89.ライフワークの発見

聖書箇所[マルコの福音書10章17−22節]

 仮に佐藤孝夫さんとしましょう。彼は30代の半ばまで天才ブローカーとしてその世界では知らない人はいないという人でした。収入も多く、貯金は十分すぎるくらいあった。彼は言う。
 「ある日突然自分は幸せではないと気付いた。さっさと仕事をやめてしまった。さんざん友人たちからは『早まったことをした』と言われたけどね。『次に何をしようと考えていたのか』とも聞かれたが、ただ、毎日どぶねずみルックでいつも同じトラックを走るような生活に嫌気がさしたんだ。金がすべて、そして金のためなら手段を選ばずという風潮にもうんざりだ。自分の人生をじっくりと考えてみたかった」。
 彼はかつての職場からは遠く離れた郊外にこぎれいな家を購入し、のんびりと過ごした。これは彼の夢だった。しばらくして家でステンドグラス作りを趣味で始めた。これもまた以前からしてみたかったことだった。近所のみなさんも気に入ってくれて、買ってくれた。彼はとてもうれしかった。もうすっかり以前の喧噪から離れて、「これが私の長い間求めていたものだったのかなあー」とうきうきする毎日だった。
 ところが彼のステンドグラスの評判はどんどん広がり、多くの人が買いに来るようになった。それで人を雇い入れ、生産会議を開き、いつのまにか専用の仕事場を確保し、連日連夜ステンドグラス作りに明け暮れ、以前の生活と全く変わらなくなってしまった。こうして彼はため息をつく。

 何が問題でしょうか。ひたすらに、一生懸命に動き働くけれども佐藤孝夫さんには、「これが私の生きる道だ!」と言えるようなものがない、つまりライフワークが見つからないということではないでしょうか。
 さあ、今回の聖書箇所に目を移してみましょう。「できることは全部しました。あとは何が残っているでしょうか」(17、20)と真剣に聞くこの青年は、「悲しく去った」(22)と言われていますが、やがてイエスさまに捕えられたことでしょう。きっと救われたことでしょう。
 今回はライフワークの発見をテーマに学びましょう。

自分の必要を認識

 この青年は自分が実行できる、すなわち礼拝に出席したり、十分の一献金をしたり、聖書を読んだりといった形式的な行為に焦点を当てています。イエスさまの次元は生活のあらゆる面やできごとにおいて貫かれるべき何かとの出会いです。その何かとは「神中心」といったものです。これが生活の中のあらゆる要素を統合し、いきがいと躍動感に満ちた人生へと私たちを導きます。
 ヴィクトル・フランクルはこう言います。「現実は3つの次元に区別されなければならない。すなわち身体的次元、心理的次元、そして精神的次元である」。ところで人間の独自性は前二者にはなく、人間が決断をなす部分である精神的次元にあります。動物と人間との境界線はここにあります。動物は決断をしないし、したがって責任もとれない。ここに価値の問題が発生するでしょう。たとえば家庭に入った女性はやがて子を産み、育てているうちに広い社会から隔絶されたという経験をしやすい。子育てが重要なことであることは理解しつつも、取り残された意識を持ちやすいし、子育てが終わる頃、かつて生活した社会環境は自分の記憶とは異なるもので大きく変貌を遂げている。かつての自分の技能も時代遅れ。「いったい自分の存在は、いままで私のして来たことはどんな意味がそしてどんな価値があるのだろうか」と思う。
 くり返しますが、人には少なくとも3つの必要があるでしょう。身体的必要。これはご飯が食べたいとか喉が乾いたといったものです。次に心理的な必要。同じことを繰り返していれば、日常生活とは実際そのようなものですが、気分転換したくなるでしょう。旅行したり、おいしいものを食べたりしたくなるでしょう、そういったたぐいのものです。最後に、これが一番重要なものですが、精神的必要であり、実はこれは深い部分において霊的必要と重なるものです。精神的な必要は神さまが人間をお造りになった以上、神さまとの交流部分である霊の世界との接触なくして私たちには真の満足はありません。すべては神中心に動かされるとき、あなたは真の満足を経験できます。
 どうか静まってあなたの中に聞こえる内なる声に耳を傾けてください。きっと聞こえてきます。神さまのあなたを呼ぶ声が。神さまはあなたの霊の親です。

熱心さ

 彼は熱心さと共にイエスさまのもとにやって来ました。途方に暮れていました。あなたはいかがですか。私たちは本当に切羽詰まったときには考えられないような、しかし必要な力を出すものです。「思う一念、岩をも通す」と言います。
 1968年。152センチで50キロの女性が下敷きになった父親の命を救おうと680キロの自動車を持ち上げました。彼女は20歳でした。考えられますか、こんなこと。でも事実です。熱心さがあなたの人生をしてあらゆる良いものを得させます。あらゆる価値あるものを手に入れさせます。
 質問があります。あなたはあなたの人生は生きるに値すると信じますか。強烈に信じていますか。どうか信じてください。あなたに命と人生とをくださったお方は生きるに値する人生をあなたに用意して下さったのです。もしそうでなければ信じるに値しない神さまです。神さまこそ熱心さの元祖です。その熱心さが御子を十字架につけました。
 あなたの一番大切なものは何ですか。それを捨てるように言われたら、どう反応なさいますか。御子は父なる神さまの宝です。あなたのために差し出されました。あなたは受け取りますか。感謝の気持ちととあなたの人生への熱い思いと共に。

人生の責任を自分で取る用意

 彼は何をイエスさまに向かって言ったのかを一言で表現するとこうなるでしょう。「私はできることは全部しました。あとは何が残っているでしょうか。どうか教えてください」。では何を言ってないかを続けて考えて見ましょう。「私の環境はこれこれです。私の親は良い親ではありませんでした」。ここが大切なところです。もし現在が不調だとして環境や過去にその責任を求めるなら自分の人生に責任を取ろうとしていないのです。そしてライフワークは得られないのです。どうか自分の人生であることを確認してください。それには真の愛の中にいることです。救い主、あがない主イエス・キリストの愛の中に。「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた」(21)。
 一人の若妻がこう訴えました。「私の夫は家の中がいつもきれいに整とんされた状態であることを望んでいます。でも彼が私を愛してくれていることを、私は知りたいと思っています。そうでないと活力が涌いて来ません。どのようにしたらこのことを彼に分かってもらえるでしょうか」。
 青年の人生は物を得ることの上にのみ築かれて来ました。人生は、物が愛され人が使われるときに悲劇が起こります。人が愛され、人を愛するために物が使われなければならないのです。このことを承認するときにあなたはあなたの人生の主人公になれます。

決断

 さあ、これが最後のステップです。「私のライフワークはこれだ!」と決断するのです。2つのフィールドにおいてあなたはそれを発見する可能性があるでしょう。
 一つは聖霊さまの導き。聖霊さまとはイエス・キリストからの派遣霊であって、イエス・キリストの教えをあなたに伝達します。イエス・キリストのおことばを調べてみると非指示なことばはほとんどありません。つまり、「こうしなさい」と言われます。「帰りなさい、売り払いなさい、与えなさい」(21)とあるように。どうかここまで読んできたら、「でも」とはおっしゃらないでください。それはビデオテープを巻き戻すことです。時間が浪費されるだけです。
 もう一つは親密な人間関係の中。
 90歳で死の床に横たわっている女性がいます。このように回想しています。「私は子どもが欲しいと祈りました。神さまは私の祈りに答えてくださいました。私は一生懸命に息子を育てた。たとえからだが不自由であろうと、知能が低かろうと私の息子だ。私は彼を精一杯愛した。彼は施設に行かなくて済んだ。私は彼の人生を充実したものにできた。私は満足している」
 物や仕事の中にではなく、親密な人間関係の中にライフワークは発見できます。神さまは一人の人間の中に課題を与えています。あなたは問うべきです。「私の、私でなければできないこととは何だろうか」
 イエスさまはこの青年の苦闘に手を貸そうとしていらっしゃいます。個人的な手助けをしようと申し出ていらっしゃるのです。
 あなたはどうなさいますか。

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