MENU

(6)葬式・墓について

――地上人類の葬送・埋葬思想と、正しい死生観に基づく葬式・墓の在り方

人間が死ねば、次は葬式→埋葬(墓)ということになります。葬式や埋葬の形式にはさまざまありますが、普通は死者や親族が信じていた宗教によって執り行われます。それは言い換えれば、人々の所属している宗教の死生観が、葬式と埋葬の形式を決定するということです。伝統宗教離れが進んでいる現在の先進諸国では、人々の葬式や葬送についての意識が大きく変化しようとしています。そうした状況を伝統を重んじる人々は嘆いていますが、スピリチュアリズムからすれば、霊的事実から懸け離れた虚偽の教えを説く伝統宗教(キリスト教・仏教・イスラム教・儒教など)の勢力が後退するのは好ましいことなのです。

では、伝統宗教から離れた人々が正しい方向に向かっているのかということになると、そこには別の問題があります。いずれにしても今、地球規模でこれまで宗教が一手に扱ってきた葬式や墓に関する在り方が、根本から見直されようとしていることは間違いありません。死に関しての従来の儀式・方法を決定的に変えるようになるのが、言うまでもなく“スピリチュアリズム”によってもたらされた霊的思想であり霊的知識です。

ここではこれまでの地球人類の死生観を概観し、その死生観に基づく葬送思想と埋葬習慣について見ていきます。その上で「霊的事実」に基づくスピリチュアリズムの葬式や埋葬・墓についての見解を紹介します。霊的事実と霊的真理に一致した葬式や墓の在り方はどのようなものなのか、スピリチュアリストの葬式や墓はどうあるべきなのかを学ぶことにします。さらには葬送儀式や埋葬習慣に関するさまざまな問題点(ex.散骨や迷信)についても見ていきます。

1)宗教色を排した現代の新しい葬式の流行(伝統的な葬式の変化)

現代の先進諸国における伝統宗教の衰退化は、宗教に対する人々の信頼と依存度を大きく後退させることになりました。先進諸国では、人々はもはや伝統宗教に死の問題の解決と、死に対する恐怖からの救いを期待しなくなりつつあります。そして伝統宗教によらずに、自分たちの手で葬式・葬送儀式を執り行おうとの新しい動きが起こっています。今、現代人の中に宗教的でない葬式が徐々に広がろうとしています。

一昔前の人々においては、宗教とは無縁な葬式が存在するようになるとは考えることさえできませんでした。もしそんなことをしたら“罰(バチ)があたる”と、周りからいっせいに非難されることでしょう。これまで宗教色を排した葬式などは、実際には存在しなかったと言っても過言ではありません。死の問題を扱うのはもっぱら宗教の役目とされ、それが地球人類の常識だったのです。

しかし21世紀の現在では、昔ながらの宗教的な葬式が徐々に減少しています。これは宗教史の中では驚くような出来事であり、新たな宗教革命の前兆と言えます。

宗教色を排除した葬式の模索

人々が宗教色を排除した葬式の在り方を模索し始めるようになった最大の理由は、それまでの伝統宗教日本で言えば仏教)に魅力を感じなくなったこと、宗教に拠りどころを見出せなくなったところにあります。

現代人の多くが、「葬式にお金をかけることは無駄だ。生きている自分たちの生活の方が大切だ」と思うようになっています。昔ならば「そんなバチあたりなことを考えて……」と非難されたところですが、現在ではそうした人々が増えています。もちろん世間体をはばかって昔ながらの葬式を行う人もいますが、その人の本音は、「葬式にはできるだけお金をかけたくない」ということなのです。現代人の葬式に対する意識は、昔とは大きく異なっています。

現代葬式事情――

こうした葬式に対する人々の意識の変化は、当然のことととして葬式の在り方にも反映されるようになっています。その1つが、昔のような盛大な葬式を行わずに、身内だけによる「密葬(家族葬)」を選択するケースが増えているということです。多くの人が義理で参加する葬式ではなく、本当に親しい間柄の者だけで告別をしたいと願い、密葬を選択するのです。

現代人による密葬には、従来の葬式には見られない大きな特徴があります。それは宗教色を極力減らして、遺族自身の気持を優先するようになっているということです。僧侶も呼ばずに自分たちだけで密葬(家族葬)を企画するケースも増えています。遺族や友人が、思い思いに葬式の形式・方法を決めるのです。遺族と友人だけが集まって、食事をしながら故人の思い出話に花を咲かせるといったお別れ会をすることもあります。現代ではこうした宗教とは無関係な、自分たちの好みに合った手づくりの葬式を行うようになっています。

密葬をする場合、死んだ本人が生前にそれ(密葬)を願い遺言するのが普通ですが、その際、葬式の後に寺との縁を結ぼうとしないケースが多いのです。

現代葬式事情――

さらには「音楽葬」といって、生前に死者と親しかった仲間が集まり、故人が好きだった音楽を流して聴いたり、皆で合唱したりします。また死者の生前のビデオを皆で鑑賞してお別れをするといった「ビデオ葬」なるものも現れました。現在では、このような宗教色を排した新しい葬式が流行するようになっています。そうしたモダンな葬式に参加した人々は最初は驚きますが、式が終わった後には一様によかったと思うようです。

さらに驚くべきことに、生前に自分自身の葬式を済ませてしまうようなこともあります。「生前葬」といって、気心の知れた親しい人々を呼んで、お別れ会を設けるのです。そして本人が実際に死亡したときには、葬式をせずに直接火葬に付されることになります。

葬式の形式は変化しても、遺族の心はやはり悲しい

このように現在では、長い間行われてきた宗教による葬式が大きく揺らごうとしています。伝統的宗教(仏教やキリスト教)に依存しない葬式が現れるようになったということは、霊的事実に照らしてみるとある面では歓迎されることです。しかし当事者たちの内面世界に少し踏み込んでみると、表面上の進歩性や斬新性とは裏腹に、それまでの葬式と本質的にはほとんど変わっていないことが分かります。

葬式の外見上の形式は、確かに昔とは様変わりしました。しかし変わったのは従来の伝統宗教による方法を捨てたということと、葬式を執り行う主役が宗教聖職者から自分たち遺族に変わったという点だけです。それはどこまでも外見的な変化、表面的な変化にすぎません。これまでの宗教中心の葬式を、自分たち中心の葬式にしたということだけなのです。

葬式における一番肝心な遺族と死者との関係は、変化しているわけではありません。昔も現在も“死別を悲しむ”という点では全く同じなのです。モダンな音楽葬を催しても、皆が死別を悲しんでいることには違いありません。当事者たちの心理に関するかぎり、これまでの宗教主導の葬式と大差ありません。宗教による葬式の方が、むしろ遺族の心に安心がもたらされると言えるのではないでしょうか。

形式をどれだけモダンにしても、自分たちの好みの葬式を企画しても、死別の悲しみ・寂しさを癒すことはできません。そう考えると結局は、これまでの宗教による葬式よりも劣るということになるかもしれません。宗教色を排除した分だけ、自分たち自身で心の重荷を背負わなければならなくなります。モダンな葬式を見るたびに、遺族が“これでよかったのだ”と無理やり自分の心に言い聞かせ、自分を納得させようとしているように映ります。やはりそこでも死別の悲しみを、必死に堪えていることには変わりありません。無理をして明るく振舞おうとしても、死後の霊魂の存在を信じられないところでは、決して心は癒され慰められることはないのです。

2)霊的事実にそった正しい葬式の在り方――スピリチュアリズムの葬式について

葬式は死別を悲しむ時という、これまでの錯覚

葬式は“死者との永遠の別れを悲しむ時”――これが従来の地球人類の常識でした。葬式で悲しみの涙を流すことは、誰もが当たり前のこととしてきました。これまでも死後の世界の存在を信じる人間はいましたが、そうした人でも例外なく葬式は悲しみの時であると考えてきました。しかし、それは霊的事実と照らしてみるなら全くの錯覚だったのです。

人々は、宗教にすがって死の問題を乗り越えようとしてきました。しかし肝心な宗教が霊的事実に無知であったため、死に対する正しい考え方と姿勢を人々に教えることができませんでした。それどころか人々に間違った知識を強制し、いっそうの不安と恐怖をもたらしてきたのです。

今、地球人類は“スピリチュアリズム”によって人類史上初めて、死と死後の世界に対する明確な事実を知ることができるようになりました。死の問題は、すべて「霊的事実」を踏まえて論じられなければなりません。葬式の在り方も当然、霊的事実の観点から考え直さなければなりません。事実から懸け離れた葬式は、霊界から見ると滑稽としか言いようのないものです。霊的事実に照らしてみるとき、これまで地上で行われてきた葬式は、ほとんどが間違いであったということになります。地球人類は何千年もの間、間違った葬式、錯覚の上に立った葬式をしてきたのです。

霊的事実に立った葬式とは?――スピリチュアリズムの葬式

では「霊的事実」に立った葬式とは、どのようなものなのでしょうか。それを知るためには、まず当事者である死者自身が死後どのような立場に置かれ、どのような状態に至っているのかを正しく認識することが必要です。これまで地球人類は、死ぬことは悲劇であり、不幸であると思ってきました。そうしたこれまでの常識的な考え方が、実はすべて錯覚であり、事実ではなかったのです。

当の本人は死によって不幸になるわけでも、苦しみや悲しみを増大させるわけでもありません。それどころか死後は、自分が死んだことを喜び、幸福感に満たされています。地上に生きていたときよりも、比較にならないくらい幸せになっているのです。悲しんでいる遺族とは裏腹に、誰よりも喜びと幸福感に満たされているのです。死んだ本人と遺族の思いには、このように180度の開きがあります。霊界から見ると、地上人が死者を悼み悲しんでいる様子は、全く無意味で的外れなことなのです。まずこうした事実を知るところから、葬式の正しい在り方を考えていかなければなりません。

シルバーバーチは、次のように述べています。

「人間はあまりにも永い間、死を生の終わりと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。私どもはぜひとも無知――死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れと見なす無知を取り除きたいのです。そして死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。

死ぬということは生命を失うことではなく別の生命を得ることなのです。肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられるより豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。」

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)  p.44〜45

また次のようにも言っています。

「皆さんは赤ん坊が生まれると喜びます。が、私たちの世界では、これから地上へ生まれていく人を泣いて見送る人が大勢いるのです。同じように、地上では人が死ぬと泣いて悲しみますが、私たちの世界ではその霊を喜んで迎えているのです。なぜならば、死の訪れは地上生活が果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意がこの霊に具わったことを意味するからです。」

『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)  p.208

以上のような霊的事実に照らしてみるとき“葬式”とは――「素晴らしい世界に旅立つ死者のための祝福の儀式」でなければなりません。悲しみの時ではなく、喜びの時でなければなりません。そしていずれ自分も後から行くことになる、より大きな光明と美に包まれた世界(霊界)での再会を心待ちにすべきなのです。死んで霊界に赴く人をうらやましいと思ってもよいのです。

葬式の形式は、どのようであってもかまいません。わざわざ葬式という儀式を行う必要もありません。現在流行しつつある今風の音楽葬であっても、食事会であっても、語らい会であっても、形式は何でもよいのです。「霊界に旅立つ人を皆で祝福して喜んで送り出す」――これが“スピリチュアリズムの葬式”ということになります。本当の霊的意識さえあるなら、葬式は実にシンプルなものになるのです。

他人の葬式には寛容に

本来の葬式は、今述べたように霊的事実にそった形で行われるべきですが、スピリチュアリスト同士の集まりでないかぎり、こうした葬式は実際にはほとんど存在しません。では、この世の人々が行う葬式に対して「霊的真理」を知ったスピリチュアリストは、どのように考え対応したらよいのでしょうか。

スピリチュアリストが圧倒的に少数の現時点では、否応なくこの世の人々の葬式に出席せざるをえなくなります。そうした場合、霊的事実に一致していないからといって、何が何でも出席を拒むというような態度をとるべきではありません。一般の葬式は霊的に見れば、確かに無意味で無駄で的外れです。しかし、そこは霊的真理を先に知った者としての寛容さと同情心が求められます。表面上はこの世の人々の流儀に合わせてあげればよいのです。玩具(おもちゃ)が必要な人、おもちゃ以外のことが考えられない人々に対しては、広い心で見てあげるべきなのです。

ただし次のようなことだけは、しっかりと意識しておかなければなりません。この世の一般の葬式では、人々の悲しみの想念に引き寄せられて邪霊や地縛霊の類が会場に集まってきます。したがって霊的に敏感な人間は、そうした葬式への参加は避けるのが無難なのです。どうしても出席しなければならないときには、自分が守護霊とともに“霊の光”に包まれている姿をしっかりとイメージして臨んでください。そうした強いイメージを描いて臨めば、葬式会場の悪い霊気の影響を受けることはなくなります。

死者に向かって祈ってあげる

葬式に参加したときには、霊的真理を知った者として死者に対する祈りを捧げてください。霊の中には、地上で行われている自分の葬式を見に来るような者もいます。そうしたケースでは、たいてい指導霊とともに列席することになりますが、霊自身は意識がぼんやりとして、何が起こっているのかはっきり分からないことが多いのです。たまに自分の葬式がどのように営まれるのか、誰が参列するのかをしっかりとした意識で眺める者もいますが、大半の死者の霊は霊的事実も真理も知らないため、霊界入りの混乱状態を引きずっています。

そうした霊たちに向けて、地上のスピリチュアリストが祈ってあげるならば、霊的光が届けられ、霊的自覚が早くもたらされるようになります。祈りに込められたエネルギーと愛が、死者の霊に死の自覚を促すことになります。これはスピリチュアリストであればこそ可能となる死者に対する最高の利他愛です。葬式には他界者と縁があった多くの地上人が集まりますが、スピリチュアリストはその中で、最も死者の実情を知り愛を注ぐことができる存在なのです。死者に向けての祈りが功を奏して霊的自覚をもたらすようになったときには、祈りによって救われた霊はその後、スピリチュアリストのために霊界から全力で援助・協力することになります。

以上が霊的事実から見たときの葬式に関する正しい考え方、すなわちスピリチュアリズムの葬式観になります。次にさまざまな宗教の死生観と葬送思想・埋葬形式について見ていきます。

3)古代人の死生観と葬送・埋葬思想

アニミズム・シャーマニズムの死生観と、教理宗教の死生観

死と死後の問題は、人類にとって最大のテーマと言えます。地球人類は原始時代以来、死と死後の問題に強い関心を持ってきました。アニミズム・シャーマニズムと言われる太古の人々の原始宗教の中には、人工的な宗教教義を中心とする教理宗教(伝統的世界宗教)には見られない素朴な霊魂観が存在しています。

アニミズムとは、あの世(霊的世界)にさまざまな霊的存在(スピリット)がいることを信じる信仰です。シャーマニズムは、そうした霊的存在(特に人霊)が地上の霊媒(シャーマン)を通して地上人とコンタクトをしたり、関わりを持つことを認める信仰のことです。スピリチュアリズムは霊界の人霊や天使や妖精などの霊的存在を認め、これらが霊媒を通して地上人に働きかけ語りかけることができるとします。

その点でスピリチュアリズムとアニミズム・シャーマニズムは、本質的な共通性を持っています。アニミズム・シャーマニズムの霊魂観とスピリチュアリズムの霊魂観には、多くの一致点があります。アニミズム・シャーマニズムの死生観・霊魂観を洗練させたものが、スピリチュアリズムの死生観・霊魂観と言うことができます。

アニミズム・シャーマニズムは、太古の地球人に共通した信仰・宗教でした。それがここ2千年間の世界的教理宗教(キリスト教・イスラム教・仏教など)の版図拡大・支配力拡大によって、人間社会の片隅に追いやられたり、迫害される運命を強いられてきました。アニミズム・シャーマニズムは世界的教理宗教から、原始的で未発達の宗教とのレッテルを貼られ、一方的に低められ軽視されてきたのです。

埋葬の始まり

そうした太古の人々の死生観(アニミズム・シャーマニズムの死生観)は、当時の墳墓や埋葬遺跡の中に示されています。遺跡を通して、文字をまだ持っていなかった旧石器時代の人間の死生観を垣間見ることができます。旧石器時代には、一部の地域ではすでに墓を造って死体を埋葬していたことが明らかにされています。それ以前には“死体を葬る”という風習がなかったようです。死体は野ざらしにされ腐食していくに任せるか、獣や野鳥の餌となって食べられていたのでしょう。

やがて人間は、死体を葬るということを始めるようになりました。おそらく初めは簡単に土をかぶせたり、穴を掘って埋めるといった程度のものだったはずです。これが埋葬や墓の始まりと考えられます。

言うまでもありませんが、地球上のすべての地域で、旧石器時代から埋葬が行われるようになったわけではありません。その後、時代がかなり進んだ時点においても依然、多くの人々は墓を造らずに死体を野山に捨てたり、河や海に捨てるといったことをしてきました。いつの時代でも、大規模な墓や墳墓を造ることができたのは一部の有力者や上層階級者に限られます。

古代人の死生観――“この世とあの世はひと続き”

時代が進み新石器や土器をつくる時代に入ります。アニミズム・シャーマニズムは依然、その時代の人々(古代人)の宗教でした。古代人によって造られた埋葬遺跡は、形式としてはごく単純なものでしたが、驚くべきことにそこには明確な思想(死生観・霊魂観)が見られます。墓を造るのは、ただ単に死体を埋めるためというだけでなく、同時に死者の死後の生活に対する配慮が示されているのです。あの世の生活に不便がないようにと、死体と一緒に副葬品を埋葬したり埴輪を置きました。

こうした埋葬の習慣から、古代の人々が「死者はあの世でも、この世と同じような生活を営んでいる」と考えていたことが分かります。この世とあの世、地上世界と死後の世界を、ひと続きのものとして考えていたのです。

古代人のもう1つの霊魂観――死者の霊魂に対する恐れ

“この世とあの世はひと続きである”との古代人に共通する死生観は、人工的教義に基づく伝統的宗教と比べ、ずっと真実に近いと言えます。古代人の埋葬習慣には、さらに次のような特色が見られます。それは「死霊に対して恐れを抱いている」という点です。古代人は死者の霊を大きく2つに分類していました。1つは子孫を守ってくれる崇拝すべき存在です。もう1つは地上人に悪事を働き不幸をもたらす恐ろしい存在です。善なる霊魂と悪なる霊魂、善なるカミと悪なるカミがいると信じてきました。

あの世の霊は自由にこの世に戻ってくることができ、死者の遺骸に取り憑いて悪事を働くかもしれないと考えました。敵意を持った霊魂がこの世に戻ってくるのを防ぐために、古代人は死体に大きな石を抱かせたり縄で縛ったりして、悪霊の侵入を防ごうとしました。また遺骨を打ち砕いたりもしました。そうした「邪悪霊が地上人にさまざまな害をもたらす」との古代人の霊魂観が、後に“怨霊(おんりょう)信仰”をつくり出すことになります。

アニミズム・シャーマニズムの死生観・霊魂観をスピリチュアリズムから検証すると

これまでの地球上の宗教は、「霊魂の存在と死後の世界を認める立場」と「それらを否定する立場」に分類されます。前者に属するのがアニミズム・シャーマニズムで、原始宗教とか民俗信仰と呼ばれてきたものです。キリスト教などの伝統的宗教や唯物主義思想からは、未熟で原始的レベルの宗教と見なされ軽蔑されてきました。また時代遅れの迷信と決めつけられてきました。21世紀の現在においても、世界各地にこうしたアニミズム・シャーマニズムが存在します。

スピリチュアリズムの「霊的真理」の観点から見ると、これまでのキリスト教サイドからの批判は180度逆転することになります。霊魂の存在、死後の世界を認める古代人の死生観(シャーマニズム的死生観)は大枠において正しかったのです。アニミズム・シャーマニズムを原始宗教・民俗宗教と軽蔑し迫害してきたキリスト教に代表される教理宗教の認識こそが間違っていたのです。人間は死後にも、霊魂として生き続けます。当然、霊が住む霊界があり、そこでは地上とは異なる素晴らしい生活が営まれていますこれについては4章以降で取り上げます)。こうした霊的事実を、従来の教理宗教は否定してきました。霊魂観・他界観・死生観という点からすれば、アニミズム・シャーマニズム(原始宗教)は正しかったのです。

もちろん従来のアニミズム・シャーマニズムのすべてが正しいというわけではありません。死生観・霊魂観の大枠が正しいということなのです。古代人は、物質世界と霊的世界の違いを正しく理解する知性が乏しかったために、多くの的外れをしています。この世の物質的な副葬品がそのまま霊的世界に持ち越されるとしたような点は、明らかに間違っています。そうした間違った考えが、やがて多くの迷信をつくり出すことになります。しかし、それでもその後登場する教理宗教(キリスト教・仏教・イスラム教など)と比べるならば、本質的な点ではずっと真実に近かったと言えるのです。

霊魂の存在が事実であったため、人類は現在に至るまでアニミズム・シャーマニズム的考えを持ち続けてきました。教理宗教からの迫害を受けても、生き延びてきました。アニミズム・シャーマニズムは現在、先進諸国の中にさまざまな形をとって存在しています。また歴史的には、アニミズム・シャーマニズムは教理宗教と融合し、時には教理宗教の本質を変えて生き残ってきました。いかに教理宗教がアニミズム・シャーマニズムの考え(死生観・霊魂観)を否定しようとしても、またそれらを邪教としてどれほど軽蔑し迫害しても、現実に生じる心霊現象や心霊体験の事実が、人々の心をとらえて離さなかったのです。現在、日本人が仏教と思っているものはシャカ自身の唱えたものではなく、仏教が東アジアに伝播した際にシャーマニズムと融合して本質から変化してしまったものなのです。

古代人が行ってきたような魔除け的な埋葬習慣死体に石を抱かせたり、遺骨を砕くといったこと)についても、頭から迷信と決めつけることはできません。なぜなら霊魂が地上人に対して悪事を働くといった事実が至る所に現存するからです。古代人の埋葬習慣を迷信の一言で無視してしまう現代人や教理宗教こそ無知と言わなければなりません。もっとも古代人がしたような魔除け的な対処をしても、霊の悪事を防ぐことはできませんが……。そして何よりもキリスト教や仏教自体にも、魔除けに類する儀式がれっきとして存在している事実を忘れてはなりません。

4)古代中国人の死生観と葬送・埋葬思想――先祖供養と墓は不可欠の要素

アニミズム・シャーマニズムが古代中国人の宗教

古代中国でも、世界各地の古代人と同様、アニミズム・シャーマニズムが人々の宗教・信仰でした。死者は現世と同じように、死後の世界で生き続けると考えていました。殷(いん)や周時代の墳墓を通して、当時の人々の死生観を知ることができます。死者があの世に行ってから、あるいは地上に戻ってきたときに日常生活で不自由しないようにと身の回りの品々を墓に埋葬しました。特に王侯貴族が死んだときには大きな墳墓が造られ、そこには日用品や宝物類だけでなく、人間(側近者や奴隷)や動物までが殉葬されました。やがて春秋戦国時代に入ると、こうした殉葬の習慣も次第に廃(すた)れ、木や粘土で作った人形(俑)が副葬されるようになりました。

こうした風習は、その後も形を変えて受け継がれてきました。現在でも中国人は、紙であの世の住居や調度品や電気製品・自動車・自転車・オートバイをこしらえ、それらを葬式の際に燃やします。燃やされた物は、あの世に届くと信じられています。一見、遊びか冗談のように思われることが、現在でも大真面目に行なわれているのです。日本では棺おけに、さまざまな遺品や生前の嗜好品を入れたりします。また墓に酒やお菓子を供えたりしますが、こうした風習も東アジアのアニミズム・シャーマニズムの延長上にあります。

東アジア特有のアニミズム・シャーマニズム

中国の古代社会には、世界と共通するアニミズム・シャーマニズム的な死生観・霊魂観が見られます。それと同時に中国人社会には、東アジア特有のアニミズム・シャーマニズムが存在しています。アニミズムは、あの世にいるさまざまな霊的存在を信仰崇拝するものですが、中国人のアニミズムでは、先祖霊の存在を特別に重要視するのです。先祖霊との関係を「先祖供養」という宗教性にまで高めたものが、中国・東アジアのアニミズム・シャーマニズムなのです。

先祖供養というアニミズム・シャーマニズム的な死生観・霊魂観は、中国・朝鮮・日本の東アジアに共通して見られます。そしてこのアニミズムはさまざまな形をとって、現代の人々の心を支配しています。太古から現在に至るまで東アジア特有のアニミズム・シャーマニズムは、儒教として、あるいは民間信仰として、さらにはまた仏教の中に融合して人々に大きな影響力を及ぼしてきました。

魂魄(こんぱく)の分離と、魂魄の合体

この東アジアのアニミズム・シャーマニズムについてもう少し詳しく述べると、次のようになります。人間は死後、精神と肉体の2つに分離します。精神を支配する本質を「魂(こん)」と言い、肉体を支配する本質を「魄(はく)」と言います。地上に生きている人間は、この魂魄が1つとなっています。また分離した魂は、地上に呼び寄せることで再び戻ってくることができると考えました。

人間の構成を霊と肉・精神と肉体の二重構造とする点、霊肉分離した霊魂が肉体から離れたり戻ったりするという点でスピリチュアリズムの見解と共通しています。

招魂儀式と先祖供養

この中国のアニミズム・シャーマニズムでは、「魂」は天空に昇ってそこにとどまり、地上人が呼べばこの世に帰って肉体と合体し、姿を現すことができるようになると考えました。これによって人間は死による消滅から逃れ、その後も永遠に存在し続けることができるとしたのです。この「魂」を地上から呼び寄せる招魂の儀式が「先祖供養」に他なりません。そしてこの先祖供養の儀式を執り行い、先祖を地上に呼び寄せ再生させる役目を持っているのが子孫、特に家の中心者である長子だったのです。したがって中国のシャーマニズム(儒教)では、子孫の継承と子孫による先祖霊の招魂儀式すなわち先祖供養)が最も重要なこととなります。

後でも述べますが、この先祖供養という東アジア特有のアニミズム・シャーマニズムが、古代日本人の中にも等しく存在しています。こうした共通の死生観・霊魂観が、古代日本人の中に「先祖崇拝の信仰」を形成することになっていったのです。

「墓」の重要性――魄の保管・管理場所

さて「魂」以外の人間のもう1つの要素「魄」は、死後、地下のあまり深くないところ土葬するほどの深さ)にとどまると考えられました。もしこの「魄」が失われると、「魂」を呼んでも地上に出現することができなくなります。墓とは、この「魄」を保存・管理する大切な場所なのです。したがって先祖の「魄」が留まっている墓を守ることも、子孫(長子)にとっての重要な役目の1つとなります。墓がなくなってしまうこと、無縁墓になってしまうならば、先祖の魂は帰る所を失い、地上に現れることができなくなります。これは先祖にとって最大の不幸・悲劇となり、先祖は救われないことになります。東アジアのアニミズム・シャーマニズムでは、先祖供養と墓は不可欠な要素なのです。

東アジアのアニミズム・シャーマニズムという共通の死生観を持つ日本人にも、先祖供養という強い宗教性が脈々と受け継がれています。これについては、この後の5章(地獄とは)で取り上げます。

5)古代エジプト人の死生観と葬送・埋葬思想

古代エジプトの王たちが“ピラミッド”という巨大な墓を造り、その中に葬られたことはあまりにも有名です。古代エジプトの王の墓からは、金銀や宝石で飾られた豪華な装身具・食器などの日用品が発掘されています。

近年の考古学研究によって当時のエジプト人の死生観が、かなり詳しく明らかにされるようになってきました。古代エジプト人の死生観・霊魂観は、スピリチュアリズムと照らしても多くの点で共通しています。

霊的民族であった古代エジプト人

古代エジプト人の死に関する思想は、スピリチュアリズムから見てもかなり評価できるものです。『霊訓(ステイントン・モーゼスの受信・編集による霊界通信)の中でインペレーター霊は、古代エジプト人は、大自然の隠れた秘密と霊交の奥義を極めるために純潔と質素な生活に徹し、純粋にして学識ある霊的民族であったと述べています。また深い哲学的知識と霊的知識の明晰さにおいては、現代の霊覚者も遠く及ばず、宗教の実践面においても現代人はその比ではないと述べています。

人類史上、最も優れた古代エジプト人の死生観

古代エジプト人は、死後の魂と死後の世界への信仰、さらには再生復活の思想を持っていました。伝統的な世界的教理宗教(キリスト教)の立場からは、古代エジプト人の宗教はアニミズム・シャーマニズム(原始宗教)の1つと見なされます。

しかしスピリチュアリズムがもたらした「霊的事実」の観点に至ってみると、人類史上、最も優れた死生観を持っていたことが明らかになります。古代人が世界共通の死生観を持っていたことを述べましたが、その中でスピリチュアリズムの霊的真理に最も近いのが、古代エジプト人の霊的思想なのです。

古代エジプト人の死生観

近年のエジプト研究が明らかにした古代エジプト人の死生観は、次のようなものです。古代エジプト人は、「バ」と「カ」という2つの霊魂を考えていました。「バ」は、死とともに肉体を離れ自由に天空(あの世)を飛び回るようになります。「バ」を、古代エジプト人は鳥の姿で表現しましたこれはスピリチュアリズムで言う霊・霊の心・霊体の合体物に相当します)

一方「カ」は、生命力・生命としての霊魂として考えられ、「バ」同様、肉体の死後も永遠に生き続けるとされていましたこれはスピリチュアリズムの肉体の生命素に相当します)。祝福を受けた死者の「バ」と「カ」は合体して「アク」と呼ばれる1つの霊魂になり、死者は「アク」の状態であの世で幸福に生き続けることになると考えていました。

面白いことに古代エジプト人は、この世に生きている人間の霊魂「カ」は、夜間寝ている間は肉体から離れ、日の出とともに肉体に戻ると考えていましたスピリチュアリズムで言うところの睡眠中の幽体離脱体験に類似しています)

この「カ」も「バ」と同様、死の瞬間に肉体から離れます。しかし「バ」と違って戻る場所が必要とされます。その場所がミイラ(肉体)だったのです。「カ」は生前同様、食べ物を必要としたため遺族は「カ」のために墓に供え物をし、供物の壁画を描きました。霊魂「カ」が生き続けるために、“ミイラ”という保存された肉体が必要とされたのですこの点では、スピリチュアリズムとは違っています)

あの世に復活再生すれば、その後は永遠の生命を得られると古代エジプト人は信じていました。そのためには「バ」と「カ」が一体とならなければなりません。そして「カ」の存在維持のために死体をミイラにし、そのミイラの永遠の家として墓を造りました。墓には、立派な装身具や家具や調度品、大勢の召使いまでが一緒に埋葬されました。このようにして復活した死後の生活の準備がなされたのです。死者があの世で無事に復活できるように、墓の中には復活のための呪文『死者の書』が用意されていました。古代エジプト人の埋葬習慣は、こうした明確な死生観によって営まれていたのです。

あの世への復活再生とは、スピリチュアリズムで言う幽界への参入のことを意味します。誰もが永遠の霊的世界に入って新しい生活を始めることになりますが、古代エジプト人は、そのプロセスが“死後の審判”を経た者に限って可能となると考えていました。幽界での審判を乗り越えるためのハンドブックが『死者の書』だったのです。

人類史上、最もハイレベルな死生観・霊魂観

スピリチュアリズムの観点からすれば、こうした古代エジプト人の霊魂観・死生観には未熟さが見られます。来世の生活の場所が、物質界と霊界がごちゃごちゃになって明瞭な区別がつけられていない点などは、明らかに間違っています。またミイラづくりも的外れです。

しかし古代エジプト人の死に関する思想を全体的に眺めると、歴史上、最もスピリチュアリズムに近い立場にあることが明らかになります。その後現れた教理宗教(キリスト教)が霊魂の存在を否定した点を考えると、太古の昔にすでにハイレベルな死生観を持っていたことは、実に驚くべきことなのです。

6)古代インド人の死生観と葬送・埋葬思想

古代エジプト人と並んで、特有な死生観を持っていたのが古代インド人でした。ともにアニミズム・シャーマニズムから発展して、明確な宗教思想を持つに至っていますが、この両者の間には大きな違いがあります。古代エジプト人が死後の世界での幸福を願い、ピラミッドをはじめとする巨大な墓やミイラという死体保存の方向に向かったのとは正反対に、古代インド人は墓も造らず、死体は火葬にして処理するという方向に向かいました。古代インド人の死生観の最大の特徴は「輪廻転生思想」です。人間の本質を「霊魂」と考え、人間は死後、肉体と霊魂に分離し、肉体は消滅する一方で霊魂は輪廻転生して次の生を得るようになると考えました。

輪廻の原動力は「カルマ(業)」で、行為が目に見えない潜在的な力となったものを意味します。善業(善のカルマ)をたくさん積めば、死後には幸福な境涯に生まれ変わり、悪業(悪のカルマ)が多ければ死後には苦しみに満ちた境涯に生まれ変わるとされます。「自分の蒔いた種は自分で刈り取る」という因果応報の原理によって、輪廻の在り方が決定されると考えられました。輪廻のサイクルの中にあることをインド人は“苦”と考え、この輪廻という苦しみから逃れることこれを“解脱”と言います)によって真の幸福になれるとしました。

こうした「輪廻転生」という死生観からすれば、肉体は輪廻のサイクルにおける霊魂の一時的な乗り物にすぎないことになります。当然、肉体は死とともに用なしとなり、処分されることになります。こうした古代インド人の死生観は、ヒンズー教(インド教)として現在にまで至っています。ヒンズー教徒にとって、死体には何の意味も重要性もありません。火葬にして処分してしまえばいい、ということになります。

ヒンズー教徒は、火葬の遺灰をガンジス川に流すことによって、来世では今より幸福になれると信じています。ヒンズー教徒は、古代エジプト人や古代中国人のように肉体を来世の幸福のために残そうとするのではなく、来世の幸福のために火葬にしようとするのです。したがってヒンズー教には、死者を埋葬するための墓はありません。この点できわめて特徴的な宗教と言えます。ある面では物質性が少ないとも言えます。インドの聖人ガンジーはヒンズー教徒でした。したがってガンジーの墓は存在しません。

世界一美しい建造物と言われる有名な“タージ・マハル”は、ムガール帝国の王妃のための墓です。この墓はヒンズー教のものではなくヒンズー教には墓はなく)、イスラム教のものです。

7)世界的教理宗教の死生観と葬送・埋葬思想

アニミズム・シャーマニズムと、教理宗教

アニミズム・シャーマニズム(原始宗教)には、特定の宗教教理はありません。しかし人々の間には、素朴な死生観が共有されていました。人々は霊魂の存在と死後の世界に対する信仰を持っていたのです。そうした古代の地球人類に共通していたアニミズム・シャーマニズムに対し、宗教的教義を中心とする教理宗教が登場することになります。啓示やインスピレーションを受け取った人間が、教祖あるいは創始者として宗教教団を形成することになりました。創始者から始まった宗教は、宗教組織を整え、徐々に勢力を拡大していきます。こうした創始者の説いた教理・教義を中心として組織をつくり拡大していった宗教を教理宗教と言います。

教理宗教の中には、キリスト教やイスラム教・仏教のように世界規模にまで勢力を拡大するものも現れます。これが「世界的教理宗教」です。現在の地球上では、キリスト教・イスラム教・仏教が圧倒的な版図を有しています。それぞれの宗教が、自分たちの教理にそった死生観を持ち、それに従って埋葬儀式を行っています。教理宗教は勢力を拡大する中で、土着信仰であったアニミズム・シャーマニズムを駆逐していくことになります。時には教理宗教と民俗宗教(アニミズム・シャーマニズム)は激しく対立・反目するようなこともありました。

世界的教理宗教に共通する特徴は、アニミズム・シャーマニズムのような「明確な霊魂観(死後の霊魂の存在・死後の世界の存在認識)がない」ということです。そして“シャーマン”という霊感を持った特殊な人間の存在を極力排除しようとする傾向が強いということです。それはシャーマンが、教理と組織による支配体制にとってマイナス要因となるからです。教団の教えと異なる啓示を広めることは、宗教の結束を乱し、支配力を低下させることになります。そのため教理宗教はシャーマンを排して、それに代る存在として宗教組織に都合のよい祭司をもうけてきました。祭司は啓示をもたらすことが役目ではなく、宗教教理にそった儀式を執り行うことをもっぱらその役割とします。

古代の社会では、アニミズム・シャーマニズムが人々の信仰でしたが、そこに軍事・政治権力による一部の支配者が現れるようになると、彼らは決まって自らの支配の正統性を宗教を利用して主張するようになります。権力的支配者は、自分は神から人々を支配する権限を与えられた者として、あるいは神の子孫として、その立場と支配の正統性を図るようになります。王権(政治的支配権力)を神権と結びつけ、「王」イコール「神」といった権威づけをするようになります。

そうした典型を古代エジプトの宗教に見ることができます。古代エジプトの王は「ラー」と呼ばれ、現人神(あらひとがみ)と見なされていました。日本の神道も、大和朝廷によってこうしたプロセスを経て人工的につくられた宗教です。また奇跡と霊感で人々を集めて巨大化してきた新興宗教も、こうした1つのケースと考えられます。その教団の中では、教祖は政治的支配力と宗教的支配力を一手に握って権力を振うことになります。

アニミズム・シャーマニズムと教理宗教の違いが分かったところで、以下では歴史を経て世界的に拡大し、多くの人々を支配するまでに至った世界的教理宗教(キリスト教・イスラム教・仏教)の死生観と埋葬形式について見ていくことにします。

①キリスト教の死生観と埋葬形式

キリスト教では、人間は死後、墓に留まって終末を待ち続けることになります。キリスト教徒は、終末の日には墓地から死者が蘇り、神の最終的な審判を受けて永遠に天国で楽しく過ごす者と、地獄で責め苦に遭う者とに区別されると信じてきました。そしてその日の蘇りのために、肉体は土葬にされなければなりませんでした。終末に再臨するイエスによって復活し、永遠の肉体生命を持つようになることがクリスチャンの希望であり、究極の目標となってきました。そのために信仰熱心な信者は土葬にこだわってきたのです。キリスト教徒は土葬と肉体を重要視しますが、そこには古代中国人が抱いてきたような霊魂に対する慰霊の意味は全くありません。

近代以降、キリスト教の勢力が後退し、人々の教会離れが進むようになると、火葬が広まるようになってきました。カトリック教のお膝元であるイタリアでも、最近になって火葬が急激に普及するようになっています。

スピリチュアリズムでは、キリスト教の埋葬習慣がたびたび問題となります。それは間違った死生観を持ったままで他界すると、魂にまで染み込んだ信念が死後、その人間を実際に墓に縛りつけることになってしまうからです。自分で自分を墓に縛りつけてしまうのです。周りの人間(霊)がどれほど説得しても頑として聞き入れず、「終末の時までここ(墓)で待ち続ける」と言い張るのです。こうして地上の間違った死生観が、死後その人間を“地縛霊”にしてしまうことになります。

言うまでもなく、キリスト教で説いてきたような「終末」も「最後の審判」も「イエスの再臨」も事実ではありません。

②イスラム教の死生観と埋葬形式

キリスト教と共通の経典を有するイスラム教も、キリスト教と似たような死生観を持っています。イスラム教徒は、アッラーは唯一絶対神であり、世界の創造神であると同時に、いつでも世界を造りかえることができると信じてきました。神が怒りの審判を下した時が、この世の終末ということになります。最後の審判の時には、すべての者が裁かれることになります。したがってイスラム教の教えでは、死は人生の終りではなく、アッラーの審判を待つ状態に入ることに他なりません。人々の関心は、終末の神の裁きによって自分が天国へ行くようになるのか、地獄の業火に焼かれるようになるのか、ということに向けられています。そして天国か地獄かを決定するのが、その人間のこの世での生き方・信仰への忠誠と貢献なのです。

イスラム教徒は死ぬと、遺体は清められ埋葬されます。遺体は最後の審判を受けるときに必要となりますから、遺体を火に焼く(火葬に付す)のは最も避けるべきことになります。遺体が焼かれてしまうと、審判を受ける前に地獄に堕ちることになるので、火葬を徹底して嫌います。“火で焼かれる”ということは、“地獄に堕ちる”ということを意味するのです。

最近ではジハードと称する自爆テロが盛んに行われていますが、“ジハード”はイスラムのために努力する行為で、ジハードのために亡くなった人は、最後の審判のときに天国に入ることができると信じられています。そのために生命を犠牲にして自爆テロに身を殉ずるのです。自爆テロには、イスラム教に基づく明確な死後の見返りがあるのです。コーランでは自殺は許されていませんが、テロリストは、ジハードという崇高な信仰的行為によって死んだ場合は、これには相当しないと考えています。

③仏教の死生観と埋葬形式

古代インド人の信仰(バラモン教、ヒンズー教の前身)の中から生まれた仏教は、バラモン教の死生観をそのまま踏襲しています。すなわち「輪廻転生」を教えの土台に据えています。仏教では、人間は死後49日をもって次の生を得ることになるとしています。したがって理屈の上では、49日たてば別の存在として生まれ変わるために、死者に向けての供養は不要となります。当然、霊魂の乗り物であった肉体は死とともに用はなくなり、火葬に付しても何の問題もないということになります。ヒンズー教がそうであるように、仏教でも死体や骨を埋葬するための墓は必要ないのです。

ところがその後、仏教が世界に伝播していく過程で、各地方のアニミズム・シャーマニズム(土着宗教・民俗宗教)の影響を受け、その死生観に根本的な変化が発生するようになります。特にその大きな変化は、仏教が中国に伝播した際に起こりました。そして本来ならば生者の悟りの宗教であった仏教は、中国のシャーマニズムの先祖崇拝の影響を受けて、死者を救済するための宗教に変質してしまったのです。

また中国から日本に伝えられた仏教は、さらに日本的なアニミズム・シャーマニズムの影響を受け、インド仏教とは似ても似つかぬものに変わってしまいました。仏教における寺とは、本来は修行場でした。仏教寺院は、もともとは墓とは無縁な場所でした。しかし日本の寺には墓が存在しますし、墓のない寺など誰も思い描くことができません。“寺とは墓がある場所である”と皆が思っています。

東アジアのアニミズム・シャーマニズムを土台として、これと混交した日本をはじめとする東アジアの仏教では、肉体(骨)が重要視され、土葬が主流とされてきました。“先祖の霊は墓に居続ける”との考え方がなされてきました。こうして輪廻転生の仏教思想とは全く反する「先祖供養」が、一番の関心事・重要事項となってしまいました。日本の仏教は、まさにアニミズム・シャーマニズムの霊魂観・死生観の上に成立しているのです。

8)日本人の死生観と埋葬・葬送習慣

死後の世界を信じていた古代日本人

日本の縄文時代や弥生時代の墳墓からは、またそれ以降の古墳からは、死者のための装飾品や日用品が発掘されています。古代人の造った古墳の周りには、人間や動物・日用品・家を模した埴輪が置かれていました。埴輪は死者の死後の生活のために用意されたものです。これらは古代日本人が、“人間は死後も現世と同じような生活をする”と信じていたことを示しています。

スピリチュアリズムでは、人間は死後「幽界」で地上と同様の生活をするようになることを明らかにしています。古代人は、それと同じようなことを認識していたということです。

スピリチュアリズムの「類魂説」と類似している、日本古来の死生観・他界観

古代の日本に存在していたのは、古代中国と同じ東アジアのアニミズム・シャーマニズムでした。仏教という教理宗教が伝来する前には、アニミズム・シャーマニズムという原始宗教が日本人の宗教であり信仰だったのです。その当時の人々の死生観は、先に述べたように埋葬習慣の中に示されています。

さて日本人の伝統的な死生観・あの世観(他界観)は、民俗学の重要なテーマとなりました。その最大の権威者である柳田国男は、日本人の伝統的死生観・他界観を次のように述べています。

「死霊は初め穢れに満ちた荒ぶる存在であるが、あの世とこの世を往来し、家族・親族の供養を受けている間に次第に穢れと個性を脱し、やがて清浄化して祖霊群と融合一体化するに至る。そして没個性的な祖霊(カミ)として子孫を見守るために時(盆・正月)を定めて現世を訪れる。さらにはその祖霊は、新しい肉体に入り込み生まれ変わる柳田はそれを「魂の若返り」と言っています。すなわち肉体を借り物として、祖霊としての霊魂が繰り返し肉体を遍歴することになります)。」

柳田が述べている日本人の伝統的死生観は、スピリチュアリズムが明らかにした死生観ときわめて類似しています。古代日本人が「類魂」(これについては7章(類魂と再生について)で取り上げます)の形成と、類魂を前提とする再生論ときわめて似た考え方をしていたということは、驚き以外の何ものでもありません。日本人は太古の昔から、類まれなる画期的な死生観を有していたということなのです。

先祖霊に対する信仰崇拝

太古から受け継がれてきた、「死霊→祖霊→子孫の守護・再生」という霊魂観は、日本人に共通する民俗信仰の核を形成することになり、その後ずっと日本人の信仰的世界・信仰的感情を育むことになりました。人間は死後進化して、一定の期間を経て先祖霊(没個性的な霊)になる、時には人間の霊は死後の進化によってカミ(守護神)になるとの死生観は、日本人特有の信仰と宗教的心情を形成しました。そしていつの時代にも人々は先祖の霊が、地上の子孫を守り導いてくれると信じてきたのです。

さて、あの世には、そうした先祖の霊や死者の集まる場所があるとされました。それは山であり、海の中の島と考えられました。人々は人里離れた山や海上に、死者の霊魂が集まる場所があると信じてきたのです。そしてそこから時を決めていつからかそれが1年に2回、お盆と正月の時期になります)、子孫の住む所にやってくると考えていました。この短い期間を子孫とともに過ごし、そして子孫に見送られて再びあの世の住まい(山・島)に戻っていくと信じていました。お盆に迎え火・送り火を焚くのは、先祖霊に対してのものだったのです。こうした先祖霊に対する信仰が長い間、日本人の心を支配してきました。

水平他界観がつくられた理由

スピリチュアリズムの「霊的真理」に照らしてみると、伝統的な日本人の他界観はある面でとても奇妙です。あの世が、この世(物質世界)の中にあることになるからです。先祖霊は、子孫の住む所から遠く離れた山や海上に住みますが、それはどこまでも物質世界に所属しています。スピリチュアリズムでは、あの世(霊界)とこの世(物質世界)を次元の異なる世界、すなわち垂直関係として考えています。大半の宗教も、死後の世界とこの世を次元の異なる関係にあると考えているはずです。ところが古代日本人は、この世とあの世を水平関係に置いているのです。この世の中に死後の世界があるとしています。

おそらくこれは、古代の日本人が死後の世界を説明するのに、現在のような霊界と物質界という概念的な区別をつけることができなかったためと思われます。古代の日本人も、さまざまな心霊現象・霊媒現象を通して、死者が自分たちの住んでいる世界のすぐ近くにいることスピリチュアリズム的に言うならば「霊界と地上界が同一場所に重複存在している」こと、その意味からすれば「霊界はこの世と表裏一体の関係で、まるでこの世にあるのと同じように存在している」ということ)を実感していたはずです。江戸時代の国学者、平田篤胤は「幽冥(死後の世界)は遠く離れた所にあるのではなくこの世にある」と主張しましたが、まさにそれと同じようなことを古代日本人も実際の心霊体験・霊媒現象から認識していたはずなのです。

死者はこの世のすぐ近くにいる。この世と同じくらい近い所にいるけれども、それが見えない。またそこに行くこともできない――こうした状況を説明するのに古代日本人は苦心したものと思われます。そして死者の住む場所(あの世)を、人里離れた山や海として表現したのでしょう。生きている人間は、どのようにしても死者が住んでいる世界に行くことはできません。それを決して近づくことのできない遠く離れた山や海として表現したものと考えられます。

日本仏教の成立と神仏習合

そうした日本独特の来世観・他界観(「死霊→先祖霊」の民俗信仰)が、大陸から伝来した仏教と混交し、新たに「死霊→成仏」の死生観が加わることになりました。一方、大和朝廷によってつくられた人工的宗教である神道は、シャーマニズム的な日本人の伝統的信仰を排除するようになっていきました。シャーマン(霊媒・巫女)を排除し、神社に所属する神官が宗教儀式を執り行うようになりました。巫女(シャーマン)は国家体制をかく乱する危険な存在として厳重に取り締まられることになります。812年(弘仁3年)の「託宣禁止令」は、こうした背景のもとで発布されました。

その神道は死を“穢れ”と認識することで、仏教に死の儀礼を一手に引き受けさせるようになりました。そして仏教と神道は、神仏習合の中で協調的な関係を保ち、表向きの日本の宗教として明治期にまで至ることになります。

日本仏教と日本人固有の死生観の融合化

こうした中で、伝統的な日本人の死生観を形成してきたアニミズム・シャーマニズムは、日本仏教ならびに神道という表の宗教の影の存在に追いやられ“裏の宗教”として歩むことになります。その一方で、日本人の伝統的死生観は仏教の中に取り込まれ、仏教の一部分として人々に受け入れられることになりました。

盆や正月に先祖が子孫を訪れるという風習は、日本の伝統的死生観と日本仏教が融合化したものです。日本古来のタマ(霊魂)は仏教のホトケ(仏)と名称を変えて、大衆化した仏教信仰を形成しました。“仏”とは本来覚者(真理を覚った人間)の意味ですが、日本においては、仏は死者の霊魂にすり替わってしまいました。ホトケと名称を変えた先祖の霊は、盆と正月に子孫のもとに帰ってくることになりました。また日本仏教では当たり前に考えられている仏壇や位牌も、実は東アジアのシャーマニズムに由来するもので仏教本来のものではありません。

仏教の葬式仏教としての浸透や、近世(江戸期)における檀家制度の中で、先祖の霊は寺の墓にいるといったあるいは寺の墓があの世への入り口といった)考え方を生み出すことになりました。そして寺は、かつて先祖の霊の住まいとされた山や海に代わって、新たな死者の住む所となりました。こうして寺は、死者や先祖霊と最も深い関わりを持つ場所となりました。しかし東北地方や沖縄の田舎に行くと、依然として先祖の霊は山や海に住み、定期的に子孫のもとを訪れるとの日本特有の信仰が純粋な形で残されています。

中国と日本のシャーマニズムの差異

中国の宗教も日本の宗教も、東アジアのアニミズム・シャーマニズムを土台としています。「先祖供養」を中心としたシャーマニズムという点では、日本と中国は共通しています。しかし両者の間には、地域性や歴史的背景が異なるように、アニミズム・シャーマニズムの内容に違いが見られます。

中国のシャーマニズムの場合は、現在に至るまで死者の肉体を重視する傾向が強く維持されてきました。土葬にこだわり、死体を墳墓に埋葬することが子孫の務めと考えられ、それが伝統となって厳しく守られてきました。そして必ず子孫が定期的に集まって先祖供養(招魂儀式)を行います。このような中国人の死者儀式は、日本人にとってはおどろおどろしく感じられます。中国人の現世主義的傾向が、こうしたところにも反映しているように思われます。

一方、日本の場合、中国と比べると死者の肉体を重視する傾向が小さくなり、霊魂のウェイトが大きくなっています。骨を大切なものと考える片方で、実際には霊魂への意識の方が重要視されています。霊魂(魂)と肉体(魄)の両方を不可欠の要素として重視してきた中国に対し、日本の場合、肉体への関心は薄らぎ、霊魂への関心が主となっていったようです。そのためか死者儀式も中国と比べ、さっぱりとしています。墓の形式も中国のように墳墓を造ることはせずに、墓石・墓標を中心としたものになっています。

日本人にとっては霊魂が大切で、肉体をそれほど重要視してこなかったと言えます。埋め墓(死体埋葬地)と詣り墓(墓石地)を区別した“両墓制”と言われる埋葬形式には、そうした日本人の死生観がよく示されています。また古代においては、大規模な墳墓を持てない多くの人々が、死体を山野や河原に捨てるなど粗略に扱っていました。こうした事実は、日本のシャーマニズムが中国のものとは異なり、霊魂を重視してきたものであることを思わせます。

火葬をしても依然として土葬と同じ

現在の日本では火葬がほぼ定着し、土葬にする人はきわめて少数になっています。しかし火葬にした遺骨を大切にし墓の中に置いておくという習慣は、火葬という形式をとっているものの、本質的には土葬と同じことなのです。輪廻を唱える仏教では、遺骨や遺灰をもはや不要なものとして処分することは当然です。もちろんわざわざ墓を造る必要はありません。インド宗教に見られるように、“死後の肉体にはもはや用はない”と考え処分することが火葬の本来の在り方なのです。

しかし日本では火葬後の遺骨や遺灰を、墓に入れて大切に保存します。墓の中に遺骨を置くことは、遺体を土葬にするのと同じことなのです。これは輪廻転生に基づく仏教本来の在り方とは根本的に違っています。火葬が主流となった現在でも、日本人は古来からのアニミズム・シャーマニズム的死生観をしっかり守り続けているということなのです。

仏壇と位牌

日本人は昔から、死霊はあの世とこの世をかなり自由に往き来し、死んだ場所や縁のある場所や住居、子孫のいる所、あるいは墓や寺に現れると信じてきました。そして家庭に置かれた仏壇や位牌を通して、先祖は子孫の前に現れると信じてきました。先祖が強い恨みを持って死んだような場合には、その霊は怨霊化し、遺族や関係者に祟りや障りを及ぼすようになると恐れられてきました。

一昔前までの大半の家庭には仏壇があり神棚も同時にありました)、その中には位牌が置かれていました。日本人の誰もが仏壇や位牌は仏教本来のものと思っていますが、もともとの仏教(シャカ仏教)には仏壇とか位牌といったものは存在しません。これらは東アジアのアニミズム・シャーマニズムに由来するものなのです。仏壇とは、先祖があの世から一時的に子孫の元に返ってきたときの住居です。盆や正月に、あの世から帰ってきたときに住む場所なのです。そして仏壇に置かれる位牌は、霊が懸かってくる依代(よりしろ)であり、神道の神社に置かれる榊や鏡と同じものなのです。ここにも日本の仏教が、日本特有の死生観であるアニミズム・シャーマニズムの要素を取り入れたところに成立していることが分かります。

9)霊的事実・霊的真理にそった正しい埋葬の方法――墓に関するスピリチュアリズムの見解

土葬と火葬

最近では火葬が普及して、先進諸国では主流になりつつあります。日本では昭和初期までは土葬が一般的でした。その後、火葬が圧倒的多数(99・9%)となり、昔ながらの土葬やその他の埋葬方法はごく一部となりました。今や日本は世界有数の火葬国になっています。しかしキリスト教やイスラム教といった世界的大宗教では、いまだに土葬が主流で、火葬を敬遠しています。とは言っても近年に至って伝統宗教の勢力が後退するにともない、土葬の数も徐々に減少するようになっています。

それに対しインド発祥の宗教であるヒンズー教や仏教は、肉体に重要性を認めず、死体を火葬にすることを当たり前としてきました。そうした火葬の習慣は人類歴史の中ではむしろ特殊なケースと言えます。では「霊的事実」に照らしたとき、土葬と火葬とではどちらがよいのでしょうか。

火葬の方がよい

結論を言えば、「土葬より火葬の方がよい」ということです。火葬はスピリチュアリズムの霊的観点から見たとき好ましい方法なのです。スピリチュアリズムでは、肉体は霊の地上における道具といった意味合いでしかなく、死体には全く重要性を認めません。死ねば肉体は分解され、土に返ればよしと考えます。したがって死体をどのように埋葬しようが、どのように扱おうが、いっこうに構わないということなのです。生命を失い物質と化した死体は、もはやどのように扱っても問題はありません。その意味において死体を火葬にしようが土葬にしようが、どちらでもいいのです。

ただしスピリチュアリズムでは、それ以外のいろいろな理由から土葬ではなく火葬を勧めます。その理由の1つが、火葬は遺族の肉体への執着を消すうえで効果的であるということです。霊の道具としての役目を終え、単なる物質となった遺体は早く処分すべきなのです。これまで地上の人間は霊的事実に無知であったため、ただの物体にすぎない死体に対して、あまりにも執着し過ぎていました。

死体を火葬にすることは、霊の道具としてよく働いてくれたことへの最後の儀礼であり、死体を清めの炎に付すという意味からも好ましいのです。また火葬は、心霊知識を持たずに霊界入りした者の“自分は肉体だ”という間違った観念に終止符を打たせることに役立ちます。地上の肉親縁者の想いに惹かれて、いつまでも地上近くや墓地をうろつき回るのをやめさせることになります。

死体を土葬にすると、死体から発生する臭気(死臭)が、霊的に敏感な地上人に悪影響を及ぼすことがあります。こうした人は、葬式やお通夜に出るだけで体に変調をきたすようになります。霊的に鈍感な人には大した影響はありませんが、敏感な人間には時に大きなトラブルをもたらすことになるのです。また墓地から発生するガスや臭気を、霊的に敏感な地上人が吸い吐き出すことで、“地縛霊”がそれに惹かれて集まるようになります。この意味で霊的に敏感な者は、土葬墓の近くには近寄らない方がよいということなのです。

こうしたさまざまな理由から、土葬より火葬の方が望ましいと言えます。衛生上の観点から見たときも、火葬の方がよいことは言うまでもありません。

火葬まで3日間を置く

ここで1つ留意すべきことは、火葬にせよ土葬にせよ、死体を処理するまでに最低3日間は時を置くということです。死者が生前に霊的知識に無知であった場合、霊体と肉体を結ぶシルバーコードが切れても、それまでの長年にわたる一体関係の名残で、ある程度の相互作用が続くことがあります。そして地上的感覚をしばらく持ち続けるのです。その場合、自分の肉体が処理されると、一時的であっても霊の精神に障害が及ぶことになります。“自分は生きている”というような感覚を残している分だけショックを受けるのです。もちろん生前から霊的知識を知っている人の場合は、そうしたことにはなりません。

3日間の期間を置くことで、大抵の死者は肉体的感覚から抜け出せるようになるため、その後は死体をどのように扱っても問題はありません。医学の発展のために解剖に供(献体)しても、何も問題は起こりません。

墓はあってもなくてもどちらでもいい――スピリチュアリズムの墓に対する見解

遺族にとっての大きな問題は、死者を埋葬する場所、墳墓のことです。墳墓は死後の世界を信じる人にとっては、死後の住処と見なされることもあります。墓は大抵の場合、所属する宗教の形式に従って造られることになります。

大半の日本人は、“墓はなくてはならないもの”と考えています。しかし墓は本当に必要なのでしょうか。地球人類の歴史には、さまざまな形式の墓が存在しました。ピラミッドに代表される大規模なものから、ただ単に小さな自然石を置いたものまで、いろいろあります。これまで見てきたように墓の形式は、その当時の人々の死生観、あるいは宗教の教えの内容によって決定されます。

スピリチュアリズムによって明らかにされた霊的事実に照らしてみると、これまで宗教によって示されてきた死生観の多くが間違っています。したがって「正しい死生観に基づいた埋葬法や墓は存在しなかった」ということになります。地球人類は今、スピリチュアリズムを通して初めて真実の死生観を知ることになりました。そして初めて“葬送”に関する正しい知識を持つことができるようになりました。

ではスピリチュアリズムの明らかにした「霊的事実(霊的真理)」に基づく埋葬形式・葬送思想とは、どのようなものなのでしょうか。結論を言えば――「墓はあってもなくてもどちらでもいい」ということなのです。墓は、不用となった肉体の捨て場所にすぎません。したがって、わざわざ墓という特別な場所を設けなくても構わないということになります。山や海に捨て去っても、川に流してもいいのです。その意味で“遺灰をガンジス川に流す”というインド宗教の在り方は、霊的事実に近いと言えます。言うまでもありませんが、大きな墓を造って故人の生前の威光を示そうなどという考えは全く馬鹿げています。

ついでに言うならば、墓ばかりでなく仏壇も位牌も必要ないということになります。

他人の信仰への寛容さ

スピリチュアリズムは「霊的事実」を明らかにし、正しい死生観と、葬送儀式や埋葬形式についての見解を示すことになりました。霊的事実がもたらされたことで、これまで人類がなしてきた宗教的儀式や慣習の間違いが浮き彫りにされるようになりました。スピリチュアリズムと出会うことによって、人々は地球上に存在しているあらゆる宗教の真偽を明確に知ることができるようになります。「スピリチュアリストになる」ということは、そうした霊的叡智を手にするということなのです。実際に他の宗教の教えや儀式の、どこが間違っていてどこが正しいのかを明確に判断できるようになります。

ではスピリチュアリストは、いまだ霊的事実(霊的真理)を知らない一般の人々の葬祭に対して、どのような態度をとったらよいのでしょうか。彼らの葬式には霊的意味がなく、霊的事実から外れた無駄な行為であることは明白です。そうした旧態依然とした葬祭や埋葬儀式に、どのように関わっていくべきなのでしょうか。言うまでもないことですが、霊的真理を知った者が、積極的にそうした意味のないことをするようであってはなりません。

しかし霊的真理を知らない相手に対しては、たとえそれが真理から外れた価値のない儀式であっても、強固に参加を拒み続けるようなことをしてはなりません。彼らのしていることに対して、それを非難したり、無理やりやめさせるようなことをしてはなりません。相手は何も知らないのだと、ひたすら同情と寛容な思いを持って臨むことが必要なのです。いずれ時代が進み、スピリチュアリズムが地球上の隅々にまで行きわたるようになれば、霊的真理と一致しないこれまでの儀式や宗教的習慣は消滅することになります。

10)無縁墓と散骨について

増えつつある無縁墓

最近の過疎化の進んだ地方では、墓地が無縁化するようになっています。子孫によって引き継がれてきた墓参りが途絶えて、荒れ放題となってしまった無縁墓が至る所で見受けられます。そうした状況を前にして、熱心に墓参りをしてきた人々の心には“いつか自分の墓も無縁墓になってしまうかもしれない”との不安がよぎるようになります。これまで大半の人々は、この世に生きた証として墓は永久的に存在するものと考えてきました。しかしそうした常識が今、根本から崩れかけようとしています。そして多くの人々が、日本人の伝統の崩壊に危機感を募らせています。

しかしスピリチュアリズムの霊的観点からするならば、無縁墓の増加は決して悲嘆したり心配するようなことではありません。身寄りがなく捨て去られた無縁仏を見ると、大方の日本人は身につまされるような気持になりますが、決して気の毒だと思う必要はありません。墓が風化し、人々から忘れ去られていくのは摂理に合ったことなのです。自然の中に溶け込み消滅していくのは、むしろ好ましいことなのです。

私たち地上人が考慮しなければならないのは、今霊界にいる他界者の実情です。死んで霊界に行った先祖が幸福であるならば、地上時代の墓が無縁化しても何の問題もありません。墓がなくなったからといって、気の毒でも可哀想なことでもありません。何度も述べてきましたが、当の死者にとって霊界での生活は決して不幸ではなく、地上と比べてずっと幸せなのです。そうした霊たちが、地上の墓に固執するようなことはありません。大半の霊たちは、自分の墓のことなどとっくに忘れているのです。

最近の散骨の流行

最近では、昔ながらの仏式の葬式や墓を敬遠する人々が増えてきました。そうした中で、徐々に“散骨”が行われるようになってきました。火葬に付した死者の遺骨・遺灰を、ヒンズー教徒さながらに海や山にまくのです。こうした散骨という新しい葬送方式は、一見すると因習にとらわれず、とても自由で進歩的に映ります。しかしそこには多分に現実的な理由も絡んでいます。都会で高い墓地を買うのは馬鹿らしい、檀家制度などの煩わしい葬儀儀礼から解放されたいとの思いから散骨に踏み切る人がいるのです。しかし散骨を選択する人が増えた最大の理由は、仏教の説く死生観が信じられなくなったということと、人々の伝統宗教離れがあることは言うまでもありません。

今では散骨の方法も多様化し、わざわざ海外にまで出かけていって骨をまいたり、飛行機から散骨するといったようなことも行われています。多くの人間が、自分の死後は遺灰を景色のきれいな所にまいてくれと遺言をしたためています。また近頃では、故人の遺骨や遺灰をペンダントやインテリアに加工して遺族が手元で供養するという“手元供養”が、現代の新しい供養のスタイルとして話題となっています。

こうした「散骨・墓なし」という従来の日本には全く見られなかった葬送形式が、これからどんどん増えていくことは間違いありません。この散骨・墓なしという在り方は、スピリチュアリズムの霊的事実に照らしたとき、どのように考えたらよいのでしょうか。従来の伝統宗教(仏教)の間違った死生観からの解放であり、望ましいことと言えるのでしょうか。

散骨をしたものの……

結論を言えば、スピリチュアリズムから見たとき“散骨”は、ある意味では最も理想的な埋葬形式と言えます。では、現在の散骨の流行を手放しで喜んでもよいものでしょうか。実は、今流行し始めた散骨には大きな問題があります。それは遺族の心の問題、散骨する側の内面の問題です。

散骨される側、すなわち死者にとっては、散骨は文句なしによい方法です。そこには何の問題もありません。死者は霊界入りして、肉体の苦しみや不自由さから解放され、これまでに味わったことのない至福感に浸るようになります。他界者は遺族との死別を悲しむどころか、死後いっそう深まった愛情関係を実感し、喜びに満たされるようになるのです。死後の世界のあまりの素晴らしさに、一時的に地上に残してきた親族のことなどすっかり忘れてしまうことさえあります。

地縛霊でないかぎり、大半の霊においては、自分の死体や墓へのこだわりや関心は消え失せてしまいます。生前は墓や仏壇の形式を気にしていたような人でも、霊界に入ればすっかり変わってしまい、そんなことはどちらでもいいことになってしまいます。それどころか地上にいる親族が古い因習にとらわれ、“葬式や墓をどうしたらいいのか”と右往左往している様子を見ると、かつての地上時代の自分の姿を思い出し、あまりにも無知であったことに恥じらいを覚えるようになります。こうした霊界での他界者の実情を考えると“散骨”は、まさに最高の埋葬方法と言えます。

しかし死者を送り出す側(散骨する地上の遺族)にとっては、そのようにすっきりとはいきません。遺族は、他界者との別れの悲しみで心が占められているのが普通です。他界した本人と同じような心境で死別を迎えられる地上人は、おそらく一人もいないでしょう。散骨はしたものの、“これで愛する人は大地に戻ることができた”と心を整理できる人はいないはずです。

なぜなら、死者のその後についての確信が持てないからです。死後どうなっているのか、本当にこれでよかったのかと不安が付きまとうようになります。死後に対する確かな知識と信念がないかぎり、愛する人の死を前にしたとき、不安と迷いが必ず湧き上がってくるようになります。そしてその不安は、どのようにしても払拭することができません。

正しい死生観に基づかない散骨は、結局は無意味

散骨という素晴らしい葬送方法を選択し、無駄な墓造りをせずに済んだものの、これでよかったのだと心の底から納得できないのは辛いことです。時間が経つにつれて、「墓を造らなかったためにバチが当たるようなことはないのだろうか……」などと考え始めると、いてもたってもいられなくなります。現在行われている散骨では、骨をまいた場所をしっかりと記録し、その後いつでもその場所を訪れることができるような配慮をします。海上散骨の場合は、緯度・経度を厳密に記録しておくようです。しかし遺骨をまいた場所にいつまでも未練を持ち続けるということは、散骨とは名ばかりで、一般の人々がしている埋葬と同じことなのです。それでは墓を造らなくても、結果的には墓を造ったと同じことをしていることになります。

本来“散骨”は、不用となった肉体を自然に戻してさっぱりするために行うものです。ですから散骨をしたなら、墓を造る必要はないのです。“墓”という肉体(遺骨)の保存場所はいらなくなるからです。これが散骨の本質的な意味です。ところが散骨をしながら墓を造ったり、その後もしっかりと法事を営んだり、死者の供養をする人がいます。そうした人は、いくら外側の形式をモダンにしても、本質的には何ひとつ変わっていないのです。“死別を悲しみ、死に対する不安を拭えない”という点で、結果的には一般の人々と全く同じことなのです。

スピリチュアリズムでは、遺骨には何の意味も認めず、不用となった肉体は大地に戻せばよしとします。同時に死別は永遠の別れではなく、それどころか死によって愛する人との霊的距離は、これまで以上に近くなるとします。死は永遠の別離でもなければ、悲しみの時でもありません。葬送儀式は、死者の旅立ちに対する祝福のために執り行うものです。肉体の死によって確かに愛する人の姿は地上人の肉眼からは見えなくなりますが、心と心の関係・愛の関係は、死によってさらに強くなるのです。したがって本来“死”は、死者にとっても遺族にとっても喜びの時であり、不安や悲しみとは無縁なものなのです。

散骨という進歩的でモダンな形式を選択することに価値があるのではありません。死は別れの時・悲しみの時ではなく、いっそう愛の関係が深められる喜びの時であり、新しい世界に旅立つ他界者への祝福の時であると確信できるような「正しい死生観(死に対する知識・認識)」を持つことこそが重要なのです。こうした確たる死生観があるならば、散骨であろうが墓に埋葬しようが問題ではありません。遺灰をまく場所もどこでもよいのです。正しい死生観に基づかない散骨は、結局は無意味なのです。

11)墓や霊供養にまつわる迷信

最後に、埋葬習慣や葬送儀礼に関する迷信について見ていきます。世間には、埋葬や葬送・先祖供養に関する霊的事実とは懸け離れた迷信が蔓延しています。人々は霊的事実を知らないために、何が真実なのか、何が嘘なのかの判断がつきません。そして無意味で馬鹿げた迷信に翻弄され、宗教やニセ霊能者に騙されることになります。

スピリチュアリズムの「霊的真理」は、巷にはびこる迷信や間違った教えを明らかにして、人々を真実の光のもとへ導きます。

墓・葬式・供養に関する宗教の教えは、その多くが間違い

スピリチュアリズムによって明らかにされた霊的事実と照らしてみると、これまで宗教者や霊能者や民俗信仰によって語られ教えられてきた内容の多くが、事実から懸け離れていることが分かります。地球上のほとんどすべての宗教が、間違った死生観を広めようとしてきました。そして自分たちの教えこそ唯一正しいものであると主張してきました。しかしスピリチュアリズムから見れば、そのいずれもが迷信と大差のない間違ったものばかりなのです。

大半の宗教が、最も基本的な霊的事実である「霊魂観」を説いていません。それは「宗教の教えの根底が間違っている」ということです。その点に関しては、霊魂観に立脚するアニミズム・シャーマニズム信仰(民俗信仰)の方が、キリスト教よりもはるかに優れているということになります。これまで2千年の間、地球上の人々を支配してきた世界的教理宗教(キリスト教・イスラム教・仏教)には、霊的真理の一番の本質がごっそりと抜け落ちています。キリスト教は、自分たちは未開信仰・原始信仰とは違って進化していると威張ってきましたが、実際にはアニミズム・シャーマニズムよりも劣っていたのです。

宗教によってこれまで教えられてきた死生観・葬送思想は、迷信と大差がありません。それらは人間が勝手につくり上げた空論にすぎません。それなのに現在に至っても、霊的事実とは程遠い迷信まがいの教えを正当化し、スピリチュアリズムやアニミズム・シャーマニズムを非難しています。

地球人類は霊的事実に対して無知であったために、宗教を通して半ば強制的に迷信を植えつけられ、無意味な苦しみを強いられてきました。しかしスピリチュアリズムによって宗教の教える死生観や葬送思想の間違いが明らかにされた以上、今後はそれに縛られてはなりません。宗教が執り行う儀式という儀式をすべて否定しても、決してバチが当たるようなことはありません。

日本人の墓や霊供養に関する迷信

日本人は現在に至るまで、死に関する馬鹿げた迷信の中にどっぷり浸かってきました。そして宗教やニセ霊能者による作り話や迷信に怯えてきました。日本人の歴史の中に一貫して流れているのは、死と怨霊と死後の世界への不安・恐れでした。こうした霊的なものへの“恐れ”が人々の心を強く支配し、日本人の歴史を形づくってきたのです。そして現在においても多くの人々が、死と霊魂と死後の世界に関する迷信に怯えています。何の根拠もないくだらないことに、人々の心は縛られています。

以下では、日本人社会に広く見られる迷信をピックアップします。霊に関する迷信は、どれも“罰(バチ)が当たる・不幸がもたらされる”といった恐れと結びついています。しかし今、こうした迷信はスピリチュアリズムの「霊的事実」によって暴かれ、一掃されようとしています。

日本人社会に見られる墓や供養に関する迷信

  • 無縁墓になると、先祖の霊が迷ったり、怒って子孫に災難を引き起こすようになる。バチが当たる。
  • ひんぱんに墓参りをし、墓をきれいにすればするほど、子孫に繁栄と幸福がもたらされる。
  • 先祖供養をすればするほど、先祖は救われる。
  • 仏壇がないと先祖のいる場所がなくなり、バチが当たる。
  • 仏壇や墓に、さまざまな供物をあげると喜ぶ。
  • 仏壇に夫婦両家の位牌を置くと、先祖同士がケンカをするので不幸が絶えなくなる。
  • 神棚を上、仏壇を下に置かないとバチが当たる。
  • 仏壇を北向きに置くとバチが当たる。
  • 神棚と仏壇を向かい合わせにするとバチが当たる。
  • 個人の位牌が先祖代々の位牌より大きいと不釣合いとなり、不幸が起こる。
  • 命日を忘れると霊が怒ってバチが当たる。
  • 仏壇の供え物を長時間おくと、先祖が嫌がる。
  • 他の宗派の仏壇で般若心経をあげると、先祖が怒ってバチが当たる。
  • 墓を建てる向きを間違えるとバチが当たる。墓相を正しく守らないとバチが当たる。
  • 特殊な形の墓標を造るとバチが当たる。

これらは“迷信”のほんの一例です。言うまでもなく何の霊的根拠もないものばかりです。世間の宗教やニセ霊能者がこうしたことを言うために、人々は信じ込んでしまいますが、すべて作り話です。宗教者も霊能者も、本当は何も分かっていないのですから、彼らのまことしやかな言説は一切無視すべきです。

低級霊による心霊現象を、バチが当たったと錯覚

あの世にいる未熟な霊が、しばしば地上人に働きかけて害を及ぼしたりトラブルを引き起こすことがあります。こうした低級霊による霊の障り(霊障)が、時に迷信をつくり出すことになります。迷信の中には、低級霊や地縛霊による悪行を“バチが当たった”と錯覚したものがあります。

地縛霊となってしまった先祖の霊が、苦しさから子孫に救いを求めてくることがあります。また地縛霊化している先祖の霊が、仏壇や位牌、墓や供養の仕方に対して注文をつけてきたり不満をぶつけてくることもあります。こうした霊界からの働きかけやイタズラを、怨霊の祟(たた)りとか先祖がバチを当てたと錯覚してしまうのです。そこから新たな迷信がつくり出されることになります。供養の仕方が間違っていたために先祖が成仏できなくなった、墓相が悪かったためにバチが当たった、という迷信を生み出すことになるのです。

霊界の地縛霊の実情を知ることによって、多くの迷信の実態が明らかにされます。霊的事実と照らし合わせることによって、これまでの迷信を完全に無視できるようになります。「霊的真理」を知れば、事実であるかのように恐れられてきた迷信が、実に取るに足りないものであることが理解できるようになるのです。

迷信に惑わされないようにするためには、何よりも正しい霊的知識を持つことが大切です。正しい霊的知識は迷信を一掃します。スピリチュアリズムによって明らかにされた霊的知識を身につけることによって、馬鹿げた迷信に騙されたり、間違った宗教の教えやニセ霊能者に惑わされることがなくなります。正しい知識は、ニセモノや迷信から人々を守る盾となるのです。

なお地縛霊となって救いを求める先祖の霊への対処法については、次の5章(地獄とは)において取り上げます。また第3ホームページでも、霊の地上人への働きかけの実態(霊障・霊の祟り)を詳しく取り上げますので、それを参考にして正しい対処をするようにしてください。