70.祈りの障害物
●聖書箇所[イザヤ59:1] 神さまは恵みのお方です。したがってそのご性質から、祈らずとも −なんと不思議なことに、あるいは太っ腹なことにと言ったらいいでしょうか− 恵みは与えられます。しかしお祈りという方法を採用することによってさらに豊かに与えられます。多くの人がこのことを充分に体験しないでいます。その原因というのが祈りについてよく知らないというものです。
アメリカのテキサス州に広大な土地を持つ人がおりました。草木もなく、砂漠のような土地で、わずかな数の家畜を飼って細々と暮らしておりました。老人になった頃、石油会社の調査によって大油田が発見されました。彼は宝物の上にいるとも知らないで貧しい生活をしていたのです。
あなたは恵みの宝の上で知らずに時を通ごしてはいないでしょうか。もっと多く与えられるはずと思いつつ恵みが少ないのはお祈りが足りない場合によくあります。今回はお祈りを妨げるものを退治すべく学びましょう。
へたであること
決して祈りは「自然」に上手になるものではありません。「自然」とは老荘思想から来る考え方であって、ものそれ自体に動く原因があるというものです。でもお祈り自体に独立したいのちやら力があるわけではありません。祈りとは手段です。工夫することが肝要です。インドに来ている宣教師の子どもがハーモニカを買って来ました。しかしうかない顔をしています。お母さんが訳を尋ねると、「ボク、だまされたよ!これはいくら吹いても英国国歌が出てこないよ!」と答えました。同じくインドに宣教したスタンレー・ジョーンズはこう言いました。「我々は祈りの練習をしなくても、答を得られるものと思いやすいものだ」
ではへたな祈りとはどんなものでしょうか。それはみことばをよく読まない、つまり神さまから聞く姿勢に欠けているというものです(マタイ6:7、8)。祈りは会話であると言われながらも、神さまの側からの語りかけがなければ、あるいはあっても聞かなければ一人言です。祈りは呼吸であると言われるのに吐く一方なんてことはありえないはずです。みことばをよく心に蓄え、反すうして、よく考えましよう。めいそうしましょう。ときには長く静まっていなければなりません。熱心な者を主は愛してくださるからと言って(マタイ7:7-11)、1時間祈ろうという時に1時間しゃべりっぱなしが熱心であることの証明になる訳でもありません。
ウイリアム・ジェプスはイスラム教の国シリヤへの宣教師でした。一生懸命に働きましたが、全くと言っていい程実りのないと思われる年月でした。でも神さまが悪いのではなく、私が悪いのだと思い、みことばを読み続けました。ある日のことです。エリコの落城の記事にぶつかりました。ラッパが吹かれると城壁が崩れたという例の話しです。神さまが直接干渉なさった典型的な例です。とっても心に強く感じる所があり(ここで彼は聞きました)、彼は悔い改めます。「私はいままで神さまの出番を奪っていた。私が救おう、私がイスラム教徒を改心させようと私はいつも祈って来ていた。よし新しい祈りに変えよう。『神さま!彼らを改心させてください。そして私にできることがあったら教えてください。何でもしますから』」彼は新たな気持ちで祈りのリストに名前を書き入れました。3通間後どの人も救われました。
罪があること
詩篇66篇18-20節をお読みください。罪はお祈りのためには全く大きな障害物です。特にどんな種類の罪が問題でしょうか。 第1に不信仰をあげることができます。「どうせ祈ってもだめさ!何も起きやしないさ!神さまなんか何もできやしない!」というものです。 あるところで長い間雨が降りませんでした。そこで雨が降るように特別祈祷会をすることになりました。村中の人が教会にやって来ましたが、その中に一人の少女がいて、抱えられるだけのいっぱいの雨傘を持ってやって来ていました。多くの大人は「このカンカン照りの時に、何を余計なものを持って来たのか!?」とあからさまに嫌な顔を見せました。使女は怒りました、「雨が降るように祈るっていうのに!」。人々は信じていませんでした。
ある教会の前に土地があり、購入した人が挨拶にやつて来てこう言いました。「酒場を作ります」「いいえ、とんでもありません。教会の近くに作るのはいけません」「私の土地ですから自由でしょう」「いや、あなたは絶対に建てることはできません」こう答えた教会員は奥さんに言いました。「今日から3日間断食して祈るからだれも部屋に入れないでほしい」3日後勝利の確信が与えられました。まもなく教会は霊的に激しく燃えあがり、次々に人々が救われるようになり、その初穂こそ酒場を建てると言った人でした。
第2に偶像礼拝。それは目に見えるものとは限らず、まことの神さまに代わるものを拝む一切です。偶像には何の力もありません。力のない物に祈っても無意味なことです。
第3に人を愛さず、赦さず、憎むこと。心は汚れて正しい祈りができなくなります。聖くない者の祈りは聞かれません(ヤコブ5:16)。
第4に、高慢と不従順。祈りなくしてすべての恵みが与えられるとすれば(現に多くの人々が自分の力によって生きているかのごとく思い込んで神さまを認めようとしません。いったいだれがいのちを与え、それを維持しているのでしょう)、サタンと同じ運命となり、地獄へ行かねばなりません。お祈りどころではありません。
罪はどうして神さまからの恵みをストップさせるのでしょうか。持っている性質がそうさせます。罪とは自我のわがまま、エゴイズムです。自分のことしか考えません。切り捨てられ無視されていい人など世界に一人もいるはずがありません、でもエゴイズムは他者に関して考慮せずに愛も思いやりもありません(マタイl8:14)。祈りは本来神さまのみこころを実現させるものであり、罪の進む方向とは全く異なっています。すべての罪を憎み、捨てて参りましょう。あなたも隣の人も恵まれて行きます。
余りに知性的であること
もし奇蹟や不思議を信じないなら祈りに力はありません。努力だけですべてが可能なら祈る必要もありません。ハーベストタイム(TV福音番組)ホステスのヨアンナさんのお父さんはかつてスイスの製薬会社の日本支社長でしたが、後に宣教師として来られた方です。日本人(ヨアンナさんのお母さん)と結婚されましたが、2人はどんなときにも心を合わせて祈りました。ある時お財布に5円しかありませんでした。ガス屋さんが請求書を置いていきました。例によって2人が祈つていると必要が満たされる確信が与えられました。そこで5円だけを持って家を出ようとしたところ現金書留が届き、それで支払うことができました。
更に感情の伴わない祈りも寂しいものです。人には知性や意志だけでなく、感情も与えられています。もっと情緒豊かな祈りが考えられないものでしょうか。イエスさまはあるときは泣かれ、汗を流し叫んで祈られました。文法に気を取られ、美辞麗句に酔うのは決して利口なことではありません。真実な祈りとは真実な感情の吐露でもあるのです(ヘブル5:7)。神さまはあなたの中にある真実な思いに応えてくださいます。ハンナの祈りは神さまの祭司さえ誤解させるほど感情的なものでした。祈りとは人にではなく、神さまに向けてのものだと知らなければなりません。神さまは確かに生きておられます。ハンナの祈りは聞かれました(第1サムエル1:12−20)。
名説教家ヘンリー・ワード・プリチャードは少年時代に召使が笑いながら祈っているのを見たと言っています。「なぜ?」「恵みを思い出すと嬉しくって、嬉しくって」感情は神さまからのすばらしいプレゼントです。更に熱意に欠けるのも困りものです。ウェスレーは夜間祈り、昼間祈り、とうとう徹夜までして祈り、イギリスは紳士の国になつたと言います。孤児院の経営者ジョージ・ミューラーはこう言いました。「もう少しの辛抱、もう少しの信仰、もう少しの忍耐をすれば、祈りは答えられる」(ルカ18:7)
あなたが障害物を取り除き、祈りの達人となられるようお祈りいたします。
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