96.聖書の世界をのぞく
聖書箇所 [詩篇1篇1−3節]
私たちは聖書を神さまから与えられたものとして大切にしていますし、また聖書が教える世界がどんなものであるかを体験してみたいとも考えています。詩篇は聖書の世界を生きている人の心を表現したものです。聖書の世界を知るのにはうってつけです。ご一緒に聖書の世界をのぞいてみましょう。
聖書への接近法 − 主の教えを喜びとし[2節]
人と人との出会いもそうですが、近づき方には工夫がいるものです。
さて聖書を読むときにどこから読み始めたらいいのでしょうか。きっと真面目な人は創世記からとか、新約聖書ならマタイの福音書からと考えて、見慣れないカタカナの名前の羅列に気分を害するのでしょう。逆にユダヤ人(旧約聖書のみが聖書)の間では創世記の次の次であるレビ記からと考える人もいるようです。でも私たち異邦人には無関係な規則ばかりで、「なんだ、お刺身も豚カツも食べられないじゃあーないか」と憤慨するのが落ちでしょう。
今回はそのようなことにも配慮して詩篇からスタートしました。1節の「主」とはヤーウェ(まことの神さまの持つ固有名詞)、「教え」はトーラー(律法)で、私たちには「神さまに起源がある聖書」の意味です。
さて「喜ぶ」は欲するとも訳することができ、普通の動詞ではありますが、前置詞を取り、それは「〜の中に」の意味に理解することができます。するとこの部分の全体は「聖書の中から喜べる部分を取り出して喜び」と訳せます。要するにつまみ食いは良いというのが結論です。これは、これは、なんという朗報。あなたが聖書をぱらぱらめくっていて、「あっ、これは!」というのがあったら(実は、父なる神さまと子なる神さまとから送られた聖霊さまのお働きによるものです)、そのおことばをあなたが神さまから個人的にいただいたものと受け取ってなんの問題もないというわけです。おおいに気に入った聖句を見つけてください。
聖書活用の仕方 − 昼も夜も口ずさむ[2節]
さて学んだあとはどうしたらいいでしょうか。「口ずさむ」(動詞)と訳された語は「音を発する」、「つぶやく」、「話す」の意味です。もし主語がライオンなどの動物であれば「吠える」、あるいは「うなる」です(イザヤ31:4)。しかし「思い巡らす」や「瞑想する」の意味もあります。
ではどちらの訳が正しいのでしょうか。イスラエルの高校ではディベートの時間があるそうです。このケースではそれぞれ「口ずさむ」派と「思い巡らす」派に別れて意見を戦わすそうです。聖書は神さまのおことばです。でも有限なる私たち人間の側に受けとめ方に差異が生じる余地は避けられません。決してディベートが神さまの、そして聖書の権威を傷つけるものではありません。おおいに私たちもやろうではありませんか。真理を求めて。
さて解答は?私なりに探究してみました。「昼と夜」が鍵になります。この表現はきっと世界のどこへ行っても「一日中」程度の意味でしょう。ところで昼の特徴は「ええかっこしい」の時間とは言えないでしょうか。では夜は?そうです。本心があらわになるとき。「この前はたいへんお世話になりました!」と昼間は言い、夜は一人になって、「余計なことをしてくれて・・・ブツブツ」と内心思うというようなことが私たちにはあるのではないでしょうか。大きなギャップがあります。これはきっと「言行一致しなさい」というチャレンジに違いありません。
イエス・キリストは十字架へ胸を張って進まれます。そして厳しさの中で「あなたのみこころのままになさってください」(マタイ26:39)、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と、発言と思いが続くではありませんか。あなたも聖書を読むとき、きっと何かのチャレンジを受けるでしょう。
聖書からの警告 − 悪者のはかりごとに歩まず[1節]
「歩む」、「立つ」、「座に着く」という3つの動詞が登場しています。これはそのまま人間が悪に落ちて行くときの順序であると言われています。悪の近くを「歩み」、「立ち」止まり、とうとう「腰を落ち着け」てしまうのです。聖書は生まれながらに人間の心の中には悪への傾向があることを教えています。創世記8章21節に「人の思い計ることは初めから悪である」とありますが、「思い計る」はイェツェル。これは「想像」や「衝動」を含意した語です。もちろん私たち人間は善いこともイメージ、すなわち「思い計る」こともします。これは私の独断と偏見から言うのですが、精神分析学の創始者フロイトは2つの本能『「死の本能」と「生の本能」』と言うアイディアを聖書から得たのではないでしょうか。と言うのは彼はユダヤ人であるから。
さて聖書は常に私たちに希望を与えます。聖書の世界は実に大きな広がりを、新しい魅力的な姿を私たちに見せてくれます。その出発点は言えば、私たちのこのような悪への傾向という性質が聖められ始めるときと言えるでしょう。
小咄を一つ紹介しましょう。3日後には大洪水が起き、世界が水没してしまうという警告が発せられました。防ぐ方法は何もないという。テレビで、仏教の高僧が「みなさん、仏教徒になりましょう。そうすれば、極楽に行けて救われます」と言い、ローマ法王も同じようなメッセージを伝えた、「今からでも遅くはありません。イエス・キリストを受け入れよう」と。しかしイスラエルで最高位のラビは少し違っていた。「水の中でも生きられる方法を学ぶのに、まだ3日あります」。
ユダヤ人(イスラエル人)は(旧約)聖書を預けられた民族です。面目躍如。ころんでもただでは起きない、彼らユダヤ人のたくましさを教えている話ですね。このたくましさは聖書の世界で養われるものです。そして真の聖さはイエスさまのあがないによることが、あなたには聖書から発見できるでしょう。
神さまの豊かな祝福があなたにありますように。
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