郷土の「小林無線製作所(Koboyashi Musen Mamufacturing Company)」と同社受信機への思い

1970年4月高校入学と同時に当時静岡県下でCWのシゴキで有名だった清工無線部JA2YCHの門を叩いた。部室の入り口近くに無造作に放置してあるジャンクの無線機群があった。その中に扇形をしたダイアルパネルの受信機が部品取り状態で置いてあったが、アマチュア無線用でないことは15歳の少年にも直ぐ判った。それは、地元清水市(2003年4月より静岡市清水)の若竹電業社(現ワカタケウェーブ、船舶関係無線整備施工会社)に就職されたOBが後輩達のために持ち込んでくれたものだったらしい。34年を過ぎた今(2004年)でもあの光景すなわち・・・扇形のダイアルメカや異常に大きな同調コイルとIFT、それに分厚いフロントパネル等々・・・を強烈に思い出す。その受信機が日本が世界に誇る小林無線製作所製であったことは知る由も無く、当時はその存在すら知らなかった。無理もない、Trio(現Kenwood)の9R-59に代表される高1中2のシングルスーパーが最高の受信機だと思っていた時代であるから。隣町(清水市天神2丁目/旧茶町)にこんな素晴らしいメーカーが存在する事を知ったのはずっと後の事であった。

その後永い間忘れていたが、短波遠洋通信の変革(衰退)と共に中古市場に流れた懐かしいパネルの受信機を無線雑誌で見るようになった。またネットサーフィン中にFiveHundredClubのWebに辿り着くなどがあって、小林無線の存在と詳細を知ることになった。それに2001年8月、車の購入のために尋ねた清水東高西側にある静岡スバルの駐車場から、「小林無線」の看板を発見するに至った(小林無線はこの町内にある)。更に無線仲間である東京八王子のH氏が大枚を積んでAS-80をオーダーメイドした事実を知ったり、清水市在住の同期生F氏が現在の社長と親しい仲であることを知らされたり、小林無線が大変身近な存在になったのである。
感度(利得)至上主義の時代に、信号を増幅・混合・選択・復調する意味等、受信機各部の本来持つべき能力を真摯に追及した貴重なメーカーであったことを感じている。国産の大手有名無線機メーカーの送受信システムでも、受信機には小林無線が指定され組み込まれてきた事実でもその素晴らしさが伺える。
他人のフンドシで相撲を取るようで恐縮だが、"Five Hundred Club"のWeb(現在は閉鎖)で詳細な写真や資料を閲覧することが出来る。その中に「焼津漁業協同組合(無線の部)」の資料として「小林無線受信機の普及」と言う記述があるので、原文のままここに書き直したので紹介する。
なお写真は日本の業務用受信機の改訂第9版を依頼したお礼に執筆者のHK氏から送られたAS-80で、同氏が小林無線にオーダーメイドしてもらった数少ない一品とのこと。小林無線の技術力の粋を結集して作られた同社最後の受信機で、生産台数は僅か8台だと言う事です。特徴はPLLのアップコンバージョン方式、メモリ機能、アルゴンガス(関係者弁・・・窒素ガスと言う説もあるが)封入フォトエンコーダ部、サーボ式同調機構のフロントエンドなどです。

この写真は同社DH-66ですが、これ以降の小林製受信機はOEMで古野電気・沖電気工業・穂高通信工業・太陽無線に供給されていたそうです。DH-66などの真空管受信機の検波段を見ると、その殆どが2極管(6AL5などのダイオード)にBFOミックスしているだけで驚きます。今の受信機のように常時フルゲインでAGCが十分かかった状態で、IF出力レベルがある程度管理されかつプロダクト検波を採用している受信機なら、オペレータに負担をかける事はないと思うが。こうしたシンプルな構成の場合、IF出力レベルとレベル固定のBFO出力の関係がやや気になるところである。しかし、オーナーが生まれて初めて製作したCW/SSB受信機はこうしたシンプルな構成で、BFOによるIF信号のスイッチングではなくビート(周波数混合)によるサウンドは非常にクリアであったことを思い出す。R-390A等プロダクト検波を内蔵しない旧型の受信機も同じで、IFレベルとBFOレベルの関係を管理すれば驚くほど自然なサウンドになる。今の受信機は便利であるが、常に高利得のAGCループの中で受信機が動作し特にSSBでは入力の信号レベルで常にエンベロープが変動する妙なサウンドを聞かされ、それに慣れきってしまっているのではないのだろうか。R-390Aの455KHz出力にプロダクト検波を付けその出力からAGC電圧を得て本体のAGCラインに制御を返し、時定数回路をHigh-R&Low-Cに変更しSSB向きにすると確かにSSBの受信操作は劇的に改善され常にフルゲインで運用できる。しかしオリジナルでやる、あのBFOレベルにIFレベルを合わせた時の独特なサウンドとエンベロープは返って来ない・・・。

それにしても回路図上では何の変哲も無い受信機が、長年にわたり鰹鮪遠洋漁業の通信士たちに支持され続けたのは一体何だったんだろうか・・・新しい謎解きが始まろうとしている。
左の写真はDH-66をベースに半導化されたDH-66Sである。プロダクト検波器が組み込まれよりSSBに対応している。私はDH-66までの真空管をベースとした受信機から、田舎の町工場である小林無線が、こうした半導体受信機に果敢に挑戦し、更にAS-シリーズに発展していく過程に大変興味を持っている。何故なら国内の町工場の多くが半導体受信機を手中に出来ずにに消えていった歴史があるからである。需要が無くなり消えて行ったのではなく、技術力が追い付けず消えて行ったと言っても過言ではないから、小林無線製受信機のみならず会社のスタンスにも興味が及ぶのである。

DH-66Sの後を引き継いだ小林無線最後の量産機AS-76。古野電気や沖電気工業へOEM供給されていた。沿岸無線局の写真に良く同機の姿を見るが、非常にずっしりとし安定感がある。小林無線得意の大型のRFコイルによる同調機構は真空管時代から引き継がれ、バンドスイッチやVFOと連動(トラッキング)して動く姿は見事としか言いようが無い。また初めて周波数のデジタル表示を行い、アナログスケールとの併用で操作性を上げている。1976年〜1998年まで、何と四半世紀近く製造が続けられ日本の長・中・短波通信を支え続けた。前述の「日本の業務用受信機」に・・・「手放したユーザーの殆どは後で後悔の念を感じる受信機」・・・と記されているのが大変印象深い。DH-66以降続くこの独特のパネルデザインは信頼の顔と言えないだろうか。私(オーナー)はこの受信機を入手し51S-1やR-390A等と並べて聞き比べるのが夢である。 

相前後するが左の写真はDH-66以前に製造されたDH-18。扇型ダイアルスケールの右下が同調ノブだがその左のノブでスプレッドが出来る。DH-66のようにMHz/KHzが一挙に読める仕掛けにはなっておらず、周波数の読み取り精度は余り良くないが周波数安定度はアマチュア無線機のレベルを超えていた。またHC-6U型水晶片を差し込んでスポット運用出来るようになっている。2004年5月15日に秋葉原ラジオセンター2FのウチダラジオコーポレーションにピカピカのDH-18が2台置いてあった。1台は小林無線オリジナルでもう1台は穂高無線にOEM供給した物(R-81)で、思わず手が出そうになったが残念ながら持ち合わせが無く断念した・・・と言うより私はDH-66/66SまたはAS-76に興味がある。店の女将さんによれば著名なコレクターからの放出品との事で、そのほかにHROやCollinsがあった。

なお小林受信機の頭に冠される2文字は受信機の方式を示し、SH:Single Superheterodyne、DH:Double Superheterodyne、SP:Spot Type、AS:Autotune SolidStateとなっている。
また小林無線製作所の前身は小林無線研究所(Kobayashi Musen Laboratory)で、昭和20年代以前の受信機の名盤はKobyashi Musen Laboとなっている。小林無線製作所となった時期を正確に分かる方の情報を頂きたく存じます。
2004年5月、ネットオークションにDH-66Sを発見したが220K〜320Kと破格で、オーナーのポケットマネーではついていけない価格だった。


アイボール・・・ちょっといい話

2004年12月18日、80mバンドで前出のH氏とQSOした際お持ちのAS-80の自慢話をされた。…プリセレクターの自動同調機能、RFアンプ無しの直接変換(60MHz台)、バンドSWは平面構造で使うほどに良好、開発に4年、8台製造のNo.6、2台以上まとまれば受注してもらえるかも(これは部品の関係で不可の模様)、小林のエンジニアは電子と機械に精通しハンダゴテと旋盤を操る…etc。いずれにしてもCOLLINSやRACAL等海外の著名な業務用コミュニケーションレシーバーを凌ぐ一品のようである。

2005年1月16日朝、友人のF氏の案内で小林無線を尋ねた。日曜日にも関わらず小林氏は、受注品のJigを納期に間に合わせるために作業中であったが、手を休め快く立ち話に応じてくれた。約1時間半、木造の工場前でF氏と3人で受信機談義と趣味の自転車の話に花を咲かせた。自転車が趣味とは初めて知ったがロードからトラックまで楽しまれていて、特に最近は後者に惚れ込んでいるらしい。実はオーナーも、HandMadeのロードレーサーで20代まで長距離を走っていた。
さて受信機の話をしよう。小林氏の話では、部品の多くは自社生産すると聞かされ驚いた。例えば金メッキなどのメッキ処理から、バンドSW・ローターリーエンコーダ・周波数直線VC・黒ベークのダイアルエスカッションやノブ・プリント基板等の製造まで、殆ど自社で行っていたようだ。したがって従業員の多くは電気・電子・機械・化学・材料など多岐に渡る知識と技能を持ち合わせていたようである。都会と違い清水市には専門業者も少ないため、自社で製造するしかなかったのだろうと小林氏は言う。また当初は送信機も手掛けられていたようだが、受信機の製造が忙しくなった事と、送信機は受信機ほど技術を必要としないとの理由で、受信機を専門に製造するメーカーに発展したらしい。船舶では送信設備がJRC(日本無線)であっても、受信機は小林無線を指定するユーザーが結構多かったらしい。受注メーカーであるJRCはこうした現象をどう見ていたのか興味がある。また古野電気・沖電気・穂高無線など、OEM供給を受けたメーカーの考え方にも興味がある。社名が研究所から製作所に変わったのは、1961年頃(現社長が小学生時代)、工場を現住所に移転した時らしい。
AS-76のダイアルエスカッションは現社長の小林氏によるデザインであることが分かったが、ご本人は余り満足していないような口振りだった。また先代と先々代が小林無線を興され、今の小林氏は3代目になるとの事だった。それから叔父さんが設計の中心に居られたようで、家内工業的な雰囲気が伝わってきた。
受注には濃淡があるため経営は不安定な時期もあったようだが、古野電気等大手企業へのOEM供給によりそれが解決されたそうである。現在は短波帯受信機の製造は行っておらず修理対応しかしない。また半導体化される前の受信機のSSB対応は最初から意識になく、CWしか眼中に無かったようだ。先日オーバーホールしたばかりのAS-76が、ネットオークションで\550K程度の価格が付いたとお話したところ、「それは高すぎる!」、「せっかくメンテナンスしたのだから暫くは愛用して欲しい!」と言われていたのが印象深かった。
初めてお会いしたにも関わらず終始和やかな雰囲気でお話を聞かせていただいた。木造の工場には「小林無線製作所」と書かれた看板が掲げられている。ここで通信士達を唸らせたあの名機達が製造されたの?、と最初は誰もが思うに違いない。しかし話を聞くうちにそれが払拭され、外見ではない(失礼!)ことに変わって行った・・・。また、自分が手中にした部品しか使わない、分からないまま仕事をしない、無いものは人に頼らず自分で作る・・・とするエンジニアの心意気、すなわち「小林無線魂」が伝わってくるようだった。
清水港・・・昔の話

清水市(現静岡市清水)の巴川河口清水駅寄りに局名は忘れてしまったが確か清水海上保安部の無線局があった。実は1974〜5年頃JOPB(NHK静岡第2/静岡市宮竹放送所)の周波数が760KHzから640KHz(現在は639KHz)へ変更になった時、その無線局から「受信に妨害がある」旨の連絡を受けその対策を試みたことがる。周波数間隔が15KHzから現在の9KHzなった、あの全国一斉周波数変更(1978年11月23日)より昔の話である。受信周波数は確か500KHzだったと思うが、640KHzとは140KHzしか違わないので、簡単な共振回路では目的周波数を減衰させてしまう。そこでフェライトコアに太目の電線を巻き込み低銅損の高Qコイルを作りTノッチ型のBEF(Band Elimination Filter)を製作した。結果は上々でJOPBをキャンセルする位置にチューニングを取るだけで約60dB以上の減衰を得ることが出来、目的周波数のロスも無視出来る値に収まった。早速持ち込んで動作を確認して頂いたが見事目的を果たし、通信士の皆さんからOKが出た。
学生時代からスーパー受信機のIF周波数素通り対策や2信号特性の改善を日常的にやっていたので、この種のフィルター製作はお手の物だった。このBEFは実は2台製作し、1台は予備として今でも清水の実家に置いてある。それで、無線局に設置した物はどうなったかと思い色々調べたら、無線通信の近代化とともにその無線局は廃局か移転されたのか巴川の河口からは既に姿を消しているらしい。あのBEFは今何処に・・・また通信士の皆さんはその後どうされたのだろうか・・・。無線局は確か階段を登った2階にあり、当時ま未だ真空管全盛の時代でJRCのNRD-2か5と思われる受信機がコンソールにマウントされ、オペレーションデスクには縦振れ電鍵が設置されていたのを思い出す。あのJRC独特の横行きスケールの付いたジェネカバ受信機は羨望の的だったが、当時は未だ小林無線の存在を知らなかった。そのためか、そこに小林製の受信機があったかどうかは思い出せない。
写真は前述の内容を見て清水在住の友人F氏が撮影して送ってくれたもの。巴川河口(三保側)から上流の羽衣橋方面を臨んでいる。対岸に無線局があったのだが現在は見当たらない。写真は香りや音を放たないが、写真を見ていると波止場の潮の匂いや船のエンジンと汽笛の音が伝わってくるようである。
その後ドコモセンツウ(旧日本船舶通信)東海のM氏にこの無線局の存在を尋ねたら良く知っていた。そして話をしているうちにM氏も清水市出身であることが分かり、また港の若竹電業社も仕事の関係で良くご存知であった。さらに話が進み、若竹電業社に勤められた先輩(冒頭記述)の存在が気になりお名前を伝えたところ、M氏は一瞬絶句!。何とM氏と先輩は同級生で高校まで同じ学校に通っていた事が分かった。と言うことはM氏はオーナーの学校の先輩・・・オーナーも驚いたがM氏はもっと驚いたようだった。世間てのは何て狭いんだろう。
その後(2009年)母校の後輩O氏からその無線局の情報がありました。「1980年に訪問、所有者・運用主体:静岡県、名称:清水港無線、コールサイン:JGQ、中波電信で船舶との通信を行う海岸局で商船を相手に港務通信。その後すぐ廃局され、現在その役割は”清水ポートラジオ”に譲っている。」との事です。
右はAS-76のメインダイアルとその左側のアップ。じっとみているとこの独特なダイアルエスカッションフォルムは一体誰がデザインしたのだろうか?と思えてくる。小林無線は町工場だったので専属のデザイナーなんて居なかったかもしれないから、エンジニアたちの中で画を描くのが好きな人がいたとか、いやみんな集まって議論して決めたとか、色々と想像させてくれる。左側のつまみ類の形も独特だし、その名盤もまた面白い。中短波受信機の製造は既に完了しているそうだが、これらの製造に携わった人達は今でも清水近傍にお住まいなのだろうか・・・。


ハムフェア2007(東京ビッグサイト)・・・新たな出逢い

2007年8月25日ハムフェアを6年振りに尋ねた。
目的は物探しよりアイボールにあったが、軍用無線機を中心に展示するトーキョーマートクラブのブースで何とあのAS-80を発見!。
直接目にするのは初めての事で、その驚きは隠しようがなく絶句状態だった。
傍にオーナーであるH氏がおられ、小林社長と面識があり会社を訪ねた事があると興奮気味で話したところ、ブースの一部を占拠して小林無線談義が始まった。
残念ながらアンテナやスピーカーの接続がなかったため受信はできなかったが、メインダイアルやバンドスイッチ、それに各ノブ類の感触は見事であった。
特にバンドスイッチはスポーツカーのミッション(ギアチェンジ)に似ていて、カチッと非常に心地よい響を放ち、指先には適量のリアクションが返ってくる。それに極め付けはVFOダイアルに連動したRF同調のサーボチューニング機構。これは絶品だ!。
H氏は古くからの小林ファンで、歴代の社長をご存知であった。それから8台製作されたAS-80うちの2台は、遠くバヌアツ共和国(YJ)の無線局で活躍しているらしいが、色は小林色ではなく別の色が塗られているとの事。誰が小林無線を海外に紹介したかは聞くのを失念してしまった。
写真はH氏が大切に所持されているAS-80。別れ際にAS-80のポスター(A3大のチラシ)をプレゼントされ、裏面にH氏の氏名とコールサインを書いてもらった。何と嬉しいことか。私にとって今回のハムフェア最大の出逢いと収穫だった。これで製造された8台のうち、所有者が分からないのは残り3台になった。
上左はH氏からプレゼントされたポスター。A3サイズを半分に折りたたみ本に挟んで持ち帰った。このため、しわが目立ったが霧を吹いて何とかしわを伸ばした。元々スキャナーで電子化したファイルをプリントアウトした物と思われるが、それを再びスキャナーで電子化させて頂いた。
上右はブースの一角に電気スタンド等の小道具をあしらいセットされたAS-80。H氏のAS-80に対して抱いているイメージを垣間見る思いがする・・・貝殻ってバヌアツのイメージなのだろうか?勝手に想像している。
右は間近に見るAS-80のフロントパネル。大変綺麗で殆ど新品状態。H氏はケースカバーの色がイマイチとやや手厳しい私見を述べられていたが、なんのなんのこの小林トーンが何とも言えない。
欲を言えばANTとSPをつなぎAM/CW/SSBを聞いてみたかった・・・来年は是非お願いしますと最後に記しておく。