第154回

人の間で生きてこそ「人間」なんだ

01.7.15

人の間で生きてこそ「人間」なんだ

対人恐怖症という強迫観念がある。人と会うこと、接触することが恐くて、自分の殻にとじこもってしまう心理状態である。顔が赤くなる赤面恐怖や、人の視線が気になったり、目を合わせられない視線恐怖、声がどもる、人前で字を書くときに手が震える、人前で食事ができない会食恐怖などの症状がある。 過度に心臓がドキドキするのも対人恐怖症の症状の一つである。 ひきこもり生活をして社会に出ることができない場合もある。人間という文字が示すとおり、「人の間」で生きてこそ人間でありうるのだから、これは人間といえる状態ではない。こういうことが起こる理由はいったい何なのだろう。本来、人との接触には「こわさ」が伴うのは当然である。かくいうこの私も外来診療に出て患者さんに接するが、実は毎日こわさを感じている。初診の患者さんとは初めて合うわけでもちろんこわさを感じるし、再診の患者さんでも今日は何を相談されるかわからない状態で、毎回診療のたびにこわさを感じている。これは当たり前のごく普通の心理現象だと思っている。人と接するとき、そのこわさよりも、会って談笑することの嬉しさ楽しさの方が量的に上まわっている。だから、こわさの方は意識下に隠れ、人との交わりは楽しいことだと思うのである。しかし、完全主義、百点主義の人はこわいという心理を否定しようとする。「こんなことではいけない。ひとがこわくない自分にならなくては・・・」というふうに、正面からこわさを相手にする。相手にするからこわさはますます大きくなり、この大きくなった心情にさらにまじめに取り組む。こういう悪循環を繰り返し、最後は対人恐怖症という強迫観念となる。実際対人恐怖の人は、まじめで思いやりのある人が多いはずです。相手の気持ちを察するのが得意であろう。 ところが普段はそれが自分にとってマイナスの方向に働いてしまうはずである。例えば、いつも相手の顔色をうかがったりして、精神的に疲れたりしてくるのである。 他人が全くこわくないという人間はこの世に存在しないであろう。ひとがこわくても「これでいいのだ」とする肯定の精神、70点の自分をゆるす心が必要だと思う。こわさのない人間になるという理想主義で、自分をしばりあげ、人間でありながら、「人の間」に出られない身にならないようにしたいものである。みんなお互い相手に多少のこわさを意識しているからこそ、人間関係に礼儀も節度も生まれるのではないだろうか。
こわさがあって当たり前だ。ひとにこわさを感じる自分をゆるそうではないか・・・
そしてひとのこわさよりひとのあたたかさを楽しもうではありませんか・・・・

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