86.今、主がここに
聖書箇所 [各段落ごとに表示] あなたはミス青森事件をご存知でしょうか。妬んだ同僚に硫酸をかけられた事件を。東京の警察病院に入院した彼女、岩井さんの心の中は憎しみでいっぱいでした。それは手術の苦しさと重なって増す一方でした。身体中の皮膚を剥がしては貼り、剥がしては貼りする大変な手術が続いていました。憎しみとうらみと絶望の心が余計彼女を苦しめました。
あるとき病院の窓から外を見ていると、急に十字架が目に止まりました。教会でした。いつのまにか彼女は教会の椅子に座っていました。ある日のこと、島村亀鶴牧師が彼女にこう尋ねました。「あなたはあなたに硫酸をかけた人を赦しますか」。彼女にも牧師にも少しの時間が永遠の長さに感じられました。ついに彼女は「赦します」と言いました。そのとき彼女の顔は突然明るーく輝きました。続けて彼女は言いました。「私はイエスさまに愛されています。私はあの人を赦します」。
彼女は和歌山の女性刑務所にいるその女性に「私はイエス・キリストによってこんなにも変えられました。私はいままであなたを憎んでいましたが、今あなたを愛しています」と手紙を書き、出所日には迎えに行きました。そしてともに神さまの愛を喜ぶようになり、一緒に川崎に住み、働き始めました。
彼女に何が起きたとあなたはお思いでしょうか。「今、主がここにおられる!」と彼女は分かったのです。これを臨在感と言います。単に神さまの存在を理性的に承認することとは違います。この臨在感、「今、主がここにおられる!」という圧倒的されるような意識、これが秘密です。
くり返します。神さまのご臨在を感じるとき人は力を持ちます。いままでできなかったことができるようになります。どんなに辛いときでも耐えられるようになります。絶望しなくてすむようになります。もう一つの例を紹介しましょう。
ヨセフ物語をご存知でしょうか。数多い兄弟たちの中でも特に可愛いがられた彼は兄たちのねたみによってエジプトの商人に売られてしまいます。神さまのあわれみでやがてエジプトで総理大臣にまで出世します。それを知らないで飢饉から助かろうと食料を求めてやってきた兄たちを彼は憎むどころか、「・・・神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは・・・あなたがたを生きながらえさせるためだったのです。だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです」(創世記45:7、8)と言いました。赦すことはとても難しいことです。でも「今、主がここに」という臨在感がすべての不可能を可能にするのです。
今回は神さまの臨在を感じるための学びをしましょう。
きよめられること[マタイの福音書5章8節]
「神さまが見えない」という声をよく聞きます。大きな原因のひとつは罪であって、それはたとえて言うと霧や雲がかかっていて、霞んで見えないということです。あなたの心の中はきよめられていますか。あなたはことをなそうとするとき、どのような動機でなさいますか。サムエルが「王(と任命すべき器)を見つけなさい」と神さまに言われたことがありました。彼はエリアブを一目見て適任者と思いました。でも神さまはこうおっしゃいました。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(第1サムエル16:7、参考:第2コリント10:7)。もしあなたの心にわだかまりが、不純なものが少しでも感じられるなら、どうかすぐに悔い改めてください。その瞬間あなたはきよめられます。十字架と聖霊さまの威力です。あなたは、「今、主がここにおられる」と喜びに溢れるでしょう。ヨブはたいへんな試練に会いました。子どもは襲われて一人残らず亡くなり、家畜などの財産も失われました。もっとも頼りになるはずの奥さんは「神さまを呪って死んでしまいなさい!」と言い彼を冷たく突き放しました。3人の友人も彼の罪を暴こうとするばかりでした。4面楚歌の中、ついに彼は友人のために祈り、へりくだりを見せました。その結果すべては2倍に祝福されました。自己義認(常に自分は正しいと思うこと)は間違っています。悔い改めるとき、あなたには神さまがはっきりと見えます。
対話の祈り[マタイの福音書26章39、42、44節]
アウシュビッツに強制収容されていた精神科医ビクトル・フランクルは仲間たちが毎日死んでいく中で希望を失いそうでした。やがて生還した彼はこう書いています。「もしあなたが、イエスさまがご自分の命を捨てて下さった、こうして愛してくださったことを知り、このお方を人生の土台とするなら、このお方と一緒に歩くとするなら、このお方を感じることができるなら、あなたはどんな試練にも耐えられる」。彼は収容所の中で、イエスさまが自分のそばにいることを感じつつ、不断の会話、すなわち祈りをしていたのです。あなたはお祈りをなさるでしょう。でもいかがでしょうか。そのお祈りは対話になっているでしょうか。壁に向かっての独り言ではないでしょうね。お祈りとは本来会話なのですから、一方的な言い放しはよくありません。聞くときは聞き、話すときは話す。イエス・キリストと会話の祈りをしてください。そのためには心をニュートラルにすることです。ニュートラルでないとはすでに決断を下しているということです。偉い方に向かって、すでに結論を下してしまっているのに、なお尋ねるというのは失礼なことです。もし教えていただきたいのなら、教えていただいたとおりにしますという心構えでなければなりません。もしこのようなことをわかってあなたがお祈りをなさるなら、あなたのお祈りは、「今、ここにおられる」イエスさまとの対話になり、あなたは言い様のない喜びに包まれるでしょう。あなたはすべての恐れや不安から解放されるでしょう。イエスさまは罪の罰をお受けになるときに極度の恐怖感に襲われました。人間である彼に大きな力を与えたのが対話する祈りから得た臨在感でした。
主イエスの名による交わり[マタイの福音書18章20節]
使徒の働き12章1−19節をお読みください。投獄されていたペテロに不思議なことが起きました。み使いが解放してくれたのです。これは偶然ではありません。ペテロを心配する信仰の友がいて、彼らは主イエスの名による交わりを保っていました。それが力ある祈りを生み出し、その結果起きたことでした。あなたは主イエスを信じる者たちの交わりの中に身を置いていらっしゃいますか。その交わりを大切にしていらっしゃいますか。イエス・キリストはそこにおられます。信仰の友が必要です。祈りあえる仲間が、そして理解し合える仲間が必要です。クリスチャンは家族です。家族なら一家団欒があって当然でしょう。涙も笑いも共有するのが家族でしょう。信仰の交わりの中であなたはイエスさまの存在と力との両方を経験なさるでしょう。
神さまを誉めること[詩篇22篇3節]
誉めるとは感謝することであり、賛美することです。ぶつぶつばかり言っていてはいけません。常に感謝をすべきです。良いことも悪いことも。アモン人とモアブ人がヨシャパテ王とユダの人々の前に強力な敵として立ちはだかったことがありました。第2歴代誌20章1−23節をお読みください。このときにある人に「この戦いは神の戦いだ」(15)という預言が下りました。こう聞いて「そうか、あとは寝ていれば、いいんだ」と、中にはお考えになった方もいらっしゃったかも知れません。それは間違いです。神の戦い、それは勝利が約束されたという意味です。でもすべきことはすべきです。そうでないと人間の主体性がなくなるではありませんか。どこに人間の出番がありますか。
さて、すべきことといえば、常識的に考えて、武器を用意し、磨くことでしょうか。当然ではありませんか。でもこのときはそうはしませんでした。再優先すべきこととして、賛美をしました。聖歌隊を用意して、精一杯賛美しました。もちろん神さまを賛美しました。誉めたたえました。そして勝ちました。
ピリピで伝道中、パウロとシラスは投獄されてしまいました。でも地震が起きて彼らは解放されました。これも偶然ではありません。彼らは牢屋の中で賛美をしていました。賛美が神さまの力を招きいれたのです。礼拝の中で賛美をするとき、それは礼拝が始まることの合図ではありません。主をお招きする、実に実用的な方法を採用しているのです。あなたが一生懸命に神さまを誉めるとき、あなたは「今、主がここにおられる!」と心の中で叫ぶようになります。叫ぶだけではありません。ご臨在なさる主のお力を経験なさるのです。
イエス・キリストのおことばを思い出します。「狭い門から入りなさい」(マタイ7:13)。以上述べたことを行うことは、狭い門から入るようなことかも知れません。でも入った曉には大きな豊かな祝福を手に入れるのです。
あなたが主のご臨在を感じることによって、常に豊かな生活を送られるよう主の御名によって祝福いたします。
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