キリスト教入門講座・全16課
第11課 人生の意味(試練)

 人生には試練がありますが、人々はそれを決して好んではいません。できることなら避けたいと願っています。試練の時はよく夜にたとえられます。真っ暗であたりに何があるかわからず、つまずかないようにゆっくり歩かなければなりません。それでも心は恐れを感じつつ、なお不安な状況からの脱出を求めて手がかりを得ようとしています。しかし多くの人々が見出すことなく、小さな光に一喜一憂しながら確信のない歩み方をしています。このような生き方はやがて周囲の人々を憎むように導かれます。
 なぜ試練があるのかを知らないなら人生はむなしく、また、なぜ自分にだけあるのかと憤っているなら悲しいことだと言わねばなりません。意味のある喜びのある人生を生きるために、聖書に試練の意味を尋ね恵みを受けてまいりましょう。

第一に、あなたは神さまに愛されています。

 
「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」 (ヘブル12:6)。
神さまは親として、子どものあなたを愛しておられます。その愛の目標は何でしょうか。それはあなたに永遠に幸福な人生を歩んでもらうことです。というのは神さまの見方によれば、人は生まれながらに永遠に不幸な道を歩んでいるからです。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」 (ローマ3:23)。
しかも恐ろしいことに、そのことに気づいていないのです。

 ある財産家に2人の息子がいました。何不自由ない生活をしていましたが、弟息子はある時自分の相続分を持って家を出てしまいました。さて湯水のようにお金を費やしたあと、すべての友人は去り、働くすべを知らない彼は餓死しそうになりました。彼にとつて初めて経験する大きな試練でした。我に返った彼は家に向かいますが、父親に先に見つけられ、大歓迎を受け、以前の幸福な生活に戻るのです。放蕩息子は試練の中で初めて父親の愛を知るのです。
 この話はルカの福音書の第15章に出てくるのですが、父親とは父なる神さまのことです。神さまの愛は無条件で赦す愛です。放蕩息子は汚れたボロを身にまとい、無一文でした。持ち出したものすべてを失いました。でもそのまま受け入れられたのでした。
 なぜこのようなことが可能なのでしょうか。イエス・キリストのあがないこそ答えです。イエスさまはあなたの罪を背負われ、罰を受けて十字架で死なれたのです。
 ところで愛が御子キリストを捨てるほどの大きなものであっても、私たちにはなかなか理解できないものです。そこで「かわいい子には旅をさせよ」のことわざどおり思いのままに行動させ、あってあたりまえ、思いどおりになってあたりまえということが決してそうでなく、神さまの恵みであることを教えるのが試練なのです。人は、試練に会って初めて、生かされている恵みを知ることができるのです。

第2に、自我を砕いてあなたを謙遜にします。

 自我とはエゴイズムであって、聖書では心の中の偶像と言っています。偶像はあなたから自由を奪い、知・情・意は奴隷のように従わせられます。
 たとえば知性は人のうわさ話や汚れた思いで占領されて、徳の低い人物になります。感情もコントロールできません。愛とは愛する意志のことですが、この意志が好き嫌いといった感情に支配されてしまいます。
 人類の祖先アダムの罪(自我を砕かなかった)のために、子孫に不幸を残しました。人生は砕かれない自我を偶像とするとき、自由は奪われて喜びと平安と幸福とを失います。しかし試練は、あなたの中に強い自我があり、それがさまざまな問題の原因となっていることを教えるのです。
「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい」 (第1ペテロ5:6)。
「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」 (第1ペテロ5:5)。
「神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」 (第1ペテロ5:10)。
今あなたが試練の中にあるなら、今神さまの前にへりくだりましょう。心の王座に神さまを迎え、「お考えをお教えください。おっしゃるとおりにいたします」と言いましょう。こうして試練は祝福の人生への入口となります。
「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」 (イザヤ57:15)。

第3に、ほんとうの祈りを教えます。

 
「私は・・・すわって泣き、数日の間・・・断食して天の神の前に祈って、言った。『ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。・・・』」 (ネヘミヤ1:4−5)。
 ネヘミヤは試練の中にありました。イスラエル(北)王国は紀元前721年にアッシリヤ帝国に敗れ、人々は捕囚となり、その後1世紀半ほど過ぎてからユダ(南)王国もバビロン捕囚となります。
 やがてペルシャ帝国がバビロン帝国にとつてかわり歴史に登場すると、被征服民族に対する寛容な政策の下、イスラエル人に帰国の許可が下りました。ネヘミヤは文官総督として城壁再建とエルサレムの都市復興の使命を与えられて帰って来ました(紀元前445年)。第一回帰還から百年近くたっていたのに、域壁の再建は少しも進んでいなかったのです。近隣諸国、住民が工事を直接妨害もし、あるいは告げ口をしてペルシャ王に疑いの心を持たせ、工事中止の命令を出させることに成功したからでした。
 しかしネヘミヤは信仰をもって、52日間で城壁を完成させ、エルサレムは要塞都市として復興しました。この間ネヘミヤにとつては厳しい試練の時ではありましたが、それに耐えさせたのが祈りの持つ力でした。

 試練の時にこそ、人は真実の祈りをすることができます。今までの生き方、考え方は丸裸にされ、すべてがあらわになります。いろいろな思いが去来し、夫に頼ろうか、妻に頼ろうか、子に頼ろうか、親に頼ろうか、自分の力に頼ろうか。赤裸々な迷いと告白ののち、まことの神さまに祈るべきことを知るのです。
 神さまはあなたが試練によってほんとうの祈りを知ることを望んでいらっしゃいます。ほんとうの祈りとは、天地の造り主で唯一の神さまに祈るものです。この神さまだけがあなたを助ける力を持っていらっしゃいます。
「わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない」 (イザヤ45:21)。
試練の時には感謝して、よく祈りましょう。祝福を受けるチャンスです。ヨブは東の方で一番の金持ちでしたが、全財産と子どもたち全部と健康を失う試練に会いました。しかし、
「ヨブが・・・祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて2倍に増された」 (ヨブ42:10)のです。
「主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方」 (ヤコブ5:11)なのです。

第4に、人格を高めます。

 
「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」 (ヘブル12:10)。
すぐれた人格、高い特性は試練の中で養われます。試練に会わずにトントン拍子に人生を過ごした人は思いやりに欠け、高慢であると言われます。反対に入院の経験者は思いやりを身につけているとも言われます。試練を経験した人は、全く同じでないにしても似た経験をしているので、人に同情し、思いやることができます。人を見て、感受性鋭く接することの許された者、それは試練に会った人です。ですから神さまはあなたを必要とし、また愛して、試練を用意してくださいます。
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」 (第1コリント10:13)。
こうしてあなたは全人格的に聖められていきます。
「私たちは・・・患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」 (ローマ5:2−4)。
神さまはあなたを愛しているからこそ試練を下さるのです。その試練はあなたに祝福を与えます。

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