66.メッセージの上手な聴き方
●聖書箇所[マタイ13:53〜58、ヤコブl:21] 人の話を聞くことはとても良いことです。第1に日頃必要な判断を下すために参考となるいろいろな情報を得ることができます。第2に話をなさる方を愛してあげることになります。人は自分中心に物事を考えていて、無意識のうちに自分の必要のために話をします。聞いてあげることはその人の存在を歓迎してあげることであり、愛です。
しかしここに同じ人の口から出る話でも全く違ったものがあります。それがメッセージです。今日はメッセージの上手な聴き方について学びましょう。というのは同じものを聞いてもある人は恵まれ、他の人は恵まれないからです。イエスさまにも同様のことがありました。今日の聖書箇所で、イエスさまのメッセージに人々は恵まれずに帰って行きます。なぜでしょうか。こういう言いかたがあります。「礼拝のメッセージの半分は会衆がする」恵みを受ける聴き方を学びましょう。
偏見を持たないで、心を開く
イエスさまが30年近く住まわれた郷里ナザレにお帰りになったときのことです。人々は馬鹿にして相手にしません。「なんだ!あいつじゃないか!」イエスさまの少年時代、青年時代を人々はある意味でよく知っていました。でもこの親密さがあだになります。当時の会堂には会堂管理者がいて、説教者を自由に選ぶことができました。イエスさまも彼の許可を得てメッセージをなさったはずです。この時の人々の反応がこの箇所に出て参ります(54〜56)。イエスさまのメッセージに欠点があるはずがありませんから、人々の方にこそ問題点はあると考えられます。偏見です。第1に「この人は大工の息子ではありませんか」。「大工」とはギリシア語でテクトーン。船や家などを作る技術者で、それなりに評価を受けた呼び名ですが、大工が霊的なことがらや真理を伝えるメッセージなどできるはずがないと人々は思い込んでいます。外面から不用意にも多くのことがらが判断されてしまっています。こうして彼らはイエスさまにつまずきました。
第2に「彼の母親はマリヤであって、彼の兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちと一緒にいるではありませんか」この時には父ヨセフはすでに亡くなっていたようです。イエスさまは一家を背負っておられ、母子家庭への偏見も考えられます。母のマリヤも普通の母親。人々の反応は「充分な教育も受けていないだろう。性格的にも変人」などなど。正しい生活をしていても周囲の目は大変厳しいものです。
偏見はどのようなものであろうと、メッセージの恵みを捨てる大きな原因となります。「キリスト教とはこんなものだ!」と決めてかかっているなら、それ以上心の中に何も入れることはできません。水を満たしたコップにいくら注いでも溢れるばかりです。このような偏見は、自分自身に対しても向けられています。「私は何の役にも立たない、意味がない人間だ!」「話の内容はすばらしいとは思うが、私に対してはどうせ何の力もない」「今までどんな話も役に立たなかった」という先入観念や劣等感です。もしこの殻を破らないとすると確かに何事も良いことは起きはしません。イエスさまは「そこでは多くの奇蹟をなさらなかった」のです。あらゆる偏見を捨てて、心を開いてメッセージに耳を傾けましょう。だれに心を開きますか。神さまです。
ところでメッセージは人を通して伝えられます。その人とは牧師の場合もあれば、信徒の指導者である場合もあります。しかし選ばれたのは何か優れた人物であったとかの理由ではなく、ただ神さまのあわれみと主権による召命です(1コリント1:27)。ですから説教者に何ひとつ誇れるものはありません。ただ神さまのご命令に従ってメッセージを取り次ぐのみです。パイプであり、器でしかありません。パイプや器の見てくれによらず、神さまのメッセージとして心を開きましょう。
どうしたらそれができるでしょうか。神さまの愛を知ることです。私のような者を愛して、御子キリストを十字架に付けてくださったという愛の体験です。「北風と太陽」の話のように私たちの心はあたたかさによってのみ開きます。神さまの愛を知ってすべての偏見を捨て、メッセージから恵みを引き出して参りましょう。
聖霊さまを通して理解
イエスさまのメッセージがなされている間、雰囲気は悪かったのです。期待のない所に恵みはありません。聖霊さまが働かないからです。メッセージを聞く所では期待感によって明るい雰囲気を作らねばなりません。期待感は愛が生み出します。愛のない所に恵みはありません。いつも来ている人が今日来ていないことに心を痛めなかったり、憎み合っていたり、いどみあっていたりしてはいけないのです。互いに思いやりを持ち、試練に会っている人のために祈りましょう。弟子たちがイエスさまに、生まれながらの盲人に関して質問したことがありました。「先生、なぜこの人は盲目に生まれついたのですか?」「神さまのわざがこの人に現れるためです」彼は癒されました。試練に打ち勝った人も応援する人も立派な信仰者となることができます。神さまの全能のお力を信じましょう。否定的な思いとことばを捨て、サタンの計略に乗らないようにしましょう(ヨハネ9:1〜23)。
さらに聖霊さまによって理解することについて考えてみましょう。メッセージとは何でしょうか。神さまのおことばである聖書が語られることです。聖書は読めばその意味が分かるはずですが、現代に生きる日本人、男、女、学生、会社員、主婦などという具体的な対象に対してできるだけ状況に即して語られるのが、メッセージです。つまり聖書は一般的なことしか言っていません。
昔ヨシュアがイスラエル人の指導者でありながら気落ちしていたときに、「雄々しくあれ、強くあれ」と神さまは励ましてくださいました(ヨシュア1:6)。これは私たちにとっては一般的原則です。なぜなら直接的にはヨシュア一個人に向けてのことばですから。
私たちは個人的な助言を求めています。メッセージにおいて(聖書を読む時も同様です)個人的助言を与える役割は、ゼロではありませんが、あまり多くは説教者にはありません。ではだれが?聖霊さまです。イエスさまを心に受け入れて聖霊さまをあなたの中に住まわせましょう。聖霊さまが20世紀の現在地に住んでいるあなたに個人的に語ってくださるとき、そのおことばはその通りに成就します。神さまの子は常に聖霊さまに導かれていなければなりません(ローマ8:14)。聖霊さまのお声に敏感になってメッセージを聞きましょう。そのためには、良く考え、おことばを反すうしつつ、現実を踏まえながら、祈り心と謙虚さとを持って理解するようにしましょう。あなたが思索する、考えることの根拠は知性と良心をもった神さまがあなたの知性と良心とに語ってくださるからです。イエスさまを信じる者には聖霊さまによって聖められた知性と良心があります。ですからいわば感応します。直観でもあります。また超自然的なお声もあります。多くの場合良心に語られる声を聖霊さまの声と受け取るのがいいでしょう。平安があるはずです。ただしいずれもみことばの主張する範囲においてのみそうです。その助言を実行しましょう。聖霊さまのくださったみことばであり、助言であるなら行動する力も同時に備わっています。信じていることなら行動することができるとはこのような意味です。そして行動の結果得られた実はあなたのものです。あなたに神さまの豊かな祝福をお祈りします。
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