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1)脳死は人間の死ではない

脳死を死の基準とする現代医学

人間にとっての最大の悲劇である“死”について、現在は明確な定義が確立されていません。一昔前ならば死とは、呼吸が止まり、心臓の鼓動が停止し、瞳孔が開くといった肉体的変化を判断基準にすればよかったのですが、“臓器移植”が行われるようになって、より早く臓器を取り出し移植した方がよいということから、死の判定をめぐってさまざまな議論が巻き起こるようになってきました。

臓器移植に反対するスピリチュアリズムでは、何もせずに様子を見ているだけでよいということになりますが、臓器移植にこだわる現代医学は、そうした人間の自然な死を認めようとしません。そこで医学は、人間の死とは“脳死状態”であるとの基準を打ち出しました。心臓が鼓動していても、呼吸をしていても、脳死状態になれば、いずれ時間の経過とともに完全な死に至ると判断しているのです。脳死状態を人間の死と認定し、臓器移植をしやすいようにしたのです。

脳死は人間存在の終わりではない

唯物科学では、人間の意識や人間性は脳によってつくり出されるという考え方をします。脳によって理性ある人格が形成され、脳が働いている間だけ人間らしくいられるとの見解に立っています。そうした考え方は、“脳死”という脳の機能の停止をもって人間性や尊厳性が消滅することを意味するようになります。スピリチュアリズムのように死後の生命の存続を認めない以上、脳の死は、人間性と人格の終焉ということになるのです。

スピリチュアリズムでは、たとえ脳の機能が停止しても、それは人間の物質次元の構成要素の1つが不全になったにすぎないと考えます。霊的次元では、知的生命活動が変わりなく続けられています。脳の機能が停止したとしても、人間を構成する霊的部分には何の変化もなく、しかもその霊的部分は依然として肉体部分と一体関係を継続しています。霊体と肉体を結ぶシルバーコードが切れて、すべての肉体機能が完全に停止しないかぎり、人間としての尊厳性・価値は消滅しません。タイプライターのキーが故障して使えなくなったからといってタイピストが死んだとは言えないのと同じで、脳が損傷して使えなくなったからといって人間(霊)は死んだとは言えないのです。別の次元(霊的次元)で人間は、しっかりと生きているのです。

脳死であっても生き続ける事実がある

脳死に至れば、特別な延命装置に頼らないかぎり、いずれ死を迎えるようになるということが医学関係者の了解事項になっています。したがって脳死は、肉体の死と同じ意味を持つことになります。ところが脳死状態に陥りながら、その後、長期にわたって生き続ける“長期脳死”といった事例が存在することが明らかにされるようになってきました。瞳孔が開いたままで脳波もない子供が、1ヶ月以上も、時には何年間も生存することがあるのです。脳死判定で無呼吸テスト以外のすべての検査で脳死の要件を満たした子供が、6年以上も生き続け、その間に身長は伸び体重も増加するといったことが実際に存在するのです。

こうした事実は、脳死を人間の死と認定することが間違っていることを示しています。脳死の判定後、それほど時間を置かずに確実に死を迎えるというのであれば「脳死」イコール「人間の死」という主張は論拠を持つことになりますが、実際にはそうした大前提に反する事実が見られるのです。脳死を人間の死と決めつけ、生きた肉体から臓器を取り出して死に至らしめる行為は殺人と同じことになります。脳死を一律に死と認めるならば、植物人間・重度脳障害者にもそうした認識が及んでいく危険性をはらんでいます。

脳死

脳死とは、頭部のシルバーコードが切れるか、つながってはいても脳の障害で「霊的エネルギー」が得られない状態のことです。別のシルバーコードはつながっているので、生理機能は維持されることになります。

2)スピリチュアリズムの“死の定義”

脳障害による意識障害は、霊魂の存在を否定したことにはならない

唯物主義に立脚する近代科学は、心を脳という物質の産物と定義します。心とは、脳内にある百兆もの神経の電気経路から生じる随伴現象であると考えます。これは脳が先で心は後、心は副次的な存在であり、脳を離れては存在し得ないということを意味します。

近代科学では、こうした自分たちの見解の正当性を主張するために、脳に損傷を受けると精神に異常をきたしたり記憶が失われるといった症例を挙げます。また薬物や物理的刺激によって精神状態が変化したりさまざまな精神障害が生じること、さらには脳の一部を刺激することによって幻想や幻聴がつくり出されるといった事実を取り上げます。

意識(心)が脳に依存していることは事実ですが、それをもって意識が脳の活動の随伴現象であるという理由にはなりません。そうした事例は、心が脳の産物であるという証拠にはなりません。なぜなら脳から独立した「霊魂」が存在し、そこから発せられた情報・意識内容が“脳”という受信器によって受信され、脳から再発信されるという可能性も考えられるからです。こうした想定が正しいならば、脳の障害がさまざまな精神症状を引き起こしたとしても何の矛盾もありません。

“死”とは、シルバーコードが切れる瞬間のこと

スピリチュアリズムでは、人間の死をどのように考えているのでしょうか。脳死を“死”と認定してもいいものなのでしょうか。結論を言えば、スピリチュアリズムでは霊的事実から人間の死とは、霊体と肉体を結んでいたシルバーコードが切れることであると定義しています。

大半の先進国では、脳死を人間の死と定義しようとしています。しかしスピリチュアリズムの観点からするならば“死”とは、「霊体と肉体を結ぶシルバーコードが切れる時」のことなのです。シルバーコードが切れていないうちは、いったん死んで後に生き返るというようなことが起こる可能性があるのです。ですから正しい“死の定義”とは脳死ではなくて――「シルバーコードが切れる瞬間」ということになります。

“死”とは、シルバーコードが切れる瞬間のこと

脳死を、霊的視点から見ると

霊体が肉体から離れた後にも、しばらく肉体のある部分が生き続けることがあります。また脳死のように、脳の働きは失われたのに肉体は依然活発に活動しているといったこともあります。これを霊的視点から見ると次のようになります。

シルバーコードといっても太いものからクモの巣状の細いものまで、さまざまあります。これらのシルバーコードは、一律に切れるのではなく、場所によってそれぞれ異なります。どこかが切れていても、他の部分はしっかりとつながっていることもあります。先に述べたような状態は、シルバーコードが霊体と肉体を部分的につないでいるようなときに発生します。

霊体と肉体の頭部をつなぐ太いシルバーコードが切れたり機能を停止すると、霊体から脳へのエネルギーの補給が閉ざされます。これが“脳死”の状態です。その際、まだ腹部をつなぐ太いシルバーコードがつながっていると、脳死状態であっても肉体は活発な活動を維持することになります。反対に腹部をつなぐ太いシルバーコードが切れ、頭部のシルバーコードがつながっている状態のときには、意識はしっかりとしているものの肉体の機能は失われているということになります。

脳死の最中でも、人間はさまざまな体験をしている

唯物主義の立場からすると、脳が働かなくなり植物状態になった人間は、人間としての“死”を迎えたことになりますが、それを霊的視点から見ると全く違って映ります。確かに脳は機能を停止していますが、霊体の中で霊的意識(霊の心)は、さまざまな意識活動をしています。すべてのシルバーコードが切れて本当の死に至るまで、霊的次元でいろいろな体験をしているのです。脳死状態下で、霊的意識(霊の心)は苦しみを通して「カルマ」を清算していることもあります。こうした体験が本人の「霊的成長」にとって必要なプロセスになっていることもあります。

肉体は脳死状態であっても、完全に死んでいるわけではなく、どこかのシルバーコードがつながっているのが普通です。それが脳死状態の中で徐々に切り離され、本当の死に向かっているのです。その最中に突如、肉体の生命を奪ってしまうことは「霊」に少なからずショックを与えることになります。自然の死のプロセスが遮断されて、無理やり引き離されることになるからです。もっともすでに死に向けてのプロセスが進行中である場合は、自殺や不慮の事故死ほど大きなショックを受けることはありません。その後の調整にも、それほど時間はかかりません。