91荒野の誘惑、その真相

聖書箇所[ルカの福音書4章1−13節]

この話はあなたの人生への応援歌です。なぜそう言えるかですって。お答えしましょう。3節をお読みください。「もし〜ならば」という仮定法による表現が見られますが、これはギリシャ語ではeiで、過去に起きた事もしくは事実を含意した場合に使われます。ちなみにeanはそうでない場合に使います。サタンはイエス・キリストに向かってこう言っていることになります。

 「もしあなたが神の子であるならば、それは事実ですけれど、云々」

 これはイエス・キリストならではの受ける誘惑であって、最初に退けられました。つまりこれが事実上の一番目の誘惑です。もちろんこれを退けられました。最初の勝利です。しかし私たち人間にとっては以降の三つの誘惑こそ重要です。イエス・キリストが生身の人間として、すなわち私たちと同じ立場に立たれて、誘惑をお受けになった場面であるからです。というのは神の子であるならば、神なのですから、悪魔に勝って当然ではありませんか。彼は神の力を行使することを拒否なさいました。ここに私たち人間への希望があります。この戦いの本質は何でしょうか。それは私たちがどのレベルまで人間性を向上させることができるかです。どのようなチャレンジがあるのか、それを見て行きましょう。

神の意思を第一にしますか、それとも

 神の意思とは神のみこころ、お考え、私たちへの願いです。これをあなたは第一にしますか、それともそうはしませんか。対極にあるのが私たち人間の考え、願いです。三人いれば少なくとも三つの考えが、いや場合によっては十も存在するでしょう。それらの共通点は常に間違い、誤解、不適切さの可能性を内包していることです。しかし神さまのお考えにはそのようなことはいっさいありません。ならば第一にしたら良いのではないでしょうか。しかしそうはできないのが現実です。なぜ。2−4節をご覧ください。私たちの内に持つ欲求は非常に強いものです。人間の三欲とは性欲、睡欲、そして食欲ですが、このときイエス・キリストはたいへん空腹でした(2)。目の前にパン(日本文化的に言えばご飯あるいはお米)をちらつかされて、かなり厳しい誘惑でしょう。逆にこの欲求が妨げられたときには、欲求を満たそうと恐ろしい力が発揮されます。簡単な例は食事前のいらいらです。つい余計なことを言ってしまい、後で後悔したりします。満腹時には言いそうもないことを言ってしまうものです。これが神の意思と肉の思いとの戦いと言います。
もしあなたがこの戦いに勝って神の意思を第一にすればあなたとあなたの人生とは輝くでしょう。私は30年以上前華々しい戦いをしました。牧師になるように神さまから言われました。でも私はこの考えには反対でした。私は実業家になりたかったのです。拒絶している間、私は苦しくて苦しくてほんとうに辛い思いをしました。そうしてついに決断をしました。今、私は毎日がとっても充実しています。感謝しています。本は読むために作られました、うちわとしてではなく。あなたに地上の人生をくださった神さまは同時に使命をも用意してくださいました。あなたにはあなたのすべきことがあります。聖書を学び、祈りつつそれを知って行くことをお勧めします。神の意思があなたを最高に輝かせます。

人に仕えることを喜びとしますか、それとも

仕えることはサービスをすること。すでに日本語の方が通りがいいようですね。サービスって何でしょう。それは人を心から歓迎し、気持ちよくさせること。さて、注意していただきたいことは、人に仕える、と表現したのであって神に仕えるとは表現していません。大きな違いがあります。「私は神に仕える!」、こう聞いてあなたはどういう印象をお持ちでしょうか。すばらしい人だ!とお思いになるでしょうか。きっと多くの人はそのような印象をお持ちになるに違いありません。さきには神の意思第一を学びました。人を愛することはこれに該当しますか。しますね。では目の前にあなたの嫌いな人が、かつてあなたにひどいことをし、あなたの心にそのときの傷がまだ残っているとします、その人が現れたときに、あなたは愛しますか。私の言いたいことに気がついていただけたと思います。抽象的な愛、口先だけの愛はいとも簡単、でも具体的な行動する愛の実践は難しいのです。

 『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』(マタイ25:40、45)

 神に仕える、と言う言い方には空洞化の危険があります。中身がない可能性があります。人に仕えることが現実にあって、はじめて神に仕えていることが証明されます。ゆえにここに戦いがあります。サービスをするのには戦いがあるのです。もう一ケ所イエスさまが弟子たちにおっしゃったことばを見てみましょう。

 イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:25-28)

 最近私の目に止まった「ホテルマンの定義」(ミネソタ州ホテル協会報より)を分かりやすくするために一部私訳一部削除を交えながらご紹介しましょう。 「ホテルマンとは、まず夢と幻の人でなければならない。彼は食後の会話の達人でなければならず・・・夜はふくろうのごとく目をらんらんと輝かせ、終日の激務に耐え、終夜思索に耽り、なおかつ翌朝は熟睡後のようにみずみずしくあらねばならぬ。彼は、だれも見ていない時に立ったままで眠ることを学び、1日に6回の食事もいとも自然に食べねばならぬ。彼は零下40度の厳冬の朝、30センチの積雪をものともせずに、用達しに走り、40度の炎暑の中でも汗も体臭を発することなしに働き続けねばならぬ。・・・彼は無限の自制力を持ち・・・運転の専門家であり、座談に長け、・・・見事に踊り、・・・ゴルファー、外交官、経理財務の専門家、博愛主義者、各色自然毛ならびに人工毛髪の権威でなければならず、いうなれば彼は民間大使級の才人でなければならぬ。・・・もし彼が墓地に葬られる時は、彼のからだに十分のおもりをつけておかねばならぬ。そうしないと彼は新しい「客」が到着するたびに、飛び上がり、『こちらのベッドの方が上等でございます』と叫ぶであろうから。彼の霊に平和あらんことを」(『サービスの法則』PHP文庫)

 私はこの文章を発見して、がくぜんとしました。なんと難しいことか!、と。5−8節をお読みください。私たちはしばしばサービスをするよりもサービスをしてもらう方に気持ちが行きます。すなわち自分の権力を行使して、自分の欲望を満たそうと他人を利用しようとします。もっと他者に思いやりを持つべきであるのに、もっと他者に価値を認めてあげるべきなのに、反対のことをします。一番分かりやすい権力欲の例は男性によく見られる出世欲です。ひどい場合は他の人を蹴落としてもというような。女性にもあります。女性であるあなたは恋人、友人、夫、子どもなど周囲にいる人々をあなたのイメージ通りに動かそうとしていませんか。ちなみに日本の神話に登場する権威ある代表選手(神)はアマテラスオオミカミ(天照大神)という太陽神ですが、女性です。日本は女性主導の国のようです。でも人を自分の利益のために思い通りに動かそうとすることは決して良いことではありません。なぜならそれは人を人間として扱うのではなく、道具として扱うからです。そのようにしているとやがて友人を失うでしょう。だれでも自分を人間として考えているし、ペンチや金づちや消耗品の釘であるとは考えてはいないからです。イエス・キリストは仕えるという道を選択されました。サービスの道です。ですから彼にはなんと友人が多いことでしょう。世界60億人の人口の中でイエスさまに従う人々は三分の一に達します。宣教師たちはいのちを顧みずジャングルにまで飛び込んで行きます。自分たちのためにいのちまで捨ててくださった方を意識すればこそではありませんか。
 十字架はサービスの極致です。そしてサービスをする者にはなんと多くの友人が与えられることでしょう。

真の自由を行使しますか、それとも

 9−12節をお読みください。「神の子」とはイエス・キリストにとっては与えられた立場であり、環境です。でも先に書きましたようにそれをお使いになりませんでした。もし持っていたら、私たちは使用するでしょうね。たとえばあなたが強盗に襲われたとしましょう。あなたはピストルを手に持っています。あなたはそれを使いますか。きっとお使いになるでしょう。そしてそれはあなたの自由です。でも真の自由はこれとは別のものです。
 ちなみに精神分析では人間を犬や猫と同じもの、すなわち本能によって内側から突き上げられて行動するものと考えます。人生とは本能を表出し解消する過程です。したがって人生とは、と問われれば本能を満足させることと答えるでしょう。この原理を快楽原則と言います。しかし現実原則も提出されています。たとえば上司に叱られた、そこで殴ってしまった、ということは現実には少ないのでは。首になるからですね。それでもこのレベルでも人間として、そのレベルは低いのではないでしょうか。今損をしても、これをしたいと思うときがあるものです。人間の尊厳の問題です。

 ビクター・フランクルはナチスの迫害を逃れて、アメリカに行こうとしました。ビザが取れたのです。でも高齢の父親は身動きできません。父親は自分を置いて逃げるように勧めます。このときフランクルは父親と共に残ることを決意します。彼にとってそうすることに意味があったからです。彼にとってお父さんとともにいることは人を愛することであり、正しいことでした。

 ところでフロイトによれば「就学前に人生の方向は決定してい」ます。古の昔からこうも言われます、「三つ子の魂百までも」。ではもうあなたの人生に新しい選択の可能性はないのでしょうか。先の話の繰り返しになりますが、確かに快楽原則は現実原則との兼ね合いで、すなわち両者が一致しているとき理想であるとはされます。この状態を昇華と言い、たとえば人を殴りたい快楽原則をそのまま実行すると問題になるので、ボクサーの世界で、すなわちこの場合の現実原則ですが、ここで満たす。しかし難点がこの理論にはあります、だれもがボクサーの素質を有しているわけではないことなど。精神分析の人間観は決定論と因果論に立ち、しかしそれでも宿命論ではありません。過去の影響から離れるべきことを強調しています。でもここでさらにもう一つの難点が明らかとなります。すなわち離れたあと、すなわち自由になったあとどうするのか、です。けれどもここでお話したいのは真に私たちは自由であるのか、です。

 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。(ローマ7:15)

 パウロは以上のように良心の苦しみを表現しています。あなたにも同じ様な葛藤があるでしょう。

 ミールルー博士は『心の強姦』という本を書きました。朝鮮戦争時代の捕虜の一部はなぜ祖国を裏切ったのかと問うています。博士の説明ではよく訓練された2人1組の洗脳チームによって1回10−12時間洗脳され、同じことが次々に現れる新手のチームによって繰り返され、その間睡眠も食事も与えられず、24時間、36時間と続けられた。このような状況で耐えられたのは神さまの助けを信じた者たちだけだったと報告しています。
 私たち人間はどんな困難な状況でも絶望しなくても良いのです。神さまから与えられた良心があるからです。ただし今故障中なのが問題です。でも心配しないでください。神さまが修理してくださいます。修理されさらにその働きが強められると、あなたはあなたの自由を強力に回復します。もはや過去や環境に踊らされなくてもいいのです。ここに人間の尊厳があります。

 さて結論に行きましょう。私たちはどのようにしたらハイレベルな人間性を回復できるのか、です。それは、御霊です。御子によるあがないを信じる者には御霊が伴います。1節を確認してください。イエスさまの勝利は御霊が鍵なのです。それはあなたにおいても同様です。御霊はあなたに常に悪魔への勝利を約束してくれます。どうか謙虚な心で聖霊さまに聞いてください。そしてお声が聞こえたときに、即座に実行してください。あなたにはそのことが実行できます。


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