84.シュネムの女
聖書箇所[第2列王記4章8−37、8章1−6節]
今回はシュネムの女から学びましょう。シュネムとはガリラヤ湖の南西25キロメートルほどにある町です。単に女と言われているのは無名、すなわち聖書には名前が記されていないからです。彼女は年上の、金持ちの、そしてやさしい夫を持ち、しかし子どもはいません。彼女はたいへん積極的な性格で道行く人々を眺めながら、常日頃私に奉仕できる相手はいないかしらと考えていました。直感が働いた相手はなんと神の預言者エリシャでした。今で言えば、立派な事務所を無料提供したといったところでしょうか。ワープロ、パソコン、コピー機、電話、ファックスなど、さらには生活設備も完備。エリシャは感激して彼女に子どもが授かるようにします。波はありますが、全体にとても祝福された彼女です。どんな人であったのか、もう少し具体的に見ましょう。
今、できることをする人
先に述べましたように、夫はどうやら申し分のない人であったようですし、彼女は生活のためにあくせくしなくて済む、非常に恵まれた環境にいたと考えられます。
さてこのような人を第三者はどのように見るのでしょうか。「いいなあー、よほど満足しているんだろうなあー」こんなところでしょうか。きっと見る目のある人は反対に想像するでしょうね。その通りです。人はあまりにも恵まれていると、うつになり、逆に元気がなくなるものです。シュネムの女の偉いところは決してめげないで、「私にだってできることはあるわ!」と考えていたことです。
ある日、直感が働きました。「あの方はただ者ではない!」 エリシャでした。確かに彼女の目に狂いはありませんでした。神の預言者でした。さっそく大歓迎! 彼女のしたことは何でしょうか。これは人を愛することではありませんか。とっても環境が整っている時、あるいは気持ちの上で「ここには私の貢献できる余地は何にもありません」とつい考えてしまうような時にあっても、人を愛することの余地はいくらでもあるのではないでしょうか。
先日Hi-BA(高校生向の伝道団体)から支援会ニュースが送られて来ました。その中にスタッフの方による次のような文章が載せられていました。
私が責任をもっているキャンプも本格的な準備が始まっていますが、スタッフの間で真剣に議論されていることがあります。おそらく確実に子どもたちが持ち込むであろう「たまごっち」の、取り扱いについてでした。今や特異な社会現象ともなったこの種のゲームについて、いかなるゲームも持ち込むことを禁止して来たキャンプとしては、どのような立場を明確にするべきか・・・
そこで、思案を重ねた末にひとつのアイディアが紹介されたのです。「たまごっち」については、これを没収(今までは)するのではなく、「たまごっち託児所」を創設することでした。(1997年6月号)
・・・ああ何かよい方法はないでしょうか。だれか教えてください・・・。 私は思わず笑ってしまいました。でも同時に高校生を精一杯愛そうとするスタッフの思いも強ーく感じました。人を愛することについて工夫に際限はありません。
話を聖書に戻しましょう。さあ、神さまの側の反応には速いものがありました。エリシャは感動して何かお礼をしようというのです。4章12節以降をお読みください。子どもが与えられるというごほうびです。
ところが彼女は意外にも喜びません。いったい何があったのでしょうか。考えられることとして、きっとこの願いは彼女の中で長いこと抑圧されていたのに違いありません。あなたにはそのようなことがありませんか、あきらめてしまった願いとか。神さまはそれを解放して下さる方です。彼女の真の願いがこうしてかなえられました。人を愛することの報いは大きいものです。(マタイ25:45)
いつも感謝する人
彼女の生活ぶりを観察して見ますと、際立つのは、足ることを知っているということでしょうか。ぶつぶつ言わない人です。
あなたはいかがですか。ついぶつぶつ言ってはいないでしょうか。与えられているものに目を向けないで、ないものに注目してばかり、そしてぶつぶつ。感謝しましょう。あなたには実に多くの恵みが備えられているはずです。あなたは祈りの中で一つ一つの恵みに具体的な言い方で感謝を言うべきです。健康や家族や信仰を与えられていること、行くべき職場や教会が与えられていることなどなど。
なぜ感謝が必要でしょうか。感謝することは相手の実力を承認することです。「これこれのことができました!」と。逆にぶつぶつ言うことは「あなたにはちっとも力がないんですねー」と言うに等しいのです。結果は明らかではないでしょうか。
聖書は信仰告白の力を教えています(ローマ10:10、13)。あなたがあなたの口でどのように表現するかで結果は明らかに違ってきます。さあ、感謝することがどんなにあなたにとって重要なことであるかお分かりになったでしょう。つまり信仰は感謝から生まれるものです。
この信仰はいざというときに役立ちます。つまり試練のときです。彼女に試練がやってきました。年寄り子ですから、きっといつもお父さんは一緒にいたのでしょう。でもこれが災いしました。激しい頭痛に見舞われ、まもなく亡くなりました。4章18節以降をお読みください。いったいなんということでしょうか。
でも彼女は慌てません。神さまのところで解決することができることを疑いません。すなわちエリシャのもとへ駆けつけ、彼は子どもの上に覆いかぶさり、子どもは生き返ります。信仰のある者は試練にあたふたしません。
自分の居場所を知っている人
マザー・テレサはこう言いました。
私にはある老人ホームを訪問した時のことが今も忘れられません。多くの老人たちが息子や娘たちから忘れられて生活していました。環境や設備は悪くありません。でもだれもが寂しそうにドアの方を向いているのです、しかも顔には笑みがなく。シスターに聞きました、なぜ? シスターはこう答えました。「いつもこうなんです。子どもが訪ねて来るんじゃないかって」
ここで知ることができることは、決して居場所といっても物理的なものばかりではないということです。まず心の居場所、さらにもっと深いレベルの、そうです、霊的な居場所が人には必要です。それは何でしょうか。8章1節以降の記事を読んで見ましょう。エリシャの預言が紹介されています。「さあ、今の土地を離れなさい!」と言っています。人間であるならば心の戦いが、葛藤があるはずです。信じていいものだろうかと。
さて、先の質問に戻りましょう。私たちにとって最善の居場所とはどこでしょうか。みことばが支配する場所、世界です。あなたは、み言葉こそがあなたを祝福することをご存じでしょうか。もちろん実際は戦いが、すなわち信じることができることもあれば、そうでないこともあります。「ほんとうにみ言葉を信じても大丈夫かな?」というふうに。でも彼女は信じました。だから行動しました。
ところが、ところがです、さっそく困難が待ち受けていました。飢饉が終り帰国してみると財産がすべて失われていたのです。「だから、ほら、見たことか!」というせりふが聞こえて来そうです。でもすぐに解決されました。8章5、6節をお読みください。神さまは真実です。あなたに対して誠実です。これは疑いの余地のないことです。みことばの支配する世界こそあなたの居場所です。
今から17年ほど前、ポートランド市部外にあるイースト・ヒル教会で、信仰生活を持たせて頂いた時のことです。そこは『愛、受け入れ、赦し』の著者ジェリー・クック師が牧会されている教会でした。その会衆には傷ついた人々、薬物常習から立ち直ろうとする人々、未婚の母、他では受け入れられない人々等が神様の愛を求めて集まっていました。
ある聖日礼拝のことです。当時、同性愛的傾向のある若者達が礼拝に参加し始めたのですが、一群の信徒の中から、彼らを特別なクラスに入れて教育すべきだという意見が出されていました。
その問題についてその朝、クック牧師は静かにお話になりました。「私は今朝、プラカードを用意しています。同性愛の方は同性愛と書かれたプラカードの前に並んで下さい。姦淫と書いてあるカードの前には姦淫の罪を犯した人が並んで下さい。盗みと書いてあるところにも同じように並んで下さい。他にも・・・いくらでもカードはあります。私が言わんとしている事が分かりますか。その人達だけを特別な罪人だという目で侮辱していることが分かりますか。あなたは自分のプラカードの前に立てますか。あなた方の特別なクラスを設けるべきだという考えには本来、こういう意味です。イエス様は罪人を救うために来られたのではないですか」
メッセージを聞いていた人々は皆心を打たれ、結局自分たちも彼らと同じ罪人であり、全ての人々が主からの癒しを受けなければならないことに気づいたのです。教会に来ていた同性愛の傾向を持った若者達は、今まで人前で恥をさらされる人生でしたが、ここではじめて「受け入れられる」経験をしたので、それが彼らに変化を与えるきっかけになりました。彼らは、それからは教会で心を開き、人々の前で自分自身の問題点を語り、お互いに祈り合う中、主の豊かな心の癒しが教会の中に広がっていきました。(『罪人のせいくらべ』小牧者出版「幸いな人」5月号より)
今あなたの中にそして生活の中にみことばの世界を広げてください。実は十字架で死なれ、ご復活なさったイエス・キリストはみことばそのものです。あなたの心の中にイエス・キリストをお迎えなさるとき、それは広がり始めた時です。
神さまの祝福があなたにありますように。
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