73.最もすぐれた賜物

●聖書箇所[コリント人への手紙第1 13章1〜13節]

 人はいろいろなものを求めて止まるところを知りませんが、いつになったら満足できるでしょうか。
 子どもはおもちゃを欲しがって泣きますが、まもなく別のものに目が向いて行きます。ある人は仕事に熱中しますが、彼の求めているものの一部を満たすものでしかないことは明らかです。おまけに定年を迎えたら身も心もボロボロということも珍しくはありません。目の中に入れても痛くないわが子もやがて巣立って行き、空しさが残ります。目に見えるものや物質的なものでは人は決して満足できないことは明らかです。
 ゴッホは死後10年たってから真価が認められた人ですが、生前はかなり批判されました。やれ、色が悪い、タッチが悪い、テーマが悪いと。彼は親しい人に心を打ち明けていたそうです。「人々は私の絵を悪いと言うが、絵というものはその根底にあるものが大切なんだ。それは愛なんだよ」聖書はこの主張を支持しています。ありとあらゆるものが揃っていても愛が欠けていたら価値も低いのです。私たちは生きて行く上でいろいろな必要に迫られますが、絶対不可欠のものが愛です。イエスさまを心に受け入れると愛が与えられます。祈って、聖書を読んで、礼拝し、ささげることによってあなたの愛は溢れるれるばかりになります。今日は愛の正しいイメージを学びましょう。

寛容であり、親切です

 寛容とは他の人の存在や思想や行動を許容する(これは賛成することとは違います)ことで、親切とはそれの積極面です。罪人にはこれを断る性質があります。というのは寛容であり、親切であるのは自分にとって利益になる場合に限られ、全体としてはそれは少ないと見られるからです。しかし真実の愛は自分にとって利益になるか否かは無関係であるためにその崇高さは偉大なことをさせます。
 リン力ーンが大統領選挙を戦いました。政敵スタントンは口をきわめて罵り続けました。のちには彼ほどリンカーンを馬鹿にした者はいないと評されました。曰く「低級な、こうかつな道化者、ゴリラの変種」。
 リンカーンが勝利したのち、スタッフが次々に任命されて行きました。その中に驚くなかれ、スタントンの名があったのです。しかも非常に重要な職である陸軍長官でした。人々の驚きようは大変なものでした。彼は言いました。「最も適任だからだよ」やがてリンカーンは劇場で暗殺されますが、彼はその棺の前で涙に咽びながら「ここに世界史上最高の統治者が横たわっている」と言いました。寛容と親切という愛はすべての人に勝利と満足感を与えます。

ねたまず、自慢せず、高慢になりません

 世の中には2種類の人がいると言われます。億万長者と億万長者になりたい人。ねたみにも2種類あります。人のものを見て羨むこと。それから他の人のものを見て、無くなればいいと望むこと。これを嫉みと言います。恐ろしい罪ですが、当時のコリント教会に広がっていました(12:15〜17)。教会はキリストのからだです。ある人は手、他の人は足です。それぞれ違った賜物(タレント、能力、特権などいろいろな訳があります)を持ち、互いに協力してこそ正しくかつ統一性をもってからだは働き立派な仕事をすることができます。しかし目や口が高慢になり、耳や足が妬むということが起き、醜い争いが広がりました。愛だけが互いの特質を認めさせ、肯定的かつ積極的な人間関係を作らせて、共に向上成長させます。人は一人では向上も成長もできないものです。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めません

 礼儀に反するとは、「あんたなんかいなくてもいいよ」と思ったり、言ったり、行動したりすることです。恐ろしいのは自分に対する無礼です。「私はダメな人間だ。私は何の役にも立たない人間だ!」もしこんな態度があるとすればこれは大きな罪です。
 さて自分の利益を求めないということは、求めてもそれは当然と言える権利ではあってもそれを使うにあたって一呼吸置くというものです。これは大人の態度です。大人こそ子どもに対して忍耐をもって譲り、観察し、教え導きます。これが愛です(ピリピ2:5、7)。
 キリストは神さまであり、神さまの御子です。正当な権利を主張すれば罪人のような修めな死に方をすることはなかったのです。しかし私たち罪ある者たちを大切に考えるために、正当な権利の主張、行使を一時控えられました。結果父なる神さまがキリストを高めてくださいました(ピリピ2:9)。私たちは自分の利益を追い求めなくても、神さまの方でよーく考えてくださっていることを知らなければなりません。

怒らず、人のした悪を思いません

 怒った方が負けです。兄弟に馬鹿と言ったらゲヘナ(地獄)に投げ込まれます(マタイ5:22)。この「思う」とは会計用語で「計算する」又は「メモしておく、帳薄につける」意味です。人の悪を思わないとは、記憶に残っていたとしてもいさぎよく、そのことはなかったことにする、ということです。ある人が言いました。「皆が度を失っている時に、一人冷静にしていられるどうかが人の価値を決定する」と。要いことをされると私たちの心は乱れ、憎悪の念にとらわれ、怒り心頭に達するのが相場です。でもコントロールできる人は人としての価値を高くします。

不正を喜ばずに、真理を喜びます

 罪人には他人の失敗と他人への悪口を好む傾向があります。世慣れするとカムフラージュする技術を身につけますが、実際のところ隠せるわけではありません。依然その性質に変化はありません。聖書は言います。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12:15)。難しいことですが、取り組みがいのあることです。成長するとはこのような方向への進行を言います。そのためには、実践できている人とより多く交わるようにしましょう。よい影響を与えてくれます。

すべてを我慢し、すべてを耐え忍びます

 日常生活すべての面が忍耐すべき対象です。特に悪いと思われる状況や環境に対してこの力を働かせましょう。人間関係では相手の欠点を見ないことです。どうしても注意しなければならないことなら、よく祈って2人だけのところで触れるようにしましょう(マタイ18:15)。改めたら過去のこととして忘れ、いままで以上に愛してあげましょう。失敗も見ないで、受けた迷惑も忘れましょう。どんな屈辱にも耐えましょう。愛は忍耐の末にあなたを変え、あなたの環境を変え、必ず勝利を与えます。

すべてを信じ、すべてを期待します

 人のことばや約束は信頼度が低いものです。舌の根の乾かないうちに平気で裏切ります。意図的なものもあれば、不可抗力もありますが、被害は甚大です。しかし神さまは変わることがありません。約束なさったら必ず果たしてくださいます。信頼し続ける者の上に勝利が揮きます。

 イエス・キリストを信じて真の愛を受け取り、あなたの中でそれを育てて行かれるように神さまの御名において祝福致します。


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