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1)霊的な身体(霊体)

不可視の身体

スピリチュアリズムは、人間についての重大な事実を明らかにしています。その重大な事実とは、肉体以外に「霊体」というもう1つの不可視の身体があるということです。「霊体」は肉眼では見えませんが、肉体と同じ形をしています。大人の霊体は大きく、子供の霊体は小さいのです。そして胎児にも霊体があります。

この霊体は、死による肉体の消滅の後も霊界で存在し続けます。すなわち霊体は、死後霊界で使用する身体ということなのです。唯物論者は、死ねば肉体は消滅し、人間は存在しなくなると考えますが、それは間違いです。人間は死後も、霊体という身体をまとい霊界で生活することになります。

霊界から見たときの地上人の霊体

霊体は一般の人々にとっては不可視の身体ですが、霊的視力という特別な能力に恵まれたごく一部の人間霊能者とか霊媒体質者と呼ばれる)には、明確な一定の形態・外形を持って認識されます。一方、霊界にいる霊が地上人を見る際には、肉体ではなく霊体を見ることになります。とは言ってもすべての霊が地上人の霊体を認識しているのではなく、地上近くにまで降りてきた霊に限ってのことです。霊界から地上人を見ると、肉体は薄ぼんやりとした形で認識されます。

また霊媒現象や憑依現象などで、霊が地上人(霊媒体質者)のオーラと融合し、これを支配しているときには、霊は支配した地上人の肉体感覚を通して物質界にいる地上人の肉体を認識することができるようになります。

「霊体」と「霊」の違い

霊体は、無形のタマシイや単なる霊的エネルギーではありません。明確な一定の形態・外形を持っています。霊と霊体は全く別の存在です。この後で述べますが、「霊」は私たちの自我の最も高次で本質的な部分であり、スピリチュアリズムではそれを「神の分霊」と定義しています。霊は無形で外形をともなっていないため、霊的視力の優れた霊能者であっても直接認識することはできません。それに対し「霊体」は、霊視能力さえあれば誰でも見ることができます。

霊は無形で外形はありませんが、霊体は外形があるすなわち有形である)という違いを、はっきりと理解しておく必要があります。

どうして「霊的身体」の存在が分からないのか?

もし、スピリチュアリズムで言うように「霊体」の存在が事実であるとするなら、一番身近な自分自身の身体(霊体)の存在に気づかないのはおかしいと思われるかもしれません。現代では、最新のテクノロジーを駆使した検査技術によって、体内のミクロの世界まで手に取るように見ることができます。それなのに自分自身の霊的身体の存在さえ信じられないというのは、あまりにもひどい「霊的無知」の状態に陥っているからなのです。このように言うと必ず、“もともと霊体というようなものはないのだから認識できなくて当たり前”といった反論の声があがることでしょう。

霊的能力の乏しい一般の人々にとって、不可視の霊体の存在を認めることができないのは仕方のないことかもしれません。しかし、次のような事実をじっくりと考えてみてください。それは昔から霊能者と呼ばれてきた特殊な人々が、霊の存在に確たる信念を持ち、常にその存在を意識してきたということです。また過去から現在に至るまで、圧倒的多数の人々によって霊が実在するとの見解が支持されてきたということです。さらには太古の昔より、人間の姿をした霊的存在(幽霊)を見たという体験談が絶えることなく語られ、しかもそうした話は日本だけでなく、世界の至る所で無数に存在しているという事実です。霊魂の存在を否定する人々は、こうした話をすべて錯覚(脳内体験)として片づけようとしますが、それはきわめて不自然なことです。

無数の事例を、すべて嘘や錯覚の一言で本当に片づけてよいものでしょうか。たとえ一部の人間であっても、それを認識したという事例があるということは、それを見る能力を持つ人間と持たない人間がいると考える方が論理的ではないでしょうか。「霊的能力のあるなしが、霊体の認識を決定する」と考える方が自然なのです。不可視の霊的身体の存在を主張することは、必ずしも不合理なことではありません。

いずれにしても今後、地球人類の霊性レベルが向上するにともない、今は少数派である霊能者が当たり前になり、誰もが霊能力を発揮するようになります。その時には、霊体があるのかないのかといった議論は無意味なものとして一蹴されることになります。

2)霊肉の二重構造

スピリチュアリズムの身体観の一番の基本

私たち地上人は、霊体と肉体という「2つの身体の重複構造」から成っている存在です。霊体と肉体は浸透し合うような状態で存在しています。たとえて言うならば、スポンジに水が染み込むような形で、霊体と肉体は同一場に両方が存在しています。この霊体と肉体の二重構造論は、スピリチュアリズムの身体観の一番の基本です。

スピリチュアリズムの身体観

スウェーデンボルグとモンローの「霊体と肉体の二重構造論」

「霊体と肉体の二重構造論」は、スピリチュアリズム独自の身体観ではありません。それは太古より現在に至るまで、世界の各地で多くの人々によって受け入れられてきたものです。例えば近代スピリチュアリズムの先駆者と言われるエマヌエル・スウェーデンボルグの思想の中にも、それが明確に示されています。

スウェーデンボルグは『霊界日記』の中で、死後の身体について「霊魂が身体なしで存在し得るとするのは誤りである」とし、人間は死後、霊体の存在として生きていくことを明らかにしています。また彼は、「霊的な身体は霊の衣として仕え、物質的な肉体に正確に対応している」と述べ、スピリチュアリズムと同様、霊体と肉体の二重構造論を主張しています。

現代の体外離脱体験O.B.E.(Out of the Body Experience)の研究で有名なロバート・A・モンローも、全く同様の見解を示しています。モンローは、「第1の身体は肉体である。第2の身体は肉体より密度が薄く、肉体と重なるように存在している」と明確に霊体と肉体の二重構造性を述べています。

肉体の内臓のコピー

「霊体」は死によって肉体が滅び去った後に、霊界で生活するための身体です。肉体には、ご存じのように多くの内臓器官が詰まっています。霊体はあの世における生活のための身体ですから、肉体のような内臓など本来は必要ありません。

しかし霊体と肉体が重複する地上世界においては、霊体の中に、本来ないはずの肉体と同じ内臓などの複製器官・コピー器官が存在するようになります。とは言っても、それは肉体と同じ物質でできた筋肉や内臓・感覚器官ではありません。幽質と言われる半物質でできたもので、死んで霊体と肉体が分かれると、霊体から内臓のコピーは自動的に消滅します。

3)幽質結合体(半物質の中間体)

半物質の結合体

スピリチュアリズムの基本的な身体観は、霊体と肉体の二重構造ですが、霊体と肉体との間には、2つの異質の身体を結びつける接着剤のような部分があります。この部分を「結合体」とか「中間体」と呼びます。霊視能力を持った特別な人間には、それが肉体を覆う薄い衣のように映り、肉体に付随したある種の身体形態として認識されます。

この結合体は「半物質・半幽質」によって形成され、その材質の特殊性によって2つの異質の身体を結びつけ、両者の間のエネルギーの交換を可能にしています。結合体は、神智学で言われてきた半物質身体であるエーテル体に相当しますが、実際にはこの部分は独立した身体ではなく、2つの身体に付属して存在する“仮の身体”と言うべきものです。

幽質結合体

遺物化した幽質結合体の独り歩き――幽霊の正体

死によって霊体と肉体が分離するときには、結合体部分が裂かれ、その一部はしばらく霊体に付着することになります。霊体はその遺物化した結合体を捨て去ることによって純粋な霊体となり、新たな世界での生活を始めるようになります。

ところが地上に強い思い入れのある霊が地上のことを回想すると、この幽界下層に捨てられ遺物化した「幽質結合体」にエネルギーが供給されて活性化し、独り立ちして操り人形のように動くようになります。こうして霊が生前慣れ親しんだ屋敷や土地の周りを仮装行列のように歩き回ることになり、それが地上人に「幽霊が出た」と騒がれることになります。昔からいろいろな地域に幽霊屋敷の話が存在しますが、幽霊がひんぱんに出没する屋敷とは、こうした幽質の操り人形が闊歩している場所のことなのです。霊界に入ってからも、つい地上時代を回顧することで無意識のうちに操り人形をつくってしまい、それが地上の霊視能力者に見られたりするようになるのです。これが幽霊の1つのケースです。その他に幽霊と言われるものは、低級霊のいたずらであったり、地上人自身がつくり出した想念霊であったりします。)

エクトプラズム

物理的心霊現象では、しばしばエクトプラズムと言われる半物質が話題となります。多くの物理的心霊現象にエクトプラズムが関わっています。人によっては有り余るほどのエクトプラズムをつくり出すことができ、そういう人が物理霊媒になります。幽質中間体(半物質)を材料として“エクトプラズム”がつくられ、さまざまな「物理的心霊現象」が引き起こされることになります。

とは言っても、霊媒が一人でエクトプラズムをつくり出すわけではありません。霊媒はエクトプラズムとなる材料を提供するだけです。トランス状態下で、霊界の技師が霊媒の体内から取り出したエクトプラズムの元になる半物質に特殊な物質を化合させ、エクトプラズムをつくり出すのです。そしてそれを物理現象を引き起こすために利用するのです。したがって霊界の技師がいなければエクトプラズムは生成されません。

ダブル(複体)について

これまで霊的身体観を理解するうえで、混乱を与えてきたのが複体(ダブル)という用語です。“ダブル”とは、霊魂と肉体を結びつける要素で、形が肉体とそっくりに見えるところから出たものです。この言葉が通信霊によって少しずつ違ったニュアンスで用いられてきたために混乱を与えることになってしまいました。

例えば霊界の精緻な描写を特徴とするマイヤース霊は、地上人のダブルを霊体と幽質中間体ハスクと呼んでいる)を一緒にしたものとして説明しています。マイヤースはそれと同時に、死後の霊界人の霊体もダブルと呼んでいます。一方、アラン・カルデック編の『霊の書』『霊媒の書』では、人間の身体構成は「霊魂−ペリスピリット−肉体」として述べられています。このペリスピリットは、霊を包むものという意味で、霊体に相当します近藤氏は、これを『霊媒の書』の中でダブルと訳しています)。また人によっては、幽質中間体をダブルと呼んでいるケースもあります。このように“ダブル”という用語は、通信霊や地上人、あるいは翻訳者によって異なるニュアンスで用いられています。

私たちはダブルという用語にこだわる必要はありません。人間の身体構造を正しく理解することが大切であって、それにどのような言葉を当てはめるのかは重要ではありません。ダブルと言わなくても「霊体」という言葉で、実態を十分に説明できます。ここではシルバーバーチの説明に倣って、霊体という用語で説明します。

4)オーラ

2種類のオーラ

一方、肉体と霊体からは「オーラ」が出ています。オーラとは、身体から放射される生命エネルギーのことです。オーラは厳密には、肉体から出る肉体オーラと、霊体から放射される霊体オーラから成り立っています。しかし通常は、両方合わせて1つのオーラとして認識されます。中国の気功で用いられている外気は、気功師の身体から放射されるオーラのことです。

それに対しスピリチュアリズムにおける心霊治療スピリット・ヒーリングと言います)では、霊界の医者(霊医)から発せられた治療エネルギーが地上のヒーラーを媒介として患者に届けられます。したがってスピリット・ヒーリングで用いられる治療エネルギーは、気功の場合とは異なります。

オーラの色は、人間の内容を映し出す

オーラは普通の人は見ることはできませんが、霊的視力(サイキック能力)の開かれた「霊能者」は認識することができます。オーラの色は人間の心の状態や体調によって変化します。

例えば怒っているときは赤色、恐怖心を持っているときは灰色、献身的精神で満たされているときは青色、野心に翻弄されているときはオレンジ色、本能的欲望に翻弄されているときは焦げ茶色、嫉妬に駆られているときは暗緑色といったように変化します。また体調によってもオーラの状態は変化し、死期が近づいているときはオーラが縮み上がって見えます。

一般的に霊媒とか霊的体質者と呼ばれている人は、オーラの量が多い人のことです。

霊界人は、地上人のオーラを通してすべてを知る

霊界人は、地上人の霊体から発散されるオーラ(霊光)を通して、地上人のすべての内容を知ることになります。オーラには、その地上人に関するあらゆる情報が盛り込まれています。霊はそのオーラの情報を読み取ることで、地上人の霊性・前世のカルマ・性格・感情・体調・好みなどを正確に知ることができます。

したがって地上人は、霊界人に隠し事ができません。霊界人は、地上人の隠された秘密まで、すべて知り尽しているのです。

地上人のオーラ

実はオーラは人間だけでなく、すべての生命体と存在物・物体からも放射されています。“サイコメトリー”と言われる心霊現象があります。ある物体を示すだけで、それを所有していた人や、その物体と所有者に関する情報を霊能者が言い当てます。これは物体から発せられるオーラの中に刻まれた情報を、霊能者が読み取って行われるものです。

5)幽体離脱現象とシルバーコード

幽体離脱現象

夜、ベッドに寝ていると体が浮き上がったような感じがして、気がつくと天井近くから自分の肉体を眺め降ろしていた、というような体験談をよく耳にします。それが幽体離脱体験です。通常、私たちの霊体と肉体は重なり合っていますが、時に霊体が肉体から抜け出ることがあります。この「幽体離脱」と言われる現象では、霊的意識(霊の心・潜在意識)は分離した霊体の中に存在し、肉体には霊的意識はありません。

「幽体」というのは、物質性の多い霊体のことで、肉体を持った地上人の霊体は、幽体ということになります。幽体は、霊体の1つの状態の呼称にすぎません。幽体と霊体は別々のものではありません。この点で多くの人々は誤解をしています。

「シルバーコード」

スピリチュアリズムでは、人間は霊体と肉体という2つの身体から成り立っていることと同時に、さらに興味深い霊的事実を明らかにしています。それは霊体と肉体が、「シルバーコード」と呼ばれる半物質の紐(ひも)で結ばれているということです。覚醒中は霊体と肉体は同一場に重複していますが、睡眠中などでは2つの身体は分離するようになります。このシルバーコードは特殊な性質を持っていて、無限に伸びることができます。シルバーコードで肉体とつながった霊体は、自分の霊的成長レベルに合った霊界の界層に赴き、そこでさまざまな体験をすることになります。

霊視能力の優れた霊能者は、霊界にいる霊たちの姿を見ることができます。その中に時々、シルバーコードでつながった霊を見ることがあります。これは地上に生きている人間が「幽体離脱」している状態です。先に霊体と肉体という2つの身体を結びつける中間結合体について述べましたが、シルバーコードはこの接着剤のような中間物質が変化したものです。霊体と肉体を結ぶシルバーコードは2本の太いものと、無数のクモの巣のような細いものから成り立っています。

普通、シルバーコードというと太い2本のものを指します。2本のうち1本は頭(松果体)の部分に、もう1本は腹部の太陽神経叢の部分につながっています。この2箇所は古来よりヨーガで、主なチャクラがあるとされてきた場所です。

霊体と肉体を結ぶシルバーコード

この後で述べますが、死とは2つの身体を結ぶシルバーコードが切れる瞬間のことです。現在では、死の定義をめぐってさまざまな議論がなされていますが、スピリチュアリズムの観点から言うならば、“死の瞬間”とは脳死状態に陥るときではなく、「霊体と肉体を結ぶシルバーコードが切れる瞬間」ということになります。

睡眠中の幽体離脱体験

幽体離脱体験は、特別な出来事のように思われるかもしれませんが、実は大半の人が睡眠中に、毎晩のようにこうした経験をしているのです。睡眠中に「幽体離脱」した状態で、霊界にいる知人や友人と会ったりしています。しかし朝、肉体に戻るとそれを忘れてしまいます。なかには時々、覚えている人がいます。催眠術をかけると思い出す人もいます。

睡眠中、霊体は肉体から離れ、活動しています。実際、毎晩のように幽体離脱して霊界に行っているのです。霊体はどこまでも伸びる「シルバーコード」によって肉体とつながれてはいても、自由に活動することができます。そうした状態で、私たちは自由に霊界を移動し、自分の霊的成長・進化の程度に見合った界層を訪れ、その世界でさまざまな体験を積んでいるのです。

霊体でのこうした体験は、霊の意識にはしっかりと記憶されています。しかし肉体に戻り、その霊的な体験を思い出そうとしても、それはできません。肉体器官である私たちの“脳”は、地上の時間や感覚の次元を超えた霊的世界での体験を記憶することはできません。睡眠中の体験は大きく、脳の能力は小さいからです。

それは、ちょうど小さな入れ物にたくさんの物を詰め込もうとするのと同様です。無理に詰め込めば詰め込むほど、形は変形してしまいます。これと同じで私たちは、霊的体験の一部分や変形したものを“夢”として思い出しているのです。

睡眠中の霊界訪問で学んだことは、すべて私たちの「潜在意識」の中にしまい込まれています。そして死後、霊界に入ったときには、その体験のすべてを完璧に思い出すことになります。

日常、睡眠中の体験が何かの拍子にふっと意識に上ってくることがあるかもしれません。もし私たちの魂が一定の進んだ意識レベルにまで達しているときには、自分の脳を訓練し、睡眠中の体験を思い出すことができるようになります。

私たちは毎晩肉体を去って、いっとき霊界での体験を積んでいます。それを通して徐々に霊界の生活に慣れていっているのです。もしこうしたことがなければ、私たちが死んで霊界に入ったとき、そこでの新しい生活に適応するのに長い時間を要することになります。

こうした幽体離脱の体験者として歴史上最も著名な人物が、18世紀の偉大な科学者であり、霊能者であった「スウェーデンボルグ」です。彼は30年間の間に100回以上にわたって訪れた霊界の様子を、多くの本に著しています。

ニアデス体験・臨死体験

ところで皆さんは、ある人がいったん死んで生き返ったという話を聞いたことはないでしょうか。こうした体験を「ニアデス体験」とか「臨死体験」と言いますが、実はこれは今述べた「幽体離脱」と同じことなのです。

その本人に死んでいた間の話を聞くと、「長いトンネルのような所を通り過ぎると、きれいなお花畑があり、広い川があった」と言います。そして「その向こう側に、すでに死んでいるはずの知人や親族がいて、その人たちに、まだこちらへ来てはいけないと言われ、気がつくとベッドに戻っていた」と言うのです。

一般には、臨死体験は特別な人の体験のように思われていますが、そうではありません。本当は先に述べたように、大半の人が毎晩のように臨死体験をしています。朝になって思い出すかどうかにかかわらず、誰もが睡眠中に霊界を訪れているのです。

最近の臨死研究

海外では、こうした臨死体験に関する研究が多くの科学者によって進められています。日本でもジャーナリストで評論家の立花隆氏によって「臨死体験」についての本が出版され、さらにNHKで臨死体験が取り上げられ、大きなセンセーションを巻き起こしました。

臨死体験については、これを「幽体離脱」をしている間の体験ととらえる研究者と、それを否定する研究者とに分かれます。幽体離脱を認める研究者たちは、目覚めたときに思い出す「臨死体験」は、肉体から離れた霊体で見てきたものであると考えます。それに対し幽体離脱を否定する科学者たちは、臨死体験中の記憶というのは、脳が酸欠状態において引き起こされた「幻覚・幻想」にすぎないのであって、幽体離脱などではないと主張します。

唯物論の立場からすれば「臨死体験」とは脳内の体験にすぎないということになりますが、それは間違いです。

6)ヨーガと神智学の身体観との比較

肉体以外に不可視の身体があることを主張しているのは、スピリチュアリズムだけではありません。不可視の身体と肉体という身体観を唱えている代表がヨーガであり神智学です。ここではそのヨーガと神智学の身体観を見て、それらとスピリチュアリズムの身体観を比較することにします。

ヨーガの身体観

ヨーガ(タントラ・ヨーガ)には明確な霊的身体観があります。世界中の多くの宗教がそうであるように、ヨーガでも人体を「小宇宙」と考えています。そのヨーガは、人体を「粗大身(gross body)」「微細身(subtle body)」「原因身(causal body)」の3つの身体から成り立つものと考えています。目に見える肉体は、粗い物質からできているという意味で「粗大身」と呼ばれます。その粗大身を支え、エネルギーを供給しているのが「微細身」です。身体を構成する要素があまりにも微細で目には見えないという意味を持っています。そして、これら粗大身・微細身を大きく包むように存在しているのが「原因身」です。

ヨーガでは、死によって粗大身が捨て去られて微細身と原因身になり、さらにはやがて微細身も脱ぎ捨てられて最終的には「原因身」だけになって宇宙に帰っていくとされています。このようにヨーガでは、肉体とは別の2つの不可視の身体の存在を認めています。微細身にはナディやチャクラといったエネルギーの通路や器官があるとされます。

ヨーガにおける微細身・原因身という不可視の身体は、スピリチュアリズムにおける「霊体」とほぼ同じような身体を意味していると考えられます。ただしスピリチュアリズムでは1つの霊体だけがあるとしていますが、ヨーガではそれが2つあるという点で異なっています。

ヨーガにおける微細身・原因身

チャクラ・ナディは「架空の霊的器官」

ヨーガでは、取り入れられたエネルギー(プラーナ)はチャクラからそれぞれの身体のナディを経て行きわたるとしています。しかし現実には、ヨーガで言うような霊的中枢器官としてのチャクラは存在しません。ヨーガにおける最も重要な概念である「チャクラ」に対する認識を改める必要性があります。ヨーガや神智学、また多くの神秘主義者やニューエイジャーによって無条件に信じられてきたチャクラは実際には存在しないのです。ヨーガで言われてきた「チャクラ」とは、どのように解釈されるべきなのでしょうか。結論を言えば、チャクラとは、ある現象を霊的器官と見間違え錯覚したものなのです。

スピリチュアリズムの中には、チャクラに近いようなもの、あるいはチャクラを連想させるようなものは全く存在しないのでしょうか。信憑性の高いスピリチュアリズム関連の資料の中には、時々ですが第3の目とか太陽神経叢といった表現が見受けられます。第3の目とか太陽神経叢は、主なチャクラの位置と一致しています。実はこれらは、霊体と肉体という「異質の2つの身体の接点・接触点」にすぎません。これまでチャクラという用語で述べられてきたものは、霊体と肉体の接点のことだったのです。

世の中にはチャクラを透視することができると言う霊能者がいますが、不思議なことにチャクラの数が、透視者によって3つであったり4つであったり、7つであったりします。こうしたチャクラの数についての不確かさは、チャクラが独立した霊的器官ではないことを物語っています。チャクラは独立した霊的器官ではなく単なる霊体と肉体の接点であるため、透視する人によってさまざまに映ることになるのです。

この接点を通じて、霊体から肉体に霊的エネルギーがもたらされ、反対にそこで肉体エネルギーが霊的エネルギーに転換され霊体に入っていきます。神智学やヨーガで描かれるチャクラの図は、この接点におけるエネルギーの出入りの状態を地上サイドから見たものなのです。霊体から肉体に向けて霊的エネルギーが噴出しているように映る様子を、独立した霊的器官と見間違えたのです。

先にシルバーコードについて説明しました。睡眠中や臨死体験中には霊体は肉体から分離しますが、その際「シルバーコード」と呼ばれる幽質の紐(コード)が霊体と肉体を結びつけています。そのシルバーコードは普通、2つの太いコードと多数の細いコードから成り立っています。分離した霊体と肉体は、シルバーコードによってエネルギーの交流をします。シルバーコードは、中間体をつくる接着剤状の半物質からでき上がっています。中間体にある接点と、シルバーコードの位置は一致します。これは霊体と肉体が分離した際には、接点の部分がシルバーコードになることを示しています。

チャクラと並んで、ヨーガにおけるもう1つの重要な概念は「ナディ」です。これについてはチャクラ以上に諸説入り乱れています。ある教典ではその数7万2千と言っているかと思えば、別の教典では35万本もあるとしています。霊的身体のエネルギーの通路は、肉体における神経などとは異なり、何本あるというような物的な表現で言い表すことはできません。それを敢えて表現しようとしたために、こうした混乱が生じるようになったものと思われます。

霊体内部のエネルギーの循環は、肉体内の通路(経絡や神経など)のような器官を経てなされるものではありません。ナディという通路が実際にあるわけではなく、“エネルギーの瞬間的な拡散”というような形で、エネルギーは霊体内部を満たすことになります。 結局、ナディもチャクラと同様、実在しない架空の霊的器官ということになります。

神智学の身体観

霊的身体を論じるについては、どうしても“神智学”を取り上げなければなりません。スピリチュアリズムが1つの霊体の存在を主張するのに対して、神智学では複数の霊的身体の存在を主張します。神智学では、1つの肉体と複数の不可視の身体が重複して人体が構成されているとします。

神智学では、「太陽系七界」というコスモロジーを説きます。宇宙は7種の次元の異なる界層構造をしており、それぞれの界層は、その界層固有の素材から成り立っていると言います。7つの界層とはフィジカル界(物質界と半物質のエーテル界)・アストラル界・メンタル界・ブッディー界・アートマ界・モナド界・ロゴス界で、これらの界層世界を構成するバイブレーションは粗大から微細へと変化していきます。人間は死後、自分の霊体にふさわしい界層に所属するようになります。

一方、地上世界に住む人間は肉体以外に、エーテル体・アストラル体・メンタル体といった次元の異なる複数の霊的身体を内蔵しており、これらの身体が重なり合って人体を構成しているとします。それは複数の衣類を重ね着しているようなものに譬えられ、死後、それらを一枚一枚脱いで界層世界を上昇していくことになると言うのです。

神智学では、物質世界から高位メンタル界までのレベルでは一定の身体の形態を維持していますが、メンタル界以上の世界では、霊的身体の形態性が薄れて徐々に外形がなくなっていくと言います。さらにロゴス界では形態は完全に失われ、すべての人間の霊的身体は1つに融け合うようになると言うのです。この最高次元のロゴス界は、古代インド思想で言われてきたニルバーナと同一の世界を指しています。

次元の異なる7つの世界と、その界を形成するエネルギーの波動と同質の身体を持つという理論は、合理的であり誰もが納得できるものです。このため神智学は、これまで多くの神秘学の徒に受け入れられてきました。この神智学の身体観はニューエイジにも大きな影響を与え、現在のニューエイジの1つの理念のようにさえなっています。ニューエイジの中では、エーテル体・アストラル体・メンタル体といった神智学の用語がひんぱんに用いられています。

スピリチュアリズムによる神智学の身体観批判――複数の霊的身体観の間違い

神智学の身体観は一見、論理的であり整合性があるように映ります。スピリチュアリズムでは1つの霊体の存在を主張するので、この点で神智学と異なります。神智学の複数の霊的身体観は、スピリチュアリズムから見るとき以下のように批判されます。

神智学の複数の不可視身体論は、宇宙が7つの界層から成立しているというコスモロジーに由来します。次元の異なる7つの世界があるのだから、それに相応する複数の異なる身体が必要であると考えたのです。

これに対しスピリチュアリズムでは、死後の世界である霊界は1つであるとしています。その霊界は、神智学で言うのと同様にバイブレーションの異なる界層から成り立っているとしますが、それらの界層は明確に区分されたもの(明確な境界をともなうもの)ではありません。この点でスピリチュアリズムと神智学の考え方は根本的に異なります。

スピリチュアリズムにおける“界層”という用語は、グラデーション的な連続変化の1つの場を意味しています。その状態は虹のようなものに譬えることができます。虹それ自体は1つですが、そこにはグラデーション的変化をともなう色彩の層が存在します。それぞれの色彩の間には、明確な区切り・境界線があるわけではありませんが、全体として見れば確かに色彩の異なる界層が存在しています。霊界とは、この虹のようなグラデーション的変化をともなう多くの階層からなる世界なのです――「1つの霊界があり、そこにグラデーション的変化をともなうさまざまな界層が存在する」ということです。

ここでもう1つの重要な点は界層の数ですが、結論を言えば、それは4つ、7つ、9つといった数で分類されるものではないということです。しいて界層の数に言及するならば、無数の界層があるということになります。これが現在のスピリチュアリズムにおける見解です。

また、スピリチュアリズムでは神智学と同様に、霊的身体はそこの界層と同質の材質からつくられていると考えます。霊界がグラデーション的な無限の変化をしている以上、人間の霊体も同じくグラデーション的変化ができなければ対応できなくなります。したがってこの点から考えても、人間に4つ、7つというような複数の霊体があると考えることは不合理です――「霊界のグラデーション的変化に適応できる、グラデーション的変化をする1つの霊体がある」というのがスピリチュアリズムの見解なのです。明らかにスピリチュアリズムの見解にこそ、合理性・整合性があると言えます。

七世界七身体論は、ブラヴァッキーの創作

そもそも神智学の教義(ドクトリン)は、“ブラヴァッキー”という一人の人間による創作の可能性が濃厚です。一般には、ブラヴァッキーが世界を旅して太古から伝わる秘教的な知識を統合し、チベットの「高位の大師」から伝授されたものが神智学のドクトリンとなったとされています。ブラヴァッキーの主著『シークレット・ドクトリン』『ヴェールを脱いだイシス』の主要な部分は、高位の大師(クート・フーミー大師とモリヤ大師)の口述によるものとされています。

しかし、この2書に関しては、2千カ所以上の他の著述からの引用で埋め尽くされていることが明らかにされています。またロンドンの心霊科学協会から調査のために派遣されたホジソンは、大師からブラヴァッキーに送られたという手紙がインチキであることを突き止め、ブラヴァッキーは歴史的な詐欺師であると公表しています。

こうした諸事情を考えてみると、神智学のドクトリンには信憑性が乏しいことは明白です。ブラヴァッキーにはさまざまな知識をまとめ上げるという才能があり、それなりの霊的能力を持っていたのかもしれませんが、その著書は、およそ信用に足るものとは言えません。神智学のドクトリンの大半は、彼女の創作と言うべきものなのです。

神智学の間違った身体観による洗脳

神智学のいかにも壮大で合理性を感じさせる身体観は、当時流行していた七世界論と、古代インド思想を折衷・融合化したものと考えられます。スピリチュアリズムや伝統的宗教の身体観は、特殊な霊的能力を持った霊媒者や、あの世にいる霊的存在(スピリットたち)から送られてきた情報をもとに成立していますが、神智学の場合はそれらとは本質的に異なっています。霊界からもたらされた情報・霊的事実を根拠とした思想ではなく、単なる思弁によって創作された思想なのです。

しかし、そうした思弁的創作物が現代社会でかくも大きな影響力を持ち、当時のスピリチュアリストをはじめ、多くの神秘学の徒や宗教関係者・思想家を洗脳してきた事実は、まことに驚くべきことと言わなければなりません。そしてこの間違った神智学の身体観は、ニューエイジを中心として、現在においても強い影響力を及ぼしています。

和製スピリチュアリズムにおける身体観も問題

浅野和三郎による和製スピリチュアリズム(神霊学)では、古神道をヒントにした独自の身体観を提唱しています。それが、荒魂・和魂・幸魂・奇魂から人間が成立するという“四魂説”です。この4つの魂は、肉体・幽体・霊体・本体(神体)に相当するとされます。

四魂説も、神智学の身体観と同様、霊的事実とは一致しません。部分的には正しい見解も含まれていますが、そのすべてを是認することはできません。四魂説は、神智学ほどの大きな間違いは犯していませんが、それでも1つの霊体がグラデーション的に変化するという霊的事実から見ると、問題のある説と言わざるをえません。

従来の間違った霊的身体観の克服

これまで不可視の霊的身体に対して、間違った考え方が支配的でした。アストラル体・エーテル体・メンタル体・サトル体・ダブル(複体)・幽体・霊体・本体などの、さまざまな名称が唱えられてきました。しかし霊的身体について考えるとき一番大切な事実は――「1つの霊体がグラデーション的に状態変化していく」ということなのです。霊体は霊的成長とともに状態が変化します。1つの霊体の状態変化の段階に、異なった名前をつけるということならば問題はありません。ちょうど出世魚にさまざまな名前が当てられるのと同じことだからです。

しかし複数の霊的身体を重ね着していて、霊的成長とともに一枚一枚脱ぎ捨てていくというこれまで支配的であった考え方は間違いです。現在は「霊的事実」に立脚した正しい霊的身体観を普及させる時代に至っています。