・紀:一紀=十二年。
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五十七年ぶりに曾ての疎開先の一つであった故郷にお墓を探しに行った。(見付ける資料にと、昭和二十八年に受け取った手紙を持っていった。わたしは、昭和二十七年に行ったという記憶が最後で、それ以降はずっと行くことがなかった。)空襲で死んだ二人の幼い姉の(仮の)お墓だ。お墓のあったというところは、草の茂みとなっていた。家も無くなり、庭の梅の木だけが残っていた。
(空襲のあった)夏になれば、いつも、死んだ二人の姉を思い出す。命に軽重はなかろうが、彼女らは肉親以外からは、誰からも顧みられることがない。普通の「帝国臣民」で非命に斃れた者は、このような扱いなのだろう。そのように自分に言い聞かせているが、胸騒ぐ時期である。
その肉親も減ってきた。(時は)過ぎ去った…。
合掌
空襲のことは平成十九年に『凱風』で「六十年前灼熱時,大東帝國將顛危。空襲一命幸而免,至今奉養浴コ治。」で述べた。平成二十一年には『書憤 爲國』「夏宵空襲異彭殤,一去悠悠六十霜。夢到紅蓮雲壓地,誰論血涙重崎陽。」を作った。
(なお、姉二人のお墓は平成の初めの頃、こちらへ移した。--その時でも、もうすでに草むらだけとなっていたという。わたしの昭和二十七年の時の記憶では、小さな小さなお墓のようなものは、折れ曲がって登っていく山道の右側(山側)の道の脇に。仮に作られたような感じであった(石と、その前に水を入れる容器や花を生ける壷のようなものがあったろうか-----)
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