キリスト教入門講座・全16課
教会に行くのはいいが、罪について言われるのがかなわないと言う方がいらっしゃいます。しかし人が真実に生きようとすれば、決して避けることのできないのが罪と愛であるとはよく言われます。この課では罪とは何かを学びましょう。
聖書は罪については神の法律によって判定するとしています。「罪とは律法に逆らうことなのです」(第1ヨハネ3:4)。律法とはモーセの十戒のことです。旧約聖書の出エジプト記20章2節から17節に書いてありますので、どうぞお読みになってください。
では、神さまがその律法によって判定なさるとは、私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。ときどき死刑囚の処遇について話題になりますが、そのときに出てくる「再審」とは、すでに確定している判決をもう一度妥当かどうかを調べるものです。どうしてこのような制度があるのかと言いますと、人の調査・判断力には限界があるからです。そこで新しく発見された証拠により判決が覆えされることもあります。
人の判断は見つかっている証拠を基準にされます。これでは不公平です。しかしすべてをご存じの方が判断なさるとするならどうでしょうか。間違いなど起きるはずがありません。人を全体的にご覧になって、行いと思いとことばのすべてにわたって把握なさるのです。ですから第六戒では「殺してはならない」と心の中で人を憎むことをも、また第七戒では「姦淫してはならない」と心の中で情欲を抱くことをも禁じることになります。「兄弟を憎む者はみな、人殺しです」(第1ヨハネ3:15)。「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ5:28)。
こうしてただひとりのまことの神さまが罪の判定者であることにより、私たちのしたことは、すべて公平に見られ、決して悪人が得をすることはないと知るのです。ここに正しく生きようとする私たちへの希望があります。「わたしは……人が見るようには見ない……。人はうわべを見るが、主は心を見る」(第1サムエル16:7)。
けれども悪魔である蛇は、「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」(創世3:4ー5)と誘惑し、エバはその木の実を取って食べ、アダムにも与えました。これを原罪と言います。「ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、ーーそれというのも全人類が罪を犯したからです」〈ローマ5:12)。そしてすべての人はアダムの子孫なのですから、天地の造り主である神さまを否定する心(原罪)を受け継いでいます。
では原罪を持っていることの意味は何でしょう。それは人をさばいて生きているということです。「あなたの意見は間違っている」「あなたのやり方は良くない」と、まるで神さまのように善悪の最高判定者になっています。人に人をさばく権威があるでしょうか。
イエスさまはあるとき、律法を二つに要約なさいました。前半四戒を「神さまを愛しなさい」とし、後半六戒を「人を愛しなさい」とするものでした。この順序には訳があります。神さまを愛する者だけが人を愛することができると教えています。本来仲の良かった最初の夫婦は神さまを愛することをやめるや否や争いを始め、その影響はたちまちにして広がり、長男は次男を殺してしまいました。
人は人をさばいてはいけないのです。人をさばく人のことをイエスさまはこう言われました。「偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(マタイ7:5)。人は赦し合わなければならないのです。愛し合わなければならないのです。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます」(マタイ6:14)。
罪は人を肉欲と悪習慣の奴隷にもしてしまいます。自分の欲望をコントロールすることができずに、「このように思った。どうしてそのまま口に出して悪いのか」、また「このようにしたい。どうしてそのとおりにしてはいけないのか」と言います。ほんとうの愛を持ちません。しかも困ったことに正しい方向へ転換する力もないのです。
「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハネ8:34)。「私は罪ある人間……です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。……ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです」(ローマ7:14−15、17)。
今こそ、私たちは聖く生きて、つまり罪から解放されて、恵まれた生活をすべきなのです。しかも永遠にまで続く生活を。御子キリストは、まさにこのことのために、あなたの罪を背負われ十字架に死なれたのです。「ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。……それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちのイエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです」(ローマ5:19、21)。イエス・キリストだけがあなたに代わって罪を克服することがおできになります。祝福を祈ります。
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第5課 罪
教会に行くのはいいが、罪について言われるのがかなわないと言う方がいらっしゃいます。しかし人が真実に生きようとすれば、決して避けることのできないのが罪と愛であるとはよく言われます。この課では罪とは何かを学びましょう。
第一に、神の法律(律法)に対する違反です。
あなたは罪についてどのようなイメージを持っていらつしゃるでしょうか。犯罪でしょうか。あるいはよくあるような、一般的な悪事でしょうか。最近では万引きしても元あった所に返せば、何の問題もないと考える人も少なくありません。それはまた、地域や社会や文化によって変わる普遍性のないものなのでしょうか。聖書は罪については神の法律によって判定するとしています。「罪とは律法に逆らうことなのです」(第1ヨハネ3:4)。律法とはモーセの十戒のことです。旧約聖書の出エジプト記20章2節から17節に書いてありますので、どうぞお読みになってください。
では、神さまがその律法によって判定なさるとは、私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。ときどき死刑囚の処遇について話題になりますが、そのときに出てくる「再審」とは、すでに確定している判決をもう一度妥当かどうかを調べるものです。どうしてこのような制度があるのかと言いますと、人の調査・判断力には限界があるからです。そこで新しく発見された証拠により判決が覆えされることもあります。
人の判断は見つかっている証拠を基準にされます。これでは不公平です。しかしすべてをご存じの方が判断なさるとするならどうでしょうか。間違いなど起きるはずがありません。人を全体的にご覧になって、行いと思いとことばのすべてにわたって把握なさるのです。ですから第六戒では「殺してはならない」と心の中で人を憎むことをも、また第七戒では「姦淫してはならない」と心の中で情欲を抱くことをも禁じることになります。「兄弟を憎む者はみな、人殺しです」(第1ヨハネ3:15)。「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ5:28)。
こうしてただひとりのまことの神さまが罪の判定者であることにより、私たちのしたことは、すべて公平に見られ、決して悪人が得をすることはないと知るのです。ここに正しく生きようとする私たちへの希望があります。「わたしは……人が見るようには見ない……。人はうわべを見るが、主は心を見る」(第1サムエル16:7)。
第二に、すペての人にあるものです。
「すべての人は、罪を犯した」(ローマ3:23)。神さまがお造りになったとき、人には罪はありませんでした。もちろん完全な自由意志は持っていました。そして人をエデンの園に地上の王者として置かれ、ただ一つの戒めをお与えになりました。「神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ』」(創世2:16ー17)。けれども悪魔である蛇は、「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」(創世3:4ー5)と誘惑し、エバはその木の実を取って食べ、アダムにも与えました。これを原罪と言います。「ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、ーーそれというのも全人類が罪を犯したからです」〈ローマ5:12)。そしてすべての人はアダムの子孫なのですから、天地の造り主である神さまを否定する心(原罪)を受け継いでいます。
では原罪を持っていることの意味は何でしょう。それは人をさばいて生きているということです。「あなたの意見は間違っている」「あなたのやり方は良くない」と、まるで神さまのように善悪の最高判定者になっています。人に人をさばく権威があるでしょうか。
イエスさまはあるとき、律法を二つに要約なさいました。前半四戒を「神さまを愛しなさい」とし、後半六戒を「人を愛しなさい」とするものでした。この順序には訳があります。神さまを愛する者だけが人を愛することができると教えています。本来仲の良かった最初の夫婦は神さまを愛することをやめるや否や争いを始め、その影響はたちまちにして広がり、長男は次男を殺してしまいました。
人は人をさばいてはいけないのです。人をさばく人のことをイエスさまはこう言われました。「偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(マタイ7:5)。人は赦し合わなければならないのです。愛し合わなければならないのです。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます」(マタイ6:14)。
第三に、人生を破壊するものです。
罪とは神さまと交わりを断つことです。親のいない子は寂しいように、たましいの親から離れていると疎外感、むなしさ、寂しさが心を占領します。それは罪を犯す者には神さまの法律(律法)によって有罪が宣告され、指名手配されているようなものです。逃亡犯のようにやつれてしまうのです。また罪責感や良心の痛みや劣等感によってからだの病気になる者さえ出ます。罪は人を肉欲と悪習慣の奴隷にもしてしまいます。自分の欲望をコントロールすることができずに、「このように思った。どうしてそのまま口に出して悪いのか」、また「このようにしたい。どうしてそのとおりにしてはいけないのか」と言います。ほんとうの愛を持ちません。しかも困ったことに正しい方向へ転換する力もないのです。
「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハネ8:34)。「私は罪ある人間……です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。……ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです」(ローマ7:14−15、17)。
罪は三つの死を招きます。
- 第1に以上に述べたような霊的死です。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:24)。
- 第2に肉体の死です。「あなたは土に帰る」〈創世3:19)。
- 第3に「第二の死」と呼ばれる永遠の死、地獄です。
第四に、克服されるべきものです。
「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります」(第3ヨハネ2)。罪を表すアセベイア(ギリシャ語)とは、神に似ない性格を表しています。神さまご自身はあらゆるものに満ち足りているお方です。私たちは神さまに似るべきです。「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです」(第1テサロニケ4:3)。今こそ、私たちは聖く生きて、つまり罪から解放されて、恵まれた生活をすべきなのです。しかも永遠にまで続く生活を。御子キリストは、まさにこのことのために、あなたの罪を背負われ十字架に死なれたのです。「ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。……それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちのイエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです」(ローマ5:19、21)。イエス・キリストだけがあなたに代わって罪を克服することがおできになります。祝福を祈ります。
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