キリスト教入門講座・全16課
第四課 イエス・キリスト(一)
現在は過去の積み重ねであり、また過去の土台の上にあります。このことは、将来を考えるとき希望を与えてくれます。今日から良い種を蒔けば、明るい未来を生み出すことができると言えるからです。
ところで、人は人格です。人格も過去の産物であり、人を見るならその人が過去にどれほどの人格に出会ってきたかがわかると言います。親に捨てられた、友から裏切られたなどの経験から、社会と人とは信用できないと信じてきたなら、その人の現在の生きようは想像できます。この課では、すべての人にまさるすばらしい人格のお方をご紹介させていただきたいと思っています。それはイエス・キリストです。このお方と出会いなさるなら、あなたの人生はすばらしいものになるでしょう。なぜなら彼は、あなたという人を根本から変えてしまうことがおできになるからです。イエス・キリストとはどのようなお方なのか、さあ学んで参りましょう。
第一に、まことの神であり、まことの人であられます。神性と人性を併せ持つ方です。
何もないとき、世界はことばによつて造られましたが、このことばこそキリストなる神であられるのです。「初めに、ことばがあった。……ことばは神であった。……すべてのものは、この方によって造られた」(ヨハネ1:1ー3)。キリストは人を、そしてあなたを造ってくださった神なのです。私たち日本人には、「神」に対してあるイメージがあります。それは「八百万の神」と言われるように数多くあり、相対的な存在です。しかし、天地の造り主であるまことの神さまは、絶対的な存在者なのです。さてここに驚くべきことが起きました。神であられるキリストが人となってくださったのです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)。
イエス・キリストは処女マリヤから、聖霊さま(第6課と第9課で学びます)により罪を持たないように守られ(この点だけがイエスさまと私たちとの間の相違点です)、ユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。私たちと同じように幼児期、少年期、青年期、中年期を過ごされました。職業は、父ヨセフの後を継いで大工さんでした。早くにヨセフがなくなりましたので一家の大黒柱として、母、弟たち、妹たちを養われました。イエス・キリストとはこのようなお方です。
では、まことの神が人となられるということは、私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。それは、この世界と歴史に神さまが深い関心を持っておられるということです。もちろんそれは主人公である、人に向けてのもの、とりわけあなたに向けてのものです。
「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます」(詩篇139:1−3)。
イエス・キリストの現れは、あなたが神さまに愛され、深い関心を持たれていることの最高の表現であり、証拠です。
第二に、メシヤ(救い主)です。
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(ルカ2:11)
人は救われなければならない状態にあります。新聞は暗い記事で満ちています。悲しいことに、たまにある小さな親切で紙面を大きく飾らなければならないほど、新聞は暗い記事で満ちています。社会は病んでいるのです。離婚も多くなっています。初めは愛し合って結ばれたふたりのはずなのに、いつのまにかすきま風が吹いています。取り残された子どもたちは非行に走ります。世には「平和団体」がたくさんあります。しかし、これくらい分裂し反目しやすいものもないのです。戦争、いじめ、詐欺、病気、強盗、憎悪、殺人など、数えあげればきりがありません。
聖書はその原因を明確に述べています。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)。
初めに神さまが世界と人とをお造りになったとき、すペては良かったのです。神さまと人、人と人(アダムとエバ)とは互いに愛し合っていました。自然も人に災いをもたらすことなく、世界は全く平和でした。しかし、人は自分たちだけで世界を運営できると錯覚し、高慢になりました。神さま抜きに世界と人生を考えたのです。これを原罪と呼んでいます。以来、人はまことの神さまを無視するか、勝手に「神」を作るかして数多くの宗教が始まりました。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、−それというのも全人類が罪を犯したからです」(ローマ5:12)。
全人類の代表としてのアダムの犯してしまったこの罪こそ、人の心と社会とを暗くし、すべての希望を失わせているのです。
「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)。人と世界とは、現在も死んだままです。不幸という状態は、それ自体生命の本質に反しています。そしてこの不幸の原因は、完全な自由意志を与えられている「人」の責任なのです。ちょうど40km/hの制限速度の道路を、おまわりさんの制止も開かずに200km/hの猛スピードで走り、事故を起こし、瀕死の重傷を負っているようなものです。
神さまの心は、人の現状に痛みを覚えます。もちろん神さまは義のお方ですから、決して罪や悪に目をつぷるわけにはいきません。しかし同時に、愛のお方でもあられます。十字架だけが解決できる場所です。十字架において愛と義は出会い、交わり、またあなたも神さまと出会い、交わるのです。すなわち、神さまの義はあなたの罪をイエスさまにおいて罰し、神さまの愛はあなたをそのまま包み込むのです。
第三に、現在生きておられる方です。
生きていると表現しても、犬や猫と人の間には大きな違いがあります。いのちの質が違います。人には霊があります。これが人を人たらしめています。この目には見えない永遠に生きる霊こそ、人生の意味や価値を追い求めるのです。
あなたはどうでしょうか。追い求めていらっしゃいますか。もしこの問いに正しくかつ満足の行く解答が得られないとすると、真に生きている実感や確信が与えられません。たとえば、朝起きても何もすることがない、どこにも出かける所がない、あるいは今次の戦争中に捕虜に対してなされたように、何の目的もなく穴を掘らされ、また埋めさせられることを想像してみましょう。たまらない寂しさ、むなしさではないでしょうか。人は無意味、無価値で日常を過ごすことには耐えられないのです。たとえ物質的に豊かであってもです。
ニコデモという人はユダヤ社会指導者でした。ある夜、イエスさまを訪ねました。夜だったところに、ニコデモの悩みをうかがい知ることができます。人々のさまざまな質問に答え、導く立場にあり、当然社会的地位も高い彼です。でも、心の中にポッカリとあいた穴をどうすることもできません。彼は人目を忍んでやって来たのです。イエスさまは言われました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)。
もし人生の生きる意味がわかるなら、いのちは躍動するに違いありません。躍動するいのちがあるなら、私たちの人生は輝きます。人に新しく神さまのいのちが宿ったら、いのちは輝くのです。でも、生まれながらの人のいのちは死んでいます。
「わたし(キリスト)は、よみがえりです。いのちです」(ヨハネ11:25)。
あなたは輝くいのちを見つけることができます。それは、復活のキリストの中にあります。
「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:3−4)
十字架において死と呪いを滅ぼして三日目によみがえられ、今生きておられるイエス・キリストを心に受け入ましょう。そうすれば、あなたの隠れているいのちは今あらわになり、信じる者に約束されている神の国=天国の祝福を先取りすることができるのです。イエス・キリストはよみがえられて、今生きておられ、信じる者に恵みを下さる方です。
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