二月十七日聞舊知清國水師提督丁汝昌自殺之報。我深感君之心中果決無私。亦嘉從容不誤其死期。嗟嘆數時。作蕪詩。慰其幽魂。 | ||
勝海舟 |
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憶昨訪我居, 一劍表心裏。 委命甚義烈, 懦者爲君起。 我將識量大, 萬卒皆遁死。 心血濺渤海, 雙美照青史。 |
憶 へば昨 は 我が居 を訪 ひ,
一劍 心裏 を表 す。
命を委 ぬる甚 だ義烈,
懦者 も 君の爲 に起たん。
我が將 識量 大にして,
萬卒 皆 な 死を遁 る。
心血 渤海 に濺 ぎ,
雙美 青史 を照らす。
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◎ 私感註釈
※勝海舟:江戸末期の幕臣・政治家。文政六年(1823年)〜明治三十二年(1899年)。名は義邦、後、安芳。通称は麟太郎。安房守(あわのかみ)。江戸の人。蘭学・兵学に通じ、蕃書翻訳係に採用され、更に、長崎に設立の海軍伝習所にはいる。万延元年(1860年)には、遣米使節を乗せた咸臨丸で太平洋を横断。軍艦奉行に就任。幕府海軍育成に尽力。征討軍に対し、幕府側を恭順に導き、西郷隆盛と会見して、江戸無血開城を実現した。維新政府の軍事総裁、旧幕臣の代表格として、外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿などを歴任。著作に『氷川清話』がある。
※二月十七日聞旧知清国水師提督丁汝昌自殺之報。我深感君之心中果決無私。亦嘉従容不誤其死期。嗟嘆數時。作蕪詩。慰其幽魂:二月十七日に旧知の清国の水師提督(=海軍の総司令官)である丁汝昌が自殺したとの報を聞いた。我は君の心中が思い切りがよく、無私であることに深く感じ、また、落ち着いて死に時を誤ることがなかったのは、みごとである。嘆くこと数刻、小詩を作り、丁汝昌の幽魂を慰める。 *この詩は『氷川清話』の『丁汝昌』にある。勝海舟の丁汝昌に対する祭文か。詩意が比較的漠然としているので、註釈は『氷川清話』『丁汝昌』の本文に基づいて施した。なお、日清戦争に関する部分はWikipediaを参照した。 ・水師:海軍。水軍。水上で戦う軍隊。 ・提督:艦隊の総司令官。また、海軍の将官。 ・水師提督:官名。武官の最高位。清代では、総督の下で一省の軍政をつかさどり、緑営を指揮した。 ・丁汝昌:清朝末期の軍人。字は禹廷。号は次章。初めは太平天国の乱に叛乱側として参加したが、清朝に帰順してからは李鴻章の下で働き、後に北洋艦隊の提督になった。日清戦争中に艦隊戦敗北の責任をとって自決した。 ・果決:思い切りがよい。=果断。 ・嘉:すぐれている。うまい。めでたい。よい。よみする。 ・従容:〔しょうよう;cong2rong2○○〕ゆったりと落ち着いたさま。くつろぐさま。また、ふるまい。すすめる。ここは、前者の意。 ・嗟嘆:なげく(こと)。 ・蕪詩:拙作。「蕪…」自分のことばや文章を謙遜していう。
※憶昨訪我居:(貴下が)先だって我が家(=勝海舟の家)を訪問したことを思い出す。 ・憶:思い出す。 ・昨:さき。きのう。先日。 ・訪我居:わたし(=勝海舟)の住まいを訪問した。 *『氷川清話』『丁汝昌』の本文によると、丁汝昌が勝海舟の家を訪問したとのこと。丁汝昌は、日清戦争勃発前の1886年(明治十九年)と1891年(明治二十四年)の二回、北洋艦隊を率いて日本を訪問している。
※一剣表心裏:(勝海舟が丁汝昌に贈った)一口(ひとふり)の剣(つるぎ)に(わたし=勝海舟)の氷心〔まごころ〕が表されている。 ・一剣:一口(ひとふり)のつるぎ。『氷川清話』『丁汝昌』の本文によると、勝海舟が丁汝昌の軍艦に招かれた際、叮嚀な饗応を受けたので、一片の冰心〔まごころ〕を表すために、一首の和歌に一口(ひとふり)の宝剣を添えて(丁汝昌に)贈った。 ・心裏:心の中。
※委命甚義烈:(丁汝昌の行為である)生命を運命に任せて献げることは、はなはだ正義の心が強く盛んなことだ。 ・委命:生命を献げる。運命に任せる。 ・甚:はなはだ。 ・義烈:正義の心が強く盛んなこと。
※懦者為君起:意気地のない者も、あなたに因(よ)って立ち上がる。 ・懦者:臆病で意気地のない者。気の弱い者。 ・為:因(よ)って。ために。
※我将識量大:我が(日本)軍側の将官は、識見と度量が大きくて。 ・我将:ここでは、日本軍側の将官のことになる。 ・識量:識見と度量。=識度。
※万卒皆遁死:(丁汝昌は、要員の助命を条件に降伏に応じ、服毒自決を遂げ、清国海軍将兵一千名余りの)多くの兵卒が死ぬことからのがれて。
※心血濺渤海:心と肉体のすべてを渤海(の北洋艦隊の)育成に努め。 ・心血:精神と肉体のすべて。 ・濺:そそぐ。(涙が)流れ落ちるさま。また、(水滴・どろなどの液体が)はね飛ぶ。はねが上がる。ここは、前者の意。 ・渤海:威海衛の戦いを指すか。或いは、北洋艦隊の母港としての威海衛湾や旅順巷を謂うか。威海衛の戦いを指すとすれば、日本軍が山東半島の栄成に上陸し、日本の聯合艦隊司令長官の伊東祐亨は丁汝昌に降伏をすすめるがこれを拒否、日本軍は陸路から威海衛の陸上砲台を攻略し、海と陸から北洋艦隊を包囲した。数日の戦闘の後の(1895年(明治二十八年/光緒二十一年))二月十二日、丁汝昌は要員の助命を条件に降伏に応じ自身は「鎮遠」の艦内でそのまま服毒自決を遂げた。自決後、包囲されていた清側は、伊東祐亨聯合艦隊司令長官に丁汝昌名義の請降書を提出した。十四日、清軍の降伏と陸海軍将兵の解放について両軍が合意し、十五日に調印が行われた。十七日、清の陸兵すべてが日本軍の前哨線外に解放され、商船「康済号」が丁汝昌の亡骸と清国海軍将兵一千名余りと、清国側の外国人軍事顧問将校を乗せて威海衛湾から出航した。作戦を完了した日本軍は、劉公島だけを保持することとし、砲台など軍事施設を爆破した。伊東長官が鹵獲艦船の中から商船「康済号」を外して丁汝昌の亡骸を最大の礼遇をもって扱い、また清の将兵の助命嘆願を容れたが、丁汝昌(の人格と遺骸)は清国側からは、罪人扱いとされた。(Wikipediaより抄録)
※双美照青史:ふたつながら(清国軍人の潔さと日本軍将官の度量 或いは、丁汝昌の「心と血」)のすばらしさが歴史に輝いている。 ・双美:ふたつながらのすばらしさ。清の水師提督・丁汝昌の自決と、日本の聯合艦隊司令長官の伊東祐亨の清の将兵の助命嘆願を容れ、丁汝昌の亡骸を最大の礼遇をもって扱いったことか。 ・照:かがやかす。てらしだす。南宋・文天祥の『過零丁洋』に「辛苦遭逢起一經,干戈寥落四周星。山河破碎風飄絮,身世浮沈雨打萍。惶恐灘頭説惶恐,零丁洋裏歎零丁。人生自古誰無死,留取丹心照汗青。」とある。 ・青史:歴史書。歴史。
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◎ 構成について
韻式は、「aaaa」。韻脚は、「裏起死史」。平水韻上声四紙。この作品の平仄は、次の通り。
●●●●○,
●●●○●。(韻)
●●◎●●,
●●●○●。(韻)
●●●●●,
●●○●●。(韻)
○●●●●,
○●●○●。(韻)
平成27.8.1 8.2 8.3 8.4 8.5 |
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