71.わたしはあなたがたに平安を与えます
●聖書箇所[ヨハネの福音書14章27節] 平和運動が世界的な広がりを見せています。あちらこちらに小さな?戦争がおこり、それぞれの持つ悲惨さのみならずやがての世界戦争を予想させるからでしょう。平和こそ私たちの願いです。
この平和が私たちの幸福のためにあるなら、もっと身近に欲しいものです。つまり心の中に、家族の中に。それも抽象的でない、観念的でない、実用的な平和が。天地とあなたとを造られた愛の神さまのおこころ(お考え)は完全な平和が、実際的にあなたの心と生活の中に実現することです。今日はどのようにしたらそのようなことが起きるのか、ご一緒に学びましょう。
神さまの愛のカを使う[第2コリント5:14]
ユダヤ人はローマ帝国の圧政下にありましたが、このことは彼らのプライドが許さないことでした。そのためやがて現れるとされるメシヤに対しては軍事的、政治的力を期待するようになります。これはイエスさまのお弟子さんたちにおいても同様でした。「先生はまもなく立ち上がってくださる!この地上に正義がやって来る!私たちは解放される!」と彼らは考えていました。私たちの心に正義と平和を求める気持ちが強くあることは間違いがありません。しかし何か自分の思い通りにならないものと直面したとたん、たちまちにして変身して、復讐心をあらわにしてくるものです。ことば(皮肉や悪口など)や行動(腕力など)により平和どころかいよいよ争いは激しくなります。これは罪ある人間の本能であって、平和を作り出すために争わなければならないというとんでもない代物です。
こんなことになるのも罪のおかげですが、どのような代物かと言いますと「私こそ世界の主(あるじ)だ!だれもが私の意見に従わなければならない!」という思いです。こんなものによって私たちは平和を作ろうとしているのです。それは力で他の人々をねじふせるようとするものです。真の平和など作れるはずがありません。
実は私たちはこんなこころみは成功しないことを体験的に知っています。それならどうしてあいも変わらず続けるのでしょうか。理由は神さまの愛の力を知らないからです。愛にはとても大きな力があります(雅歌8:6−7)。北風と太陽の話を覚えていらっしゃるでしょう。愛の持つ力がいかんなく発揮された話です。もちろん正しい平和は悪を認めることができません。悪はあくまで悪として認識されかつ処罰されなければなりません。ここに神さまの知恵を知ることができます。神さまは愛と正義とを両立させる道を考え出されました。それが十字架です。もしあなたが罪を悔い改めてイエスさまを心にお迎えなさるなら、あなたの罪は即座に赦されてあなたの心に平和が宿り、周囲の人々にとってあなたは平和の供給基地となるでしょう。
神さまに祝梅していただく[黙21:6b]
生まれながらの人の心に真の平和はありません。一時的な小康状態は平和ではありません。弟子たちは心に平安なく葛藤に悩み、度々質問をしています。自分たちの将来に希望が持てなかったからです。果ては同じ釜の飯を食いながら、それぞれ「俺が一番!」と言い争っていました。心に平和のない人は人間関係に常に亀裂があるものです。なぜそうなのでしょうか。謙遜さが欠けているからです。一番に嫌われる人とはどんな人でしょうか。高慢ちきと言われる人ではないでしょうか。自分の意見は常に正しいと思い込み、人々を見下しています。もし私たちがそのような種類の人間であるなら、悲しいことです。人をうまくごまかせても、神さまをごまかすことはできません。やがて人生の失敗を思い知らされる時がやって来るでしょう。多額の請求書が突きつけられます。蒔いた種は自分で刈り取らねばなりません。争いの人生で終わることでしょう。人々はただただあわれみの目で見るのみです。
どうしたらいいのでしょうか。謙遜であること、この一言に尽きます。これは本来まことの神さまに対する態度です。アブラハムに神さまは語られ(創12:1−3)、彼には個人的に祝福の約束が与えられました。彼はこれを信じました。この体験こそ彼にすべての試練を耐えさせました。もちろん約束は確かに果たされました。でもこんな大変なことまでありました。ある時、神さまはこうおっしゃったのです。「おまえのひとり子イサクをささげなさい!」でもおことばを信じる彼には全く動揺がありません。神さまは死人をもよみがえらせることができるお方であると信じていたからです(ヘブル11:17−19)。イサクは死なずにすみ、約束通りにアブラハムの子孫は増え広がりました。聖書をよく学び、祝福のおことばをいただきましょう。確かに祝福されて、人との争いなど不要になります「金持ち喧嘩せず」と言うではありませんか。祝福あるところ平和ありです。
神さまの最高の知性を認める[第1コリント1:25]
人間の知性は堕落しています。そのために先人観やら独断が幅をきかせ、そして騒動は起きます。イエスさまが十字架に架けられる時代の100年間に20万人のユダヤ人が反乱を起こして死んだと言われています。そのつどリードしたのが自称メシヤです。ユダヤ人の心は政治的、軍事的メシヤという考えにとらわれていました。私たちもおうおうにして思い込みによって行動してしまいやすいものです。「あの人はああいう人だ」「この人はいつもこうする!」たった一度のことで永遠の評価をしがちです。下された人はたまったものではありません。人は成長しています。きのう有った欠点も今日はもう克服されてしまって、すでに存在しないということだってあります。この事実を無視するときに私たちの間には平和が失われます。はじめは自分自身との間に、その次に隣人と。
あなたはまず自分自身における変化と成長とを受け入れなければなりません。よく分析して、自らのうちに起きている変化や成長した部分を探し出すべきです。「私には成長なんていうものなどない」と言ってはいけません。それはあなたの勝手な思い込みです。「灯台もと暗し」。意外に自分のことは分からないものです。あなたを愛していらっしゃる神さまがあなたをほおって置くなんてあるはずがないではありませんか。あなたも実はそのことを期待していらっしゃるでしょう。自分を欺いてはいけません。これを自己への寛容と言います。これがあると他者への寛容が生まれ、平和が生まれます。
ところで自己への寛容は実際の所、持てるものでしょうか。イエスさまはおっしゃいました。「裁いてはいけません」(マタイ7:1−)。でも私たちはたびたび裁いて生きているのではないでしょうか。現状をどうしても受け入れることができないといってうめいているのではないでしょうか。袋小路です。自分を裁いてブツブツ、他者を裁いてガミガミ。平和どころではありません。あなたが自分の知性に最終的な権威を抱くならいつまでもこんな状況から抜け出すことはできません。人間であるあなたの持つ有限な知性はあなたの人生の過去、現在、未来を正しく、手落ちなく把握することはできません。ただひとつだけあなたをこんな状熊から解放する道があります。イエスさまの死からのよみがえりを受け入れることです。主はよみがえられたのです。この奇跡の出来ごとを事実として受け入れるときあなたも同時に新しい人によみがえり、すなわち古くて低レベルの知性しか持たない人間から神さまの最高の知性をパートナーとする人間へと変えられます。このお方からあなたは聖書を誌むときに行くべき道やとるべき態度、すべての問題への解決法を教えていただくことができます。これは析りの中で平安とともに聖霊さまによって与えられるものです。神さまの最高の知性があなたに恒久的な平和と祝福とを約束します。
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