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1)死は、人間にとっての最大の悲しみ・不幸・悲劇・恐れ

“死”という厳粛な宿命

死は、人間にとっていつか必ず訪れる宿命であり、誰も避けることはできません。先ほどまで息をし温かかった肉体が徐々に冷たくなっていく様子を前にしたとき、人はこれまで味わったことのないような思いに打たれ、神妙な気持になります。死の前では誰もが厳粛にならざるをえなくなります。

先ほどまで息をしていた人間と、死体となった人間の間には大きな違いのあることは分かりますが、では何がどのように違うのかということになると、途端に説明できなくなります。外見上は、生きている人間も、生命を失った死体も違いはありません。体重は1グラムも変わっていないはずです。

しかし、どんなに呼びかけても死んでしまった人からは、もはや返事は返ってきません。「生きているということ、生命があるということは、どのようなことなのだろうか?」「先ほどまで存在していた生命は、どこへ行ってしまったのだろうか?」と考えざるをえなくなります。

人間にとって一番の悲しみ

人間にとって一番の悲しい出来事は、自分が死ぬことより、愛する人との死別であると言われます。愛する人との死別は必ずやってくることを知りつつも、誰もがその時を迎えると悲しみに打ちひしがれることになります。

人生において体験する出来事の中で、最もストレスを与えるのは、愛する人との死別です。愛する人との死別がショックとなり、身体に不調・病気を引き起こすことになります。死別の悲しみからなかなか立ち直れず、生きる意欲を失って自殺を図るような人もいます。

人間にとって一番の不幸

大半の人間にとって一番の不幸な出来事は、死別であり自らの死です。地上人生では、さまざまな困難やトラブルを体験しなければなりません。一生涯、辛くて嫌な出来事と遭遇しないというような人は、ほとんどいないと言ってもいいでしょう。誰もが何らかの問題や不幸を抱えています。人生は思うようにいかない辛いものだと、皆が考えています。

そうした不幸の中でも“死”は、最大の不幸です。病気や倒産は何らかの対処の仕方がありますが、死に対しては一方的に受身にならざるをえません。闘病生活の果てに死に至ることは、人々にとって最大の不幸となります。事故や戦争に巻き込まれて死ぬことも、最大の不幸と思われます。そうしたとき人々は愛する人の生命が失われたことを嘆き悲しみ、その死を悼みます。

人間にとって一番の恐怖

人間にとっての恐れとは、言うまでもなく死を迎えることです。人間はいつか必ず死ぬ存在であることは理屈のうえでは知っていますが、自分の死を平然と迎えることのできる人間はそれほどいません。死が迫るにつれ、死んだ後はいったいどうなるのか、霊魂になるのか、死後の世界というような場所はあるのか、あるいは死とともに完全に消滅してしまうのか、死ぬときはどのような苦しみを味わうことになるのか……と考えるようになります。しかし、こうしたことをどんなに考えても答えは出てきません。死にまつわる問題を考え始めると、じっとしていられなくなります。

「死を恐れる」ということは、すべての人間に共通する事実なのです。現代人であれ昔の人々であれ、発展途上国の人間であれ先進国の人間であれ、人間である以上、誰もが抱く自然な気持なのです。死の恐怖から逃れようと不老長寿の薬草を求めた秦の始皇帝の話は、そうした事実を物語っています。多くの人々が死を恐れ、何とかこの宿命から逃れたいと考えています。

現在では、何億というお金をかけて臓器移植を受け、少しでも延命を図ろうとする人がいますが、それもできるだけ死から逃れようとする人間の抵抗なのです。いつかは必ず敗北の瞬間がくることを知りながらも、わずかでも寿命を延そうとしているのです。そこにあるのは“生命こそが一番の価値あるもの”という考えです。そして死は一番の恐ろしい出来事であり、何としても避けたいという「死の恐怖」なのです。

2)死の問題解決と宗教の使命

死という宿命的な不幸・悲劇・悲しみ・恐怖の解決法を、人々は宗教に求めてきました。人々は宗教にすがって死の苦しみを少しでも和らげ、救いを得ようとしてきました。地球上のすべての宗教が、死の問題と関わりを持っています。死の問題を取り扱わない宗教は存在しません。人々は宗教に「死の恐怖」からの救いを期待しているということなのです。

宗教から死と死後の世界に関する内容を取り除いたなら、それは単なる倫理・道徳の類になってしまいます。人間は、神や正しい生き方を知りたいと思うよりも、死の恐怖を真っ先に取り除いてほしいと願うものです。そこに宗教への期待と依存が発生します。

本来、生きている間に悟りを得るという生者のための宗教であった仏教も、日本をはじめ中国では、死者のための宗教に変わってしまいました。仏教の教えによるならば、もともと“墓”などというものは不要であるはずにもかかわらず、実際には墓のない寺は存在しません。

キリスト教徒は、終末におけるイエスの再臨によって肉体の復活にあずかり、永遠の生命を得るようになると信じてきました。イスラム教徒は、イスラムの教えに忠実に歩むことによって死後は天国で楽しく過ごすことができるようになると信じてきました。特にジハードにおいて殉教した者は、天国での特別な生活が保障されると信じ、現在の自爆テロを引き起こすことになっています。

古代エジプトにおける宗教では、輪廻転生によって死の問題の解決が図られ、その思想に基づいて、死者はミイラにされて墓に葬られました。原始宗教と言われるシャーマニズムは現在でも世界中に存在しますが、そこでは死によって霊魂が肉体から離れると考えられてきました。シャーマンの呪術によって死者の魂は地上に戻ることができると信じられてきました。

このように宗教と死とは、一体の関係にあります。それどころか宗教とは、大半の人々にとっては死に対処するための拠りどころであり、自分の死と身内の死者にとっての救済所であり、人生の一部分になっていると言えます。

人類の歴史を通じて、人間のいる所には必ず宗教が存在したと言えます。もし宗教がないとするなら、人間は心の拠りどころを失い、不安に駆られてまともな生活を送れなくなっていたはずです。

3)死生観は人間の生き方を決定する

死に対する考え方は、その人間の生き方のすべてを決定するようになります。“死とともに人間は無に帰してしまう”と考える人間がいます。科学の発達した現在では、神や死後の世界や宗教を一切否定する唯物論者がいます。人間の心の性格から見て、そうしたものをきっぱりと否定してしまうには、よほどの無理をしなければなりません。しかし表面上は“自分の理性が納得できない”ということで、唯物論を受け入れるのです。

そうした人間は、生きている間にできるだけ人生を楽しもうと思うようになります。多くの場合その楽しみは、肉体的快楽を追求する方向に向かっていくことになります。おいしいものを食べ、好きなことをして遊び、文明の利器を活用して最大限のレジャーを求め、あちこちと旅行をして人生を楽しもうとします。その際、こうした楽しみや快楽を与えてくれるのがお金であるため、人生の目標はお金儲けになってしまいます。お金を儲けて本能的快楽をとことん求めることが、人生のすべてになってしまいます。“お金こそすべて”という物質的価値観に支配されることになり、拝金主義に陥ってしまうのです。

一方、お金がなくて人生を楽しむことができない、そのうえ毎日苦しいことばかりが続くというような状況に置かれると、生きていくこと自体に意味と価値を見出すことができなくなります。そして「生きていても苦しむだけ、少しばかり長生きしようが早死にしようが同じだ。いずれ死ぬことになるのだから、いっそのこと早く死んだ方いい」と考え自殺に走るような人間も出てきます。

死生観は、個人の生き方を決定するばかりでなく、医療などの社会全体に対しても決定的な影響をもたらします。死によってすべてが消滅する、人間としての存在がなくなってしまうとするなら、“生命があることこそが一番尊いことである”ということになります。そうした考えに立つ医学では、生命を少しでも永らえさせることに価値があると思うようになります。医学は、病気を治して死を先延ばしできたときに勝利とされ、患者の病死は最大の敗北となります。そうして医学は、ひたすら人間の寿命を永らえさせることだけに奔走するようになるのです。今では医学の名のもとで“臓器移植”が行われ、莫大なお金をかけて“延命治療”が施されるようになっています。患者の身内は、お金をかけることによって少しでも生命を延ばそうと考えるのです。現在の医学は、こうした方向に向かって走り続けています。その背景には「死は、最大の不幸であり損失であり悲しみである」という共通の見解があります。

一方、宗教において見られるように「死によって人間は存在を消滅させることはなく、死後もあの世において生き続ける」と考える場合、死はこの世からあの世に向けての移動ということになります。それは確かに悲しい別離ではあっても、完全に消滅してしまうのでないなら、考えも変わってきます。そうした宗教的考え方をするならば、“楽しみがない”というだけで人生に絶望して自殺するというようなことはなくなります。また無意味な延命治療を、いつまでも続けるというようなこともなくなります。

死をどのように考えるのか、特に死によってすべてが消滅すると考えるのかどうかによって、人生に対する姿勢が根本から変化することになります。