92.あなたもザアカイ
聖書箇所[ルカの福音書19章1−10節]
今回はザアカイのお話をご一緒に学びましょう。まず、ルカの福音書19章1−10節をお読みください。話としては簡単なものでしょう。イエスさまのうわさを聞き付けた彼ではありましたが、人々の壁に阻まれて近付くことができません。イエスさまが私の方に来てくれないかなあと密かに期待しつつ、背の低い彼は木に登り待ちます。三つの聖句をヒントにこの箇所から恵みを受けましょう。
「木の上に」[4]
これにはどういう意味があるでしょうか。結論を言いましょう。彼は疎外されていたということです。疎外こそこの話のテーマです。あなたにも経験がありますか。「私の気持ち、だれも分かってくれない、なぜ?あーあ……」「一生懸命に努力したのに、どうして理解してくれない?……」というような。ザアカイはそのような意味では現代人の典型かもしれません。いや実は人類の長ーい昔からの解決できない問題です。創世記4章12節と13節ではカインがその苦しみを訴えているところを見ることができます。弟アベルを殺した彼は周囲の目の厳しさに耐えられないと言っています。カインは私たち自身のことであり、罪の世界で生きる私たち人間の宿命を教えています。疎外は大きな問題であるだけにそのままにしておくと私たちは道を誤ります、その孤独の強烈さのゆえに。死刑評決を受けた、オクラホマシティー連邦ビル爆破事件(死者168人と負傷者500人余を出した。1997年)の主犯ティモシー・マクベイ被告(29)は、愛国心に満ちた極めて優秀な兵士であったことが確認されています。湾岸戦争(90年8月2日、イラク軍がクウェートに侵攻、米軍を中心とする多国籍軍が2月26日に解放。時の米大統領ブッシュは91%という記録的な世論支持率を獲得)では戦車の砲手として大活躍。読売新聞1997年6月23日号はこのマクベイ被告について、陪審員の一人で自らも空軍兵士だったフレッドクラークの口を借りて、疎外感こそ犯人ではないか、と次のような分析記事を載せています。
国中が戦勝気分と愛国心にあふれ、プッシュ前大統領の支持率を押し上げた高揚感は、経済情勢の悪化とともに、あっという間にしぼんだ。「'89年のベルリンの壁崩壊以降、空軍では、50万人から30万人へと、規模を削減した。陸軍でも海軍でも同じことが起き、軍縮と経済政策について、政府への不満が一気に高まった。特に、優秀なのに軍隊を去らざるを得なかった人たちが、不満を募らせた。マクベイ被告もそうした一人だったのかも」。
裁判中、表情一つ動かさず、死刑評決を受けて法廷を出る直前には、陪審団席を振り返り、下げた左手でピースサインを作ってみせ、「自分のしたことは正しい、と最後まで固く信じている」様はこの分析の正しさを裏付けているのかも知れない。
確かに「俺は正しい!」と信じていなければ生きてはいけません。これは深層心理学では安全操作と呼ばれるものです。自分を疎外した社会や人々に復讐をする態度です。ザアカイの場合はどうだったのか。もともと何かの理由で疎外感を感じていた彼は敵の走狗、取税人という立場を得てさらに同胞から嫌われるようになります。ついにザアカイは自尊心を捨ててまで、祖国ユダヤを植民地にしている敵ローマと運命を共にしようとしています。自分が生きるはずの世界が自分を疎外したので、その世界に刃を向けています。でもそうすることによって幸せになれるわけではない、疎外から解放されるわけではない、これは彼にとって大きな問題です。
ザアカイの物語が疎外に悩む私たちに希望を与えるのはそこにイエス・キリストがおられたということです。これは決して偶然ではありません。たまたま出会った、のではありません。ザアカイはイエス・キリストが彼を愛するがゆえにデザインされた出会いでした。もしあなたがいま「木の上」にいらっしゃるならば、あなたの前には愛のイエス・キリストがおられることを知ってください。
「あなたの家に泊まる」[5]
これにはどのような意味があるでしょうか。これは「ザアカイさん、私はあなたをありのまま受け入れますよ、あなたを裁きはしませんよ」というメッセージです。単に玄関口にお邪魔したのではありません。食事をともにしたのでもありません。ちなみに食事をともにすることは友人になることを意味します。でもその程度のレベルではありません。家に泊まってくださるのです。それこそザアカイが感激する理由です。ありのまま受け入れてもらえるということくらい私たちにとって心休まることはないのではないでしょうか。私たちには隠したい事実、ほんとうは改善しなければならないがそのようにできないで苦しんでいる事実があるから。周囲からは「変われ!変われ!」の大合唱。
なぜ女子高校生は援助交際に走るのか、というテーマでの取り組みが『援助交際の少女たち−どうする大人?どうする学校?』(東研出版)というブックレットにまとめられました。彼女たちの声はおおむね次のようなものです。「親が受け入れてくれない。お父さんとは話す時間がない。ウリ(援助交際)で得たお金は大事じゃない、パアーッて使っちゃう。本当に欲しいものはアルバイトで稼ぐ」。彼女たちの心の叫びが聞こえて来るようです、「私を愛して!私に関心を示して!いま、ここに、こういう私、このような私がいるのに、どうして無視するの?」という叫びが。
イエスさまがあなたをありのまま受け入れてくださいます。大切なことはあなたがご自分の責任で肯定的な応答をなさることです。ザアカイはそうしました。その人の人生はその人が生きるべきです。他の人が代わって生きることができるわけではありません。ところであなたは試練に出会う、困難に悩むことがあるでしょう。それはあなたを愛する神さまによる演出です。たとえば受け入れてもらえるはずの自分、そのありのままの姿の中にいくつもの弱点や問題点が含まれていることに気付きます。するとあなたは、まずあなた自身を受け入れることが困難になるでしょう。まして他の人に受け入れてもらうことなど問題外の外。でもそれらのものはほんとうにマイナスなものでしょうか。私たちは病気になったり、失敗したりすると、つい自分は世間の邪魔物だ、人生の失敗者だ、と思いやすいものです。また周囲の人々も同様に考えていたりするのに気がついたり、勝手に思い込んだりします。むしろそのようなときは、マイナスと見えるようなときは、新しくかつ魅力的な世界に顔を突っ込んでいるときです。新しい世界への冒険のはじまりです。
心筋梗塞やら骨折やら意識障害に陥ってしまった精神分析学者ユングはこう言っています。「私にとって仕事上で実り豊かな時期がはじまった・・・私の重要な著作の多くは、この時期にはじめて書かれた」(『ユング自伝』みすず書房)。
ファニー・クロスビー(1820-1915)は生後6週間で失明しました。不自由な苦しい日々の中で5000以上の賛美歌を作詞しました。
私たちは自分を神さまよりもあたまがいいとは考えないようにすべきです。信仰とはイエス・キリストのお考えを自分のものとして受け入れることです。彼のなさることを、すでにあなたの上になされたことをすなおに受け入れることです。ここに新しい人生への希望あるスタートがあります。
「きょう、救いがこの家に来ました」[9]
ところでありのまま受け入れてもらえることについてですが、あなたには何の疑問もないでしょうか。「もし、私があの人をありのまま受け入れたとして、あの人の持っているあの良くない習慣についてはどう考えたらいいのだろうか」というような。素朴ではありますが、とても良い質問です。実はここが世間一般の「ありのまま」とキリスト教の「ありのまま」との違うところです。イエスさまは、人がありのまま受け入れられた後に神さまからやって来る革命的な変化を前提にして語っておられます。そうでなければ人は悪くなるだけなのです。つまりありのまま受け入れられることは終着点ではなく、新しくされることの出発点です。私の大好きなビクター・フランクルはゲーテの格言とともにこう言います。「もし私たちが人々をありのまま受容するならば、彼らはさらに悪くなる。しかしもし私たちが彼らをあるべき最高のものであるかのように受容すれば、彼らがなるうるものになるのを私たちは援助できる」
8節をご覧ください。ザアカイはなんという大きな変化を見せていることでしょう。彼は全財産をなくすかも、あるいは新たな負債を抱えることになるかも。非常に大きな勇気が必要であったでしょう。これこそ神さまのわざです。イエスさまはザアカイを「あるべき最高のものであるかのように受容」されたのです。だから「なりうるものになるのを」イエスさまは「援助」なさることができました。それにしてもなんという大きな変化でしょうか。彼の人間としての中身が変わったことを証明しています。いやこの姿こそ彼本来の姿でした。イエスさまをそれをあらわにされました。ザアカイはこう叫んでいたでしょう。「そう、そうこれがほんとうのの私!ついに見つけたーー!」。ほんとうのあなたをイエスさまが見つけてくださいます。そこには疎外に悩むあなたの姿はありません。
ザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(8)
どのようにしたらあなたもザアカイのようになれるでしょうか。7節をご覧ください。人々からイエスさまは非難されています。でもまったく動じない姿もあなたは見るでしょう。やがてはつばきを吐きかけられ、鞭打たれ、槍で刺し抜かれ、からだ中あちらこちらから血が流れ出るままに放置されました。でもこのような運命を辿る彼の目は父なる神さまに釘付け。ザアカイも今、目の前のイエスさまに釘付け。これがザアカイを変えました。ザアカイはもはやイエスさま以外のだれも眼中にない、という世界に入っていました。これを実存的な関係と言います。このような関係にはいるとき、人は自分を変え始めるのです。あなたはいかがですか。人の目が恐いですか。このような実存的な関係、イエスさまとの閉じられた関係、その間にはだれも入れない関係、にはいるとき、あなたにも大きな変化がやって来ます。あなたもザアカイ、革命的に変えられます。
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