93.幸運な人ヨセフ
聖書箇所 [創世記37−45章] 「幸運な人」と聞くとあなたはどのようなイメージを思い浮かべますか。棚からぼた餅式に次から次へと良いものが黙っていてももらえる人でしょうか。そういうふうに考える方々は少なくないかも知れません。
聖書が言う「幸運な人」はそういうものではありません。一言で言うならチャンスを自分のものにする人のことです。神さまはどの人にもまったく平等であって、チャンスを私たちの人生のあらゆる場面にたくさん用意して下さっています。ただ自分のものにするか、見逃すかどちらかであり、それが「幸運な人」にするか、しないかの違いとなって現れてきます。
今回はヨセフの人生からそのチャンスがどのようなものなのか、また彼はどのようにしてそのチャンスを自分のものにしたのかを学び、私たちも「幸運な人」になるべく学びましょう。
孤独の時
彼は少年時代からいくつもの孤独を経験しています。乳母デボラ(彼のおじいちゃんであるイサクのお嫁さんリベカの代から一緒に生活)の死- お母さんラケルの旅途中での死。これは彼にとってはそれまでで最高の痛手であったでしょう
- お父さんとその兄弟(彼のおじさん)たちの死
あなたにも孤独のときがありますか。「あーあ、だれも私のこの気持ちを分かってくれない」というような時が。でもこれがチャンスというものです。ヨセフはこのチャンスをどのように活用しましたか。夢を見る時としました(37:5、9)。夢は寝ているときにだけ見るものではありません。孤独の時、あなたは神さまと2人だけになります。だれもその会話をじゃますることができません。孤独の時、神さまからあなたは夢をいただかなければなりません。ちなみにヨセフの夢はそのとおりになりました(42:6)。
ひどい仕打ちを受ける時
ヤコブ一族は大家族です。牧畜を生業とし、このときは牧草の豊かなヘブロンの谷にいました。でもいくら豊かといえども無限ではありません。やがて牧草を求めてシェケムへ移動します。しかし牧畜をする者たちの考えることはだれも同じで、牧草地の取り合いに、つまり流血の惨事に発展する可能性が常にあります。ヤコブは息子たちが心配になり、ヨセフを見にやります。このあたりの話は37章12節以降に記されています。さて兄たちのひらめいたアイディアとは何だったでしょうか。「彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ」(37:18-20)。さすがに長男ルベンは冷静で拒否権を発動します(21、22)。でも結局ヨセフは奴隷に売られてしまいました。彼らが反省し、後悔するのは25年後のことです。
さてこのときのヨセフの対応の仕方です。なんと立派なものでしょうか。恨みごと一つ言わないのです。ヨセフはこの一連の対応によってイエス・キリストの型であると言われます。ひどい仕打ちを受ける、奴隷に売られる、買われる(28)。
話を戻しましょう。彼のその立派な対応を私たちは学ばなければならないでしょう。のちになって売られた先で大出世してエジプトの総理大臣になっていた彼の口が発したせりふを私たちは忘れることはできないでしょう(45:5)。
あなたはひどい仕打ちに会ったことがありますか。どのような対応をしましたか。ヨセフのスマートな洗練された応答こそ神さまの祝福を勝ち取る秘訣です。
すべてが順調の時
39章1節から6節までを見ますと、エジプトの高官ポティファルに買われたヨセフは信頼を得て、出世し、最高に祝福されていたことが分かります。私たちの人生にはすべてのことが順調に進む時というのがあります。これはあなたを愛していて下さる神さまからのありがたいプレゼントです。このようなときのヨセフの態度は立派です。決して高慢になってはいません。
でもこのあと落し穴が待っていました。「もし彼女の言いなりになれば、なお出世は可能かも知れない、少なくとも従来獲得してきた地位や名誉や財産は守られる。でも拒否すれば・・・」と彼の心の中には葛藤があったでしょう。
あなたならどちらを選びますか。上司から不正をするように命令された場合などにです。ヨセフは後者を選びました。彼はしばらく上昇気流に乗っていました。彼はそれを神さまからの恵みと理解していましたので、決して高慢な思いはありませんでした。たとえば、「これは俺の能力の高さを表わしている、俺のあげた実績だ!」というような。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)。彼はあくまで謙虚でした。これが神さまを感激させました。
彼の選択は間違っていませんでした。というのは神さまは彼をもっと広い世界で、かつ大きく用いようとお考えであったからです。それはポティファル家ではなく、もっとスケールの大きなエジプト王国という当時の世界で最先進国においてでした。彼の決断は確かに祝福されたことが分かります。
目先のことに囚われない
どんな場合にも彼には一つの共通した対応の仕方があることが分かります。何でしょうか。それは目先のことに囚われない、ということです。孤独のときに、落ち込むことは一つの簡単な選択です。ひどい仕打ちを受けた時に、うらんだり、仕返しを考えたり、実際にそうしたりすることも同様です。さらにすべてが順調なときに自分を誇ることも気持ちの良い、しかも安直な方法です。でもこんな対応の仕方は目先の利益にこだわった性質のものです。もっと私たちは先を見る目をあるいはもっと重要なものを見る目を持たなければなりません。見るべきそれらは未来、永遠、神、天国、あなた個人へ与えられた生きる意味、真の自由などです。
ビクター・フランクルはナチスの迫害から逃げようと旅券やビザを入手しました。でも父親は高齢で行動を共にすることができません。父親は自分たちだけで逃げなさいと言う。彼はこのとき父親と苦難を共にするべく留まることを決意したのです。彼にとってそうすることに意味があったからです。もしそうでない決断をしたら、きっと一生悔やむ事になったに違いありません。
しかしそればかりではありません。彼は強制収容所における自らの経験に基づく研究成果を戦後発表し、この世においてさえも不世出の貢献をし、多くの人々から尊敬を勝ち取っています。目先の事よりも生きる意味を大切にすることは、今も将来もあなたを祝福します。
中国の家の教会の伝道者・Aさんは、信仰ゆえの反逆罪で捕らえられた。最初は無期懲役の判決を受け西北部にある労働改造所に送られたが、17年間服役した後、突然、6年後に釈放との減刑を言い渡された。だがAさんは、この減刑判決が「キリストの福音を伝えたことを罪と認めるなら」という条件付きであったため、信仰ゆえに拒否した。
Aさんは今も労働改造所におり、キリストの証人として服役している。教会の兄弟姉妹たちからも、もう帰れるのだから帰ってきてほしいという、熱意を込めた手紙が送られた。それに対するAさんからの返信は、次のような内容だった。
「投獄された日から神が一歩一歩導いてくださったことを忘れたわけではありません。最初に主から委ねられた任務が、まだ完成されていないのです。戦いは終わっていません。歩むべき道はまだ続いています。証しも十分には出来ていません。この状況を考えてみると、私は残念ながらみなさんの大きな期待に背いて、何よりも神の御心を第一にさせてほしいと、ここに残ることを願うだけなのです。
神の御心が既にはっきりとしている時、問題になるのはどうやって更に御心を求めるかではありません。従おうとするかどうかです。主の御心に従うために代価を払おうとするかどうかです。もし従おうとするなら喜んで高い代価を払うべきです。神に従おうともせず、自分にとって益になることを愛し、ごまかして、『私はもう一度主が何を言おうとしているのかを尋ねてみます』と既に明らかにされた主の御心のほかに、自分の利益や希望にそったもう一つの御心を尋ね求めるなら、私はバラムの道を歩むことになるでしょう。
今日私が、減刑判決を受け入れるかどうかについて神の御心はもう既に明らかです。ごまかすことは出来ません。ですから、これについて私のとるべき態度は拒絶です。主ご自身がなさったように、私は人から要求される値は少しも払いません。またこの値に代えて備えられているいかなる利益も拒否します。
問題は、みなさんがこのことを主の側に立って見ることが出来るかどうかです。兄弟姉妹、主は既に導いてくださいましたし、これからも必ず導き続けてくださいます。どうかこの私を神の御手にゆだねて、キリストがなさりたいようにさせてください。それでよいのです。彼らの要求に従えば、私は神の御心に従う自由を捨てることになります。御心に従う自由こそ、私にとって最も尊いものです。神の御言葉に堅く立つ自由、十字架を負って従う自由、神の恵みとあわれみの中に生きる自由は、ほかから少しも干渉されたくない私の宝です。
外面的に見て私は長い間、人間としての自由と政治的な権利を奪われ、犯罪者として投獄されてきました。しかし私は、このことによって更に多くの尊い真の自由に満たされたのです」(「中国・労働改造所服役囚からの手紙」クリスチャン新聞)。
未来、永遠、神、天国、あなた個人へ与えられた生きる意味、真の自由などを見るとき、あなたは神さまの用意して下さった真の幸運を手にすることができます、あなたは「幸運な人」と呼ばれます。あなたが真に「幸運な人」でありますように。
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