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(1)霊優位(霊主肉従)と肉優位(肉主霊従)

古来、“人間は霊魂と肉体という2つの要素から成り立っている”との考え方がありました。人間が「霊魂」と「肉体」から構成されているとする霊肉二元論は、代表的な宗教的人間観です。スピリチュアリズムも「霊肉二元論」に基づく明確な身体観を主張していますその内容については「スピリチュアリズムの思想[Ⅰ]」や『スピリチュアル・ヒーリングとホリスティック医学』の中で詳しく取り上げていますので、参考にしてください)

スピリチュアリズムでは、そうした人間観・身体構造論を土台として「霊優位(霊主肉従)」の思想を確立し、従来の宗教が未解決のままにしてきた「霊と肉の問題」「善と悪の問題」「罪の問題」に対して、トータル的な解答を示しています。

ここではスピリチュアリズムの「霊優位」の思想のアウトラインを見ていきます。

1)霊肉関係についての従来の代表的な見解

キリスト教の「霊肉問題」の見解

キリスト教では、人間は霊魂と肉体の2つの要素から成り立っているとします。この霊と肉体は、正反対の性質を持ち、全く異なる方向性を持っています。そうした相反する2つの要素が結合して人間ができ上がっていると考えるのです。さて、霊と肉体という正反対の要素から成り立っている人間の内部には、必然的に対立と葛藤が生じるようになります。これが「霊肉の闘い」です。人間は霊と肉体という二元的要素を自覚することによって、内面における対立・争いの実態に直面するようなります。これを克服することが「罪との闘い」であり、重要な信仰実践となります。

以上がキリスト教における「霊と肉の問題」のあらましですが、スピリチュアリズムもキリスト教で主張してきた霊魂と肉体の二元論的見解と同じ立場に立っています。そしてキリスト教と同じく内面における「霊肉の闘い」の存在を認めます。ただし「霊肉二元論」の具体的な内容や「霊肉の闘い」の解釈については、スピリチュアリズムとキリスト教では全く異なっています。

「霊肉二元論」と善悪関係

世界の宗教の中には、マニ教のように「霊」を善、「肉体」を悪と結びつけて考え、霊肉の関係を徹底して善悪の関係としてとらえるところもあります。またマニ教ほど極端ではありませんが、霊肉二元論を説く宗教では一般的に「霊」を善なるもの、「肉体」をそれに反する悪なるものと考えるのが普通です。キリスト教にも、そうした傾向が濃厚に見られます。さらにこれに“罪(原罪)”や“悪魔(サタン)”の観念が加わり、複雑なドグマを形成しています。

古代ギリシアの「霊肉問題」の見解

一方、古代ギリシアでは、人間は霊魂(プシュケー)と肉体から成り立っているとの認識が一般的でした。ただ霊魂は死とともに肉体を離れ、煙のように消え去るものと考えられ、それほど価値のあるものとはされていませんでした。それに対しソクラテスは、霊魂は不死であり、人間にとって最高に価値のあるものであることを証明しようとしました。そして人間は皆、自己の霊魂をより善く導くために「霊魂の徳(アレテー)」を持つべきであり、それが人間の価値を決定し幸福を約束するものであると主張しました。

ソクラテスの弟子であった哲学者プラトンは、師ソクラテスが主張した霊魂の徳(アレテー)の根拠づけをはかりました。その結果成立したのが、かの有名な「イデア論」だったのです。人間の魂は本来、善のイデアに属するものであるが、肉体という牢獄に縛られてイデアを見る能力を失っている、とプラトンは言います。そして霊魂が肉体的束縛から自由になったとき、霊魂は自分自身の価値を自覚するようになるとしました。

ソクラテスやプラトンの「霊肉問題」の基本的な考え方は、スピリチュアリズムと共通しています。

2)霊肉関係についてのスピリチュアリズムの見解

スピリチュアリズムでは「霊肉関係」について、どのように考えているのでしょうか。シルバーバーチは、霊と肉の関係について次のように述べています。このシルバーバーチの言葉の中に、スピリチュアリズムの「霊肉問題」についての見解が端的に示されています。

「人間には神性が宿っていると同時に、動物進化の名残としての獣性もあります。人間としての向上進化というのは、その獣性を抑制し神性をより多く発揮できるようになることです。」

『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)  p.185

シルバーバーチは、人間には“獣性(動物性)”と“神性”という相反する2つの要素が内在しており、「霊的成長」は獣性を抑制して神性を拡大することからなされるとしています。

肉体本能から発生する人間の“獣性”

シルバーバーチが述べている獣性・動物性とは、人間と動物に共通する要素である「肉体本能」を指しています。神性とは、人間の最も高次元の要素である「霊性」を意味しています。シルバーバーチは――「獣性(肉体本能)を抑制して、霊性を多く発揮することによって霊的成長がなされるようになる」と言っているのです。

動物は人間と違って、肉体本能は常に「自然法則(神の摂理)」によってコントロールされています。そのため限度を超えて本能的行動に走るようなことはありません。人間によって不自然な生活を強いられたり、自然な生活環境が乱されないかぎり、動物は生きるのに必要な分だけ食べ、それ以上のものを食べるようなことはありません。子孫を残すためだけにセックスをし、それ以外のセックスはしません。動物はこうした摂理にそった生命活動を営む中で、種全体がバランスを保って生存するようになっています。

それに対し人間は、動物にはない“自由意志”が与えられているため、際限なく肉体本能からの欲望を追求することができるようになっています。必要以上に食べ、限度を超えてセックスをすることができるのです。その結果、肉体の健康を損ない、自分自身の首を絞めることになります。そして人間界全体が、不自然で不調和な世界となってしまっています。

“獣性”を抑制する生き方

肉体本能は、肉体の生存を可能にするために神から与えられたものであり、自己の肉体のためだけに働くようになっています。このように「肉体本能」は自己中心性をその本質としますが、肉体生命の存続をはかるという目的のもとで、それは正当なものとなります。肉体本能は一定のコントロールのもとに置かれるかぎり、その役割を果たし、人間に貢献することになります。

しかし限度を超えて「肉体本能」からの欲望を追求するようになると、人間は本来のあり方から逸脱し、醜いエゴ(利己)的存在になってしまいます。霊性は心の片隅に追いやられて本来の活動ができなくなり、単なる“本能人間”になってしまいます。結局、動物にも劣るような醜い存在に堕ちてしまうことになります。残念ながら現代人の多くがこうした状態に陥り、獣性に翻弄された生き方をしています。

シルバーバーチは、獣性に支配された生き方をしている地上人に対して、獣性(肉体本能)を抑制し、神性(霊性)を発揮する必要性を説いているのです。このような内面の獣性を抑制して霊性を発揮するあり方が、「霊優位(霊主肉従)」の状態なのです。

シルバーバーチが言う“獣性”には、食欲・性欲といった肉体本能ばかりでなく、そこから派生するより多くの富を求める物欲や、この世の名声を求める名誉欲、さらには権力を求める支配欲や権勢欲といった“利己的欲望”も含まれています。

3)霊主肉従・肉主霊従の発生メカニズム

ここでは「霊肉問題」に関する、さらに詳しいスピリチュアリズムの説明を見ていきます。霊肉問題についての“発生メカニズム”の詳細を学びます。少し複雑ですが、地球人類に初めて明らかにされた重要な内容ですので、ぜひ理解していただきたいと思います。

「霊主肉従」と「肉主霊従」

「霊優位」を別の言葉で表現するなら、「霊主肉従(霊が主で肉が従)」あるいは「霊的コントロール(霊による肉体本能のコントロール)」ということになります。シルバーバーチはしばしば――「霊が主人で、肉は従者」「霊が王様で、肉は家来」と表現していますが、これは霊優位・霊主肉従のことを意味しています。

反対に「肉優位」の状態は「肉主霊従」ということになります。肉体本能という獣性・動物性が心の中心を占め、霊を支配している状態です。こうなると霊は肉の中に閉じ込められて、本来の働きができなくなります。

以下では霊主肉従・肉主霊従の“発生メカニズム”を詳しく見ていきます。霊主肉従・肉主霊従を理解するために、まずは人間の構成と人間の意識について復習します。

地上人の身体構造と、地上人が自覚する「心」

スピリチュアリズムの思想[Ⅰ]において、人間の身体構造について詳しく見てきました。地上の人間は――「霊・霊の心(霊的意識)・霊体・肉の心(肉体本能的意識)・肉体」の5つの構成要素から成り立っています霊的意識は「霊の心」の内容であり、肉体本能的意識は「肉の心」すなわち「肉体本能」の内容です)

それを図示すると次のようになります。

霊体・肉体の重複構造

図では理解しやすくするために、5つの構成要素を平面的に示していますが、実際には「霊体」と「肉体」は重なり合って同一場所に存在しています。また「霊」も「霊の心」も「肉の心(肉体本能)」も外形はなく無形であり、図で示しているような一定の場所を占めているわけではありません。「霊」は最高次元の構成要素で、「霊の心」や「霊体」や「肉体」もすべて包含するような広がりを持っています。「霊」が最高次元にあることを示すために、それを「霊の心」の中に示しています。

人間を構成する要素は、大きく霊的なものと肉的なものに分けられます。霊的要素は「霊・霊の心・霊体」で、肉的要素は「肉体本能・肉体」です。したがって人間の構成要素においては、次の3つの次元の「霊優位」が存在することになります。「霊・霊の心・霊体」>「肉体本能・肉体」、「霊の心」>「肉体本能」、「霊体」>「肉体」の3つです。この3つの霊優位関係のうち、「霊と肉の問題」を論じるときに一番重要となるのが「霊の心」>「肉体本能」です。これは心の次元の霊肉関係です。

一口に「心」と言っても、実際にはきわめて複雑な面があります。私たち地上の人間が普通「心」として感じているのは、実は図に示された「霊の心(霊的意識)」と「肉体本能(肉体本能的意識)」を合わせたものなのです。霊の心と肉体本能が一つになったものを、私たちは「心」として自覚しているのです。したがって私たちの「心」の内容(意識)は、霊的意識からきたものと、肉体本能的意識からきたものから成り立っているということになります。

地上人が自覚する「心」

「潜在意識」と「顕在意識」

私たちの「心」は、霊的意識と肉体本能的意識という異なる意識の融合体と言えますが、これにさらに複雑な内容が加わります。私たちが今「心」として自覚しているものの中には霊的意識が含まれていますが、実は霊的意識のすべてが「心」の中に含まれているわけではありません。霊的意識のほんの一部分だけが、“脳”という物質の器官を通して自覚されるようになっているのです。すなわち霊的意識の大部分は「潜在意識」として隠されていて、地上の人間には自覚することができないということなのです。最近の深層心理学では、人間の意識を「潜在意識」と「顕在意識」に分けていますが、スピリチュアリズムでも同じように考えますただし、その具体的内容については大きく異なっています)

スピリチュアリズムの見解を図示すると次のようになります。

「潜在意識」と「顕在意識」

日頃、私たちが自分の「心」と思っているものは、図に示した「顕在意識」の部分です。それは“脳”を経て自覚される霊的意識の一部分と、脳から発生する肉体本能的意識が合体したものなのです。

  • 地上人が「心」として感じるもの = 顕在意識 = 霊的意識の一部分と肉体本能的意識を合わせたもの

心の「霊主肉従」と「肉主霊従」

霊肉関係を論じるときに問題となるのが心の霊主肉従・肉主霊従の関係です。それは言いかえれば「顕在意識内」の霊的意識と肉体本能的意識の力関係のことなのです。顕在意識中の霊的意識の支配力が肉体本能的意識よりも大きい状態が心の「霊優位(霊主肉従)」です。反対に顕在意識中の霊的意識が肉体本能的意識に支配されてしまっているような状態が心の「肉優位(肉主霊従)」なのです。

心の「霊主肉従」

心の「肉主霊従」

4)心の「霊主肉従」と「肉主霊従」の状態

心の霊優位状態と肉優位状態

心の霊優位と肉優位は、顕在意識内の「霊的意識」と「肉体本能的意識」の力関係によって決まりますが、それを図示すると次のようになります。

心の霊優位状態と肉優位状態

「霊中心」と「肉中心」の心の状態

地上において魂(霊性)を高めるために真っ先にしなければならないことは、私たちの心を「霊優位」にするということです。「霊」が私たちの心全体を支配しているとき、心は「霊優位(霊中心)」の状態に置かれます。逆に心が肉体本能に支配されて物欲・肉欲にとらわれ、金儲けやセックスだけに意識が向けられているときは「肉優位(肉中心)」の状態になっています。

霊的真理をじっくり読んだり深い祈りをした後、心がすがすがしく洗い清められたように感じられるときは「霊優位」の状態にあります。反対に霊的真理もどこかに消え失せ、剥き出しの感情と肉体本能に翻弄されているときは、心は「肉優位」になっています。私たち地上に住む人間は、こうした2つの状態の間を絶えず揺れ動いています。霊が支配的な状態と、肉(肉体本能)が支配的な状態の間を行ったり来たりして日々の生活を送っているのです。

心の「肉主霊従」は、霊的エネルギーの枯渇状態

心が「肉主霊従」の状態に陥っているときは、心は“霊的エネルギー”を枯渇させています。そのため重苦しさ・暗さ・寂しさ・虚しさ・孤独感が心を占めるようになります。そして周りの人々に対して批判的・自己中心的な思いが湧き上がり、自分と意見が違う者には憎しみを持つようになります。このように肉主霊従の状態下では、心は「利己愛」によって支配されてしまいます。

心の「肉主霊従」とは、霊的エネルギーが枯渇して、霊が肉体本能をコントロールできない状態のことです。現在、先進国の大半の人々は寂しさや孤独感を抱えていますが、その原因は“霊的エネルギー”の枯渇にあるのです。「肉主霊従」という肉体本能が支配的な状態では、心の虚しさや孤独感を癒すために、本能的刺激を求めるようになります。暴飲暴食に走ったり、刺激的なレジャーやスポーツにのめり込んだり、ドンチャン騒ぎや祭りの賑やかさを求めるようになります。また他人とのお喋りに興じて、寂しさを忘れようとします。時には酒やセックス・ドラッグに耽溺するようになることもあります。

最近では、テレビゲームやインターネット・携帯電話などが現代人を虜(とりこ)にし、人々はそれらによって心の刺激と満足を得ようとしています。しかしこうした“中毒”と言ってもいいような方法で、心の奥底からの満足と安らぎを手にすることはできません。そうしたものは一時の楽しさを与えてくれるかもしれませんが、すぐに寂しさ・虚しさ・孤独感が押し寄せてくるようになります。

現代人が夢中になって追い求めている不自然な刺激は、人間を霊的成長から遠ざけることになります。「霊的成長」のためには、静かな時間を持つことが必要です。一人になって自己の内面を見つめる静かな時間は、「霊主肉従」の状態をつくるためには欠かせません。現在では子供から大人まで、多くの人々が“ケイタイ中毒”の状態に陥り、常に本能的刺激を求め続けています。こうした状況は、霊的成長という人間にとって最も大切な宝を、自ら捨て去っているということなのです。物質文明の発展によってもたらされた文明の利器は「霊的コントロール」のもとで使用されるかぎり何の問題もありませんが、現実には人々は文明の利器に翻弄され、霊的成長が阻害されることになっています。

  • 心の肉主霊従 → 心の霊的エネルギーが枯渇 → 利己愛・寂しさ・虚しさ・孤独感 → 本能的刺激を求めて心を癒そうとする
    (暴飲暴食/刺激的レジャー・スポーツ/ドンチャン騒ぎ・お祭り騒ぎ/酒・ドラッグ・セックスへの耽溺/テレビゲーム・インターネット・携帯電話)