になります。
 ナバルがダビデを軽蔑したことがありました。財産家のナバルはかつてダビデに世話になったことがありました。でも彼は恩知らずなのです。あるときダビデは若い者を挨拶に遣りますが全く無視されます。このときばかりはいつもの冷静さを忘れて怒り狂います。愛の神さまはサタンに誘惑されているダビデを憐れみ、ナバルの妻アビガイルの賢さによって愚か者になることを免れさせ、彼は大きな罪を犯すことから守られました。神さまを信じる者には常に助けと恵みがあります。ですからいつも目を覚ましていましょう(第1サムエル25:1ー42、第1ペテロ5:8、9)。

 第2に、悪意で人に向かうことは人を裁くことであり、自分を神さまの位置に置くことです(出エジプト20:2、ローマ12:19−21)。いかなる人といえども、人を裁いたり、復讐したりしてはいけないのです。私たちは互いに一人残らず罪人であり、すねに傷を持つ者です。私たちは人々の置かれている環境、状況を正しく判断する能力に欠けています。もしかすると非常に同情すべきことかも知れません。とすれば裁いてはいけないどころか、助けてあげなければ隣人としての責任を果たしていないことになります。神さまはあなたを愛しておられるばかりでなく、あなたの兄弟姉珠をも隣人をも愛して御子キリストを十字架において死なせられたのです。もしもあなたがこの神さまの愛の故に兄弟姉妹を愛し受け入れなさるなら、あなたも神さまと兄弟姉妹隣人に受け入れられ、平安と勝利の人生を歩むことができるのです。


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