MENU

(7)日常生活における利他愛の具体的な実践内容

日常生活における「利他愛の実践」とは、具体的にどのようなことを指すのでしょうか。真剣に霊的真理を実践しようとする人なら、一度はこうした問題で悩んだことがあるはずです。ここでは、スピリチュアリストが日常生活でなすべき利他愛の行為について見ていきます。

利他愛実践の原則は――「自分より恵まれない相手のために、自分の持っているもの(霊的なもの・精神的なもの・物質的なもの)を無償で与えること」です。したがって相手のためになることなら、何でもよいということになります。それは私たちが日常生活の中でさまざまな人間関係を結び、多くの人々と触れ合う以上、利他愛実践のチャンスは無限にあるということを意味しています。

現実に何を与えるかは、相手によって、また状況によって違ってきます。そしてその与え方も異なります。このように実際の利他愛の実践は、さまざまな形をとることになりますが、「相手に対する無償の働きかけ」という点においては共通しています。

1)最低限の利他愛実践のラインを守る――自分自身が利己愛に走らない・自分の利己的行動に歯止めをかける

利他愛実践の前に「霊主肉従」の努力を

利他愛の実践に入る前に、最低限の常識というべきラインを守らなければなりません。それは自分自身が利己的な行為に走らない、ということです。利他愛に反する利己的な行為を無反省に繰り返すことは、利他愛の実践者としての資格を自ら放棄することに他なりません。人に与えようと思うなら、自分の利己的行為に歯止めをかけるべきです。これは、利他愛の前段階である「霊主肉従」の努力をするということです。

利他愛の実践には、霊主肉従の努力が先行しなければなりません。自分自身に厳しくできない人間は、利他愛を持つことはできないのです。形ばかりの奉仕活動をするよりも、まず自分自身に厳しく臨むこと、自己の“内面の敵”としっかり闘って、これをコントロールすることが必要です。

人を非難したり、けなしたり、攻撃しない

せっかく霊的真理を手にしたものの、依然としてそれまでの利己的な生き方を平気で続けている人がいます。スピリチュアリストとしての最低限の常識さえ守ることができない、あまりにも幼稚な人間がいます。利他愛の実践を志す者にとって、利己的な行為に自らブレーキをかけるのは当たり前のことなのです。

人間性が未熟で利己的な者は、自分の感情に任せて平気で他人の悪口を言ったり、好き嫌いを口にします。世の中には非難されても仕方がない人間がいることは事実ですが、スピリチュアリストは「霊的真理」に照らして物事を判断し、自分を律するようにしなければなりません。それをしないで他人をけなしたり、非難したり、攻撃するようなことをしてはならないのです。これはスピリチュアリスト以前の問題であり、人間として失格ということです。感情に任せて暴言を吐き、他人を非難したり攻撃することは“霊的な人殺し”というべき行為です。そこには、利他愛の前提となる思いやりのかけらもないことは明らかです。残念なことにスピリチュアリストの中にも、このような人間として許されない行為をする者がいます。

世の中の人々に先駆けて「霊的真理」を知ったスピリチュアリストには、大きな責任が課せられています。真理を知らない人々とは異なる重大な責任を背負っているのです。そのスピリチュアリストが、いつまでも次元の低い幼稚な行為を続けるなら、いずれ苦しみを通して自らの利己性の罪を償わなければならなくなります。

他人に迷惑をかけない

周りの人々に不愉快な思いをさせないようにする、迷惑をかけないようにすることは、人間としての常識でありマナーです。思いやりのある人間は、決してそうした行動をとるようなことはありません。マナーは、周りの人々に不愉快な思いをさせないための共同規範であり、利他愛実践の最低ラインです。

しかし現在では、そのマナーすら守れない人間が増えています。自分が快適であればいい、自分さえよければ周りの迷惑などかまわない、といった人間があふれています。人にイヤな思いをさせても平気な人間が多く見られます。

周りの人々への気配り・配慮は、利他愛実践の大前提であり出発点です。最低限のマナーさえ守ることができない者は、“自己コントロール”のできない人間です。そうした人は、利他愛を持つことはできません。古来、日本人は、思いやりの精神・気配りの精神に富んでいました。思いやりの精神によって培われた優れた道徳心を持ち、海外からやってきた宣教師たちに感動を与えました。

私たちはスピリチュアリストとして利他愛の実践に入る前に、最低限のマナーが身についているかどうか、自分自身を厳しくチェックしてみる必要があります。

“スピリチュアリズム”を利用して人々を騙さない

他人の金品を力ずくで奪えば、法律によって裁かれることになりますが、人々を上手に騙して名声を手に入れた場合には、この世の法律をすり抜けることができます。人を騙して富や名声を求めるのは利他愛に反する行為であり、利己愛であることは言うまでもありません。それは霊的な罪を犯し神聖な愛を汚す行為ですが、これまで多くのヒーラーや霊能者たちは、そうした不正を現実に行ってきました。その結果、スピリチュアリズムの権威を傷つけることになりました。

この世の富や名声を追い求める人間は、霊的な愛(真の利他愛)を持つことはできません。常に自分だけを愛し、周りの人々を自分の欲望達成のための道具としか見ていないからです。残念ながら現在の日本には、偽善的行為によって人々を騙し、富や名声を手に入れようとするニセのヒーラーや霊能者が数多く存在しています。

さらに悪質な行為は、スピリチュアリズムの「霊的真理」を利用して、富や名声を得ようとすることです。そうした偽善者は、決まって“愛や幸せ”といった言葉を口にし、巧みに人々を騙します。それは「霊的法律(神の摂理)」から見たとき、最も悪質な行為・最大の利己的行為と言えます。

2)自分への非難や攻撃に対して、同情心と寛容さを示す

自分では正しいと思って実行したことも、しばしば周りの人々から誤解されたり非難されることがあります。私たちが利他愛の実践を進めるとき、周りの人々からの心ない非難や反発に遭遇することは避けられません。人間の心には醜さが内在しています。他人を非難することで優越心に浸ろうとする傾向があります。他人を責めることで自分がさも偉い人間になったかのように錯覚し、自己満足に酔いしれることになります。

それは、霊的真理を手にしたスピリチュアリストであっても同じことです。時に“嫉妬”の感情に翻弄され、醜い姿をさらけ出しているスピリチュアリストを見ることがあります。真理を知らない人々が醜い感情に流されるのは仕方がないとしても、真理を知ったスピリチュアリストが利他愛の実践に励む人間を非難するようなことは、本当に残念です。

「スピリチュアリズムの普及」は、これまでにはなかった霊的世界の開拓です。当然、周りの人々からの反発や迫害は避けられません。特に既成宗教からの反発は、ますます激しさを増していきます。スピリチュアリズムの普及によって、自分たちの存在が否定されることになるからです。こうした「スピリチュアリズムの普及」にともなう非難や、真理に基づく「利他愛の実践」への攻撃に対して、私たちはどのように対処していったらよいのでしょうか。

不当な非難には力で反撃するというのが、世の中の人々のやり方です。しかし“目には目を”という復讐法は、利他愛とは相容れません。イエスが示したように「敵に対しても祈る」という姿勢が、私たちスピリチュアリストには求められます。そのためには非難や攻撃をしてくる相手に対して、霊的に一段高いところに自分を置く必要があります。高みに立つと言っても、上から相手を眺め下ろして軽視したり無視するということではありません。それは傲慢な姿勢であり、真理にそった態度ではありません。スピリチュアリストは「霊的視野」からの同情心を持ち、寛容な見方をすべきです。

「相手は真理を知らないし、霊界の事実も知らない。そのために間違った考え方しかできないのだ。かつての自分もそうであったが、霊的事実が分かってみれば、それは本当に気の毒なことだ。人を非難することで自分が偉い人間になったかのように錯覚し、自己満足に浸っていても、そのツケはいつか必ず回ってくる。苦しみをもって償わなければならなくなる。だから早く霊的真理を知って、今の間違ったあり方を改めてほしい」――こうした「霊的事実」に立った深い哀れみこそ、私たちが持つべきものです。

「相手は何も知らない気の毒な人間なのだ。何も知らないために、いい気になって自己主張をしているのだ。死後、後悔することがないように、せっかくの地上人生を無駄にしないでほしい」――こうした祈りの気持ちを持つことが、相手を上から眺めるということです。真理にそった祈りの心で相手を包むことができれば、それは利他愛を実践していることになるのです。

3)可能なかぎり、人々に手を差し伸べる

自分より恵まれない人々に手を差し伸べる

利他愛の実践とは、他人に対して自分のできる範囲で精いっぱいの援助をすることです。可能なかぎり、自分より恵まれない人々に手を差し伸べることです。誠心誠意、見返りを期待せずに自分の持っているものを与え、援助するということです。利他愛は、他人への親切心や優しさ・思いやり・励まし・協力・手助け・援助となって現われます。

奉仕のチャンスは、無限にある

「相手のため」という純粋な動機から出た働きかけは、いずれも利他愛の実践となります。もちろん一言で「相手のため」と言っても、それにはピンからキリまで、さまざまな内容があります。日常生活の中で、自分より恵まれない人々・困っている人々に手を差し伸べるチャンスは、無限にあるのです。霊的真理の伝道やスピリチュアル・ヒーリングだけが、利他愛の実践ではありません。

利他愛の実践とは――言い換えれば「純粋なボランティア活動」のことに他なりません。不幸な境遇に置かれている世界各地の人々のためのボランティア活動に参加することも、またそれを支援することも利他愛の実践です。現在では、数多くのボランティア活動が存在しています。その中から自分に合ったもの、自分に相応しいものを見つけて参加してみるのもよいことです。「霊的真理」に照らして、これなら本当に人々のためになると思われる奉仕を探してみてください。

霊的真理に対する理解力の不足から、時に判断ミスをすることがあるかもしれませんが、真剣に「人々のため」という思いを持ち続けるなら、自動的に次に進むべき道が見えてくるようになります。里親としての奉仕・障害者のための奉仕・動物愛護のボランティア・環境問題のボランティアなど、数え上げたらきりがありません。地元の社会に対する奉仕も、立派な利他愛の実践です。このように考えると、利他愛実践のチャンスは無限にあることが分かるはずです。人々の役に立つことを願って自ら行動し、大切な時間とエネルギーと資金を提供するなら、そのすべてが利他的奉仕と言えるのです。

参加したボランティアが思ったほど純粋でなかったことを知り、別のボランティアを探すようになるかもしれません。あるいは、自分自身でボランティア活動を始めようと思い立つきっかけになるかもしれません。実際に世間一般のボランティア活動に参加してみると、期待していたほどの純粋さがないことに気がつくはずです。

霊的真理や信仰をベースとしていないボランティア活動には、人間的問題が多く発生するようになります。それが純粋な思いで参加した人たちに、しばしば幻滅を与えることになります。しかしそうした苦い体験も、「利他愛の実践」をより深く理解するための良い教材と言えます。“反戦平和”であるとか“核兵器廃絶”といった政治的な性格の強いボランティアなどは、あまり勧められません。政治的働きかけは、しばしばスピリチュアリズムの霊的働きかけに反することがあるからです。スピリチュアリズムはどこまでも「霊的真理」によって“魂の革命”を引き起こし、世の中を変革しようとする運動です。)

犠牲を厭わない

参加しているボランティア活動が「本物の利他愛の実践」になっているかどうかは、自分が片手間ではなく、大切なものを犠牲にして奉仕に携わっているかどうかによって明らかにされます。多くの現代人がボランティア活動に参加するようになったのは喜ばしいことですが、それが自己犠牲を避けた片手間の行為であるとするなら、とても残念です。

世の中には、無理をしない身の丈に合ったボランティア活動をうたい文句にして参加者を募集しているところが多いのですが、そうしたあり方は、初めからボランティアの崇高な精神を捨て去っているということです。自分自身の満足や喜び、あるいは生きがいのためにボランティア活動を利用しているにすぎません。自己の満足を求めるボランティア活動は動機が不純であり、哀れな人々に対する傲慢な行為と言えます。それは自分を高みに置き、相手に対して上から臨んで満足を得るという“ニセの奉仕活動”なのです。

「相手は自分と同じ神の子供であり、霊的兄弟(姉妹)である」という真理に立った深い平等意識が存在していないところでは、奉仕活動は真の利他愛からは遠いものになってしまいます。恵まれない相手が自分の霊的兄弟であるとの思いがあれば、「自己犠牲」は当然のことであり、それを心から望むようになるものです。相手のために犠牲を払えることは、本当はとても嬉しいことなのです。そうした純粋な精神でボランティア活動・奉仕活動に携わったとき、本物の利他愛の実践と言えるのです。初めから自己犠牲を敬遠するところに、真の利他愛は存在しません。

人目につかないようにこっそりと

純粋な思いで利他愛の実践に携わるなら、心の底から清々しい喜びが湧いてくるようになります。「無私無欲で他人に尽くす」という行為それ自体が、霊的な深い喜びをもたらすのです。実はそれこそが、利他愛実践の醍醐味なのです。神と霊界の人々だけを意識し、人目につかないところで恵まれない人たちに手を差し伸べる行為が、本当の利他愛の実践です。世の中の人間に知られることなく、神と霊界の人々と一緒になって助けを必要とする人たちのために奉仕をするのは、何と素晴らしいことでしょうか。誰にも気づかれないところで、人間として最高に価値ある行為に励むのは、何と清々しいことでしょうか。そうした喜びを知れば、世間の人々からの賞賛や人気などは、実にくだらないものになってしまいます。

現在、行われている奉仕活動の多くは、人々の評価を気にし、自分たちがいかに立派なことをしているかを盛んに宣伝します。マスメディアに取り上げられることを期待して、派手なパフォーマンスに及ぶこともあります。そうした人々の賞賛を求めるあり方は、この世の富や利益を追求していることに他なりません。この世の富や利益を期待することは、その行為が利己的な動機から出たものであることを証明しています。不純な動機からの行為であることを示しています。

「人々の評価を求めず、誰にも気づかれないところで、相手のために誠心誠意を尽くす」――そうであってこそ本当の利他愛の実践・純粋な奉仕活動と言えるのです。世間の評価を気にしてはなりません。神と霊界の人々は、すべてを正しく判断してくれているのです。

時間とともに広がっていく利他愛実践のチャンス

「相手のため」という正しい動機から出発し、しかも純粋な姿勢で真剣に奉仕活動に携わるなら、時間とともに利他愛実践のチャンスは広がっていくようになります。なぜなら霊界では多くの霊たちが、人類のために犠牲を払って働こうとする地上人の登場を心待ちにしているからです。霊界の人々は、地上人を道具として用いて「もっともっと人類のために愛を実践したい!」と願っているのです。

そのため純粋な利他愛の持ち主の背後では、無数の霊界人が群がって働くようになります。そして時間とともに、さらに多くの奉仕のチャンスがもたらされるようになります。しかもその奉仕の内容は、より次元の高いものへと変化していくようになります。初めは小さな奉仕活動であったものが、時間の経過とともに人類全体を対象とした大きな奉仕活動へと発展していくようになるのです。

利他愛実践のチャンスが少ない、もっと奉仕のチャンスがほしいと思っていらっしゃる方は、今取り組んでいる奉仕活動に真剣に臨んでください。皆さん方の動機の純粋さと真剣さ、霊的真理の理解力に応じて今後、さらに大きな奉仕の機会が与えられるようになるはずです。

人を選り好みしない

もし皆さんが、恵まれない人々に直接手を差し伸べるボランティア活動に携わりたいと思うなら、自分の好みでない人に対しても平等に奉仕することができなければなりません。同情を寄せる相手に手を貸すのは容易なことですが、自分にとってイヤな人・好みでない人に親切にするのは実に難しいことです。しかし誰に対しても、同じように与えることができなければなりません。自分の気が向かない相手には与えないというのであれば、その奉仕は本当の利他愛とは言えなくなってしまいます。それは単なる自分の好みから出た行為であり、“霊的価値”は存在しません。

つまり、どのような奉仕をするのか、どのようなボランティアをするのかが重要ではなく、自分の好みでない人に対しても分け隔てなく与えることができるかどうかが問われるのです。「人を選り好みしない」という皆さん方の姿勢が重要となるのです。

以上のような観点からすると、この世の男女愛・夫婦愛・家族愛・親子愛のあり方には、よくよく注意しなければなりません。これらの愛の関係には、根底に本能的な利己性が潜んでいるからです。自分の子供、自分の家族に奉仕するだけでは、本当の利他愛とは言えません。

自分にとって大切なもの・価値あるものを犠牲にできるという場合においてのみ、子供や家族に尽くす行為の中に“霊的愛”が存在するようになります。そしてその“愛の絆”だけが、霊界まで持っていけるようになるのです。真の利他愛によって築かれた霊的絆がなければ、どれほど親密な夫婦愛・家族愛・親子愛であっても地上かぎりのものとなり、霊界では消滅してしまいます。

4)周りの人々の霊的成長を祈る

私たちは常に、周りの人々の「霊的成長(魂の成長)」を願っていなければなりません。老若男女を問わず、すべての人間が霊的成長をなすために地上に生まれてきました。霊的成長という最大の目的を達成して、地上人生を意義あるものにしてほしいという祈りは、まさしく利他愛の実践に他なりません。特に苦境に置かれている人たちに対しては、その苦しみを乗り越えてカルマを清算し、霊的成長の道を歩んでほしい、地上人生を無駄にしないでほしいと祈ってあげることです。

さて、ここで重要な注意点があります。それは同情心から手を差し伸べることは、必ずしも本当の愛とは言えないということです。困っている人に対して可能なかぎり手助けをしようとするのは善意の表れですが、その際、相手の「霊的成長」という深い世界に一歩踏み込んで考えてみる必要があります。霊的成長という地上人生の目的を考えたとき、同情心から安易に手を貸すことは、相手のためになるとは限りません。それどころか親切心・同情心が、相手の成長にとってマイナスになることもあるのです。

スピリチュアリズムの中で進められている“スピリチュアル・ヒーリング”では、肉体の病気が癒されることよりも「霊的自覚」が促されることを重視します。肉体の病気が治っても霊的自覚がもたらされなかったなら、そのヒーリングは失敗と見なされます。ここにスピリチュアリズムの姿勢が端的に示されています。「霊的救いを肉的救いよりも重視する」ということです。スピリチュアリズムは、より価値のあるもの、霊的なものを優先的に与えようとする救済プロジェクトなのです。

苦しみの体験が「霊的成長(魂の成長)」にとって不可欠な場合には、本人の責任においてそれを受け入れなければなりません。その体験を通して、真の幸福への道が開かれることになるのです。そうした「霊的事実」を知れば、本当の愛の示し方とは、ただ単に苦しむ相手に同情したり、安易に慰めの言葉をかけることではないことが分かります。それよりも苦しみには大きな意義があることを教え、耐えて苦しみを乗り越えられるように励ましてあげるべきです。試練に打ち克つことができるように祈ってあげるべきなのです。それこそが、相手に対する本当の愛です。真理に立った心からの「祈り」こそ、真に純粋な愛と言えるのです。

霊界の高級霊や守護霊は、苦しむ地上人を前にしたとき、本人の「霊的成長」のためにあえて心を鬼にして手を出さないようにします。私たちもその姿勢を見習わなければなりません。慰めの言葉をかけたり手助けをするよりも、何も言わず、何も手を貸さず、深い祈りの気持ちを持って見守り続けることの方が、摂理に適ったあり方となることもあるのです。

そうした本物の愛を身につけるためには、周りの人々を「霊的視野(因果律の観点)」から見ることが必要となります。ここに、地上のレベルを超越したスピリチュアリズムの厳しい姿勢があります。「霊的視野に立って相手を眺め、霊的成長を祈る」――これこそが、まさに真実の利他愛の実践なのです。

5)周りの人々に対して「霊的真理」との出会いを祈る

地上人は大きく、霊的真理を受け入れられるレベルに至っている人間と、いまだ真理を受け入れられるレベルに至っていない人間に分けることができます。時至らず、霊的真理を受け入れられない人に対しては、どのように愛を示すべきでしょうか。日常生活において私たちが出会う大半の人々は、こうした人間です。幸いにして私たちは、一足先に真理を受け入れることができましたが、その事実は、私たちが先に周りの人々を愛する立場に立っているということを意味しています。

そうした私たちにとって正しい愛の示し方とは、どのようなものなのでしょうか。それはまず、周りの人々に対して「霊的真理」との出会いの時がくることを祈ってあげることです。一刻も早く真理を受け入れられる時がきて、霊的人生を歩めるようになってほしいと願ってあげることです。そうした祈りの中には、物質的な援助とは比べものにならない深くて大きな愛が含まれているのです。

地上人が本当の幸せに至ることを願う高級霊や守護霊は、「霊的真理」をもたらすために献身的な働きかけをしてきました。私たちが「一人でも多くの人が霊的真理と出会えるように」と祈るなら、霊界の人々と思いを共有していることになります。高級霊と同じ視点に立って、本当の愛を実践していることになるのです。それはスピリチュアリストであってこそ可能となる、最高次元の利他愛の実践と言えます。「霊的真理」に立った深い祈りは、真実の利他愛の実践そのものなのです。

6)時期のきた人々に「霊的真理」を伝える(霊的真理の普及活動)

この世かぎりの一時的な救いや物質的な幸福ではなく、永遠的な救いや幸福を与えることができるとするなら、それは最も価値ある利他愛の行為となります。普遍的な叡智・霊的真理を教えてあげることは相手の“霊的救い”につながり、「霊的成長」に直結する最高の利他的行為と言えます。霊的な幸福は、物質的な幸福とは比較になりません。地球人類の幸せを願うならば、最終的には「霊的真理」を伝えなければならないことになります。

スピリチュアリズムは、地球上の全人類を救済しようとする霊界主導の利他愛のプロジェクトです。私たちスピリチュアリストは、高級霊の地上の道具として、人類全体を対象として利他愛を実践しているのです。「スピリチュアリズムの大計画」は、霊的真理を地上人類にもたらすことによって進められます。したがって私たちが、一人でも多くの時期のきた人に真理を伝えたいと願い、そのために働き続けるならば「最大多数の人々への最大の奉仕」が実現することになります。見返りを一切期待しないところでの「霊的真理の伝道」は、全人類に対する最高の利他愛の実践となるのです。霊的真理の普及活動(伝道)については、次の4章「霊的人生を送るための実践項目〈3〉」で詳しく取り上げます。)

7)子供を正しく育てる(霊性教育)

親として子供を育てることも、神が与えた利他愛実践のチャンスです。親は育児を通して「霊的成長」がもたらされるようになっています。育児は、人間としての重要な利他愛の営みの一つなのです。伝道は他人に霊的真理を伝え霊的成長の道へと導くことですが、自分の子供に真理を教え霊的人生を歩ませようとすることも伝道の一部と言えます。

しかも親子という決して断ち切ることのできない関係をベースにした伝道には、逃げることを許されない厳しさが付きまといます。それゆえ未熟な親も、育児・教育を通して人間的に成長することになるのです。これについては9章の「霊性教育について(スピリチュアリズムの育児・教育論)」で詳しく説明します。)

8)他の生命体を慈しみ愛する(動植物への利他愛の実践)

ここまで利他愛の対象を人間に限定して述べてきましたが、実はスピリチュアリズムでは“愛の対象”を人間だけでなく、動物や植物といった他の生命体にまで広げて考えます。人間は地球上で最も霊的に進化した存在です。そして他の生命体にはない高度な知性を持っています。これによって人間は、他の生命体に対して上から臨むことのできる立場に立つようになりました。その事実は――「人間には、霊的進化の道の先輩として他の生命体を愛し慈しみ、ともに進化・発展する環境をつくっていく使命が与えられている」ということを意味しています。人間には「愛によって他の生命体の進化を促す」という役割が、神から与えられているのです。

しかしこれまで人類は、そうした神の深い叡智からの計画に応えることなく「肉主霊従」の状態に陥り、知性を間違った方向に用いて動物や植物を不当に支配し、虐待してきました。人間は、神から生命を付与された動植物を、まるで自分たちの所有物であるかのように冷酷・非道に扱ってきました。そして“エゴの極み”とも言うべき蛮行を、今も続けているのです。

なぜ、動物や植物に対する虐待は許されないのか?――それは進化の頂点にある者としての「利他愛実践の使命」に反するからであり、「神の利他性の摂理」に背くことだからです。「愛がない」ということは“罪”なのです。現在では、目を覆いたくなるような動植物への虐待が当たり前に行われています。それほど地球人類の霊性は低く、エゴに支配されているということなのです。

イエスの時代には、まだ動物や植物に対する利他愛を主張するところまで人間の霊性は高まっていませんでした。そのためイエスは、他の生命体に対する利他愛について言及することはありませんでした。しかしその後、永い時が経過し、地球人類の霊性も徐々に向上してきました。21世紀の現代に生きる私たちには、2千年前の人々と比べ、より進んだ人間としてのあり方が要求されるようになっているのです。

人間のエゴ的な経済活動は、動植物界や自然環境を破壊してきました。その結果、心ある人々は、このまま行けば人類は将来、破滅してしまうかもしれないとの危機感を抱くようになりました。現在、人類が直面している環境問題のすべての原因は、人間の「利己性」の問題に行き着きます。動植物に対して利他愛を実践しないかぎり、人間自身が存在することさえ危ぶまれるような状況に立たされることになります。今や地球人類は、人間だけでなく動植物や自然界に対しても「利他愛」を施す時代に入っているのです。「霊的真理」を真っ先に手にしたスピリチュアリストは、人類の先頭を切って動植物や自然界への利他愛を実践していかなければなりません。