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(3)苦しみ・困難への正しい対処

地上人生における、さまざまな苦しみ・困難について見てきました。地上で肉体を持って生きていく以上、苦しみ・困難は避けられません。すべての苦しみ・困難を取り除くことは不可能です。それは神が物質世界を、苦しみを体験する場所として造られたからです。地上人にとって苦しみとの遭遇は、ある意味で宿命と言えます。問題は、苦しみに直面したときに私たち地上人がどのような態度をとるのか、ということです。

苦しみ・困難に正しく対処することができれば、それを通して「霊的成長」という最高の霊的宝を手にすることができるようになります。反対に間違った対処をすれば、霊的成長どころか、自分自身の魂を貶めることになってしまいます。そこで「霊的真理」を活用した正しい対処が必要となるのです。

『シルバーバーチの霊訓』の中に、次のような言葉があります。

――場合によっては、苦しみの体験が性格をいじけさせることもあります。

「それは、その体験が魂の本性を引き出すまでに至らなかったということです。それまでに顕現していた側面が、苦難の体験後もまだ真実の自我とはなっていないということです。実在がまだ顔を出していないのです。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)  p.51

――残念なことなのですが、苦難に遭うと不幸だと思い、邪険になり、卑屈になっていく人が多いようです。

「それは結局のところ、その人の人生に確固とした土台がないからです。人生観、宗教観、それに物の観方が確固とした知識を基盤としておれば、いかなる逆境の嵐が吹きまくっても動じることはないはずです。これも人生の一こまだ、すべてではなくホンの一部にすぎないのだという認識ができるからです。」

『シルバーバーチの霊訓(8)』(潮文社)  p.141

世の中の人々は、苦難に遭遇すると絶望したり、不平をこぼしたり、他人にすがろうとします。占い師や霊能者に頼ろうとする人もいます。しかしスピリチュアリストは、そうであってはなりません。

ここでは「霊的真理」に基づく苦難への正しい対処について学んでいきます。

1)霊主肉従の闘いによる苦しみ・困難への正しい対処

「霊主肉従の闘い」による苦しみは貴重なもの

霊主肉従の闘いによって生じる苦しみは、霊的成長を求める人だけが持つものです。肉体本能の欲求に翻弄されて生きている者には、霊優位のための努力も、それにともなう苦しみもありません。

その意味で霊主肉従の闘いによる苦しみは、「霊的成長」の道を歩んでいることの証と言えます。霊優位の努力にともなう苦しみを体験するということは、まさにその人が有意義な“霊的人生”を歩んでいることを示しています。霊性の高まりとともに地上人は、「霊主肉従の闘い」による内面的な苦しみを体験するようになるのです。

「肉主霊従」を克服するためには、霊的エネルギーの取り入れが必要

内面的な苦しみの多くは“霊的エネルギー”の欠乏から生じます。霊的エネルギーが枯渇すると、心が「肉主霊従」の状態から抜け出せなくなり、苦しみを引きずることになります。

それを乗り越えるには、霊的エネルギーを取り入れるための「霊的闘い」が不可欠です。時には、自らを禁欲的方向に押し出すようなことも必要となります。「霊優位」のための努力の具体的な内容、あるいはそのための闘いの方法は、2章の「霊的人生を送るための実践項目〈1〉――霊優位の努力」の中で説明しています。それを読み返して確認してください。)

霊的闘いを避けるのではなく、堂々と闘って敗北する道を選択すべき

清らかな霊的世界を求める者にとって、地上人生は辛く厳しいものとなりますが、それゆえにこそ地上に生まれたことの意義があるのです。地上人生がどんなに苦しくても、私たちには“霊界”という厳然たる希望が控えています。

地上人生における苦しみは「霊的成長」という永遠のプロセスの一コマであり、その背後には「神の愛」があることを忘れてはなりません。理想を目指して努力すること、一歩でも理想に近づくために闘うことが大切なのです。初めから闘いを避けて逃げるのではなく、たとえ敗北することになったとしても、堂々と闘う道を選択すべきです。霊界の人々は、結果よりも闘いのプロセスを重視しているのです。

失敗にめげずに闘い続けることが大切

何度失敗しても立ち上がり、闘い続けることが大切です。少しでも霊優位の状態をつくれるように、努力し続けるのです。「物質中心主義」と「利己主義(本能主義)」に支配された21世紀の地球上においては、完全な霊優位の状態を維持することは至難の業です。濁りきった霊気の中で清らかさを保ち続けることは困難を極めます。

遠い将来、スピリチュアリズムが地球上に普及し、人類全体の中から動物性(本能主義)が後退するようになれば「霊優位の努力」は今よりずっと容易になり、身を清らかに保ちやすくなります。

皆さんは次の再生人生を、現在よりはるかに霊的に高まった地球上で過ごすことになるかもしれません。しかし今は、霊界に行けばいっさいの苦しみから解放されることを希望として、ひたすらがんばり通さなければなりません。霊優位の闘いに負けた回数が問題ではなく、清らかさを求めて闘った努力そのものが大切なのです。諦めずに闘った回数、チャレンジし続けた回数が、死後にまで持っていける“霊的宝”となるのです。

「肉体本能」の欲求自体は、罪でも悪でもない

霊主肉従の闘い(霊優位の闘い)にともなう苦しみは、霊的成長を心がける人間には必ず付いてまわりますが、そこには一つの重要な問題があります。「霊主肉従の闘い」――すなわち霊と肉との闘いは、地上人には「肉体本能」との直接的な闘いとして実感されます。このため従来の宗教では、肉体本能を罪や悪の実体として位置づけするようになりました。熱心な信仰者は、肉体本能の欲求、特に“性欲(肉欲)”を悪魔の仕業・悪魔の誘惑と見なし、肉体本能を抑制すること(禁欲)が悪との闘いであると考えてきました。

しかし「肉体本能」は神によって与えられたものであり、決して悪いものではありません。「利己性」がともなってはいても、罪そのものではありません。また性欲が起こったからといって、サタンが誘惑しているわけではないのです。

地上人は“肉体”という重くうっとうしい鎧(よろい)を身にまとって生きていかなければなりませんが、それが“善”を求める意志の力を強化し、「霊的成長」を効果的に促すことになります。地上世界が困難な環境として造られているのは、人間の魂をより早く成長させたいと願う、神の愛からの配慮なのです。まさに「かわいい子には旅をさせよ、若いうちに苦労をさせよ」との親心と言えます。肉体本能をコントロールするための闘いによって生じる苦しみを、従来の宗教のように罪や悪と結びつけて考えてはなりません。深刻な罪意識にとらわれてはなりません。

2)利己愛との闘いによる苦しみ・困難への正しい対処

利己愛に関する苦しみは、霊的成長を求めて努力する人間、利他愛を持ちたいと願う人間だけが味わうことになる高次元の苦しみです。利他愛を目指さない人間、利己愛に何の疑問も抱かない人間は、そうした苦しみを持つことはありません。「利己愛との闘い」による苦しみは、霊性が高まるにともない発生するようになる苦しみなのです。

自分自身を高めないかぎり、愛の問題は解決しない

利己愛に支配された人間社会の中で心を乱さずに生きるためには、周りの人間が利己的な態度をとっても、またどんなに相手の人格が劣っていても、それを「霊的視点」から眺め下ろして、哀れみを感じるほどの高い心境を持つことが必要となります。相手を広い心で包むことができないかぎり、地上の人間関係の中で発生する問題を克服することはできません。

私たちは自分に徹底した“利他愛の訓練”を課すために、現在の地球に再生してきたのです。私たちスピリチュアリストは、利己愛が支配する世界にあってもそれに染まることなく、利他愛を実践していかなければなりません。気に食わない人間を愛し、敵をも愛する「真の利他愛の実践者」となることが求められているのです。愛に関する地上世界の問題は、自らの心を高めないかぎり、決して解決することはできません。

ひたすら「利他愛の実践」に専念することが、愛に関する苦しみの解決法となる

「徹底した利他愛の実践を心がけること」――それが“愛”に関する苦しみや困難を乗り越えるための正しいあり方であり、摂理に一致した対処法と言えます。「利己愛」に支配された人間社会の中でそれに負けないためには、自分を利他愛の実践に押し出していくことです。周りの人間からエゴを取り除こうとしたり、力ずくで相手の利己性を押さえ込もうとするのではなく、“敵をも愛する”という利他愛の理想に向けて、自ら積極的に踏み出すことなのです。

そうした努力を通して徐々に、心に巣くう利己心が取り除かれ、利己愛だらけの環境の中にあっても正しい姿勢を貫くことができるようになります。他人の利己愛に巻き込まれることなく、自分の理想に従って生きることができるようになるのです。利己愛との闘いによる苦しみ・困難への正しい対処法については、3章の「霊的人生を送るための実践項目〈2〉――利他愛の実践」の中で詳しく述べていますので、それを読み返してください。)

“寂しさ・孤独”という利己愛の苦しみ

利己愛という間違った愛は、対人関係に多くの困難やトラブルを発生させるばかりでなく、本人自身の心に深い苦しみをもたらすことになります。現代人の多くが、寂しさ・孤独の中で辛く苦しい日々を過ごしています。

霊的エネルギーが欠乏すると、心は「肉主霊従」という利己性の方向に傾き、寂しさが生じるようになります。霊的エネルギーが枯渇すると、心は寂しさや虚しさを感じるようになるのです。これは「霊」の自然な反応であり、肉体の水分が不足すると喉が渇くのと同じことです。霊界では、本人が望めば必要な霊的エネルギーがすぐに補給されるようになっています。そのため“地縛霊”を除いて、地上人のように寂しさや孤独感にとらわれることはありません。

地上世界は、さまざまな苦しみの体験を積む所です。寂しさ・孤独は地上ならではの苦しみであり、正しく対処すれば「霊的成長(魂の成長)」のためのチャンスとして活用することができます。考え方によっては、その苦しみは地上人の霊的成長のために必要なものと言えるかもしれません。霊的真理を知って“霊的人生”を歩み出したからといって、すぐに寂しさや孤独感が消え去るわけではありません。それどころか霊的人生を歩み出したがゆえに、いっそう孤独感を味わうような事態に陥ることもあります。霊的に敏感になった分だけ、それまでにはなかったデリケートな感性が芽生えるからですこれも一種の「霊的成長」と言えます)

寂しさ・孤独という苦しみは、「もっと愛がほしい、霊的エネルギーがほしい」という魂の叫び声です。同時にその苦しみは――「心の持ち方が霊的真理からずれている、利己的な方向に傾いている、早く霊的エネルギーを補充して修正しなさい」という、霊的法則による“警告”とも言えます。

寂しさ・孤独は、人間にとっての大きな弱点

一般的に情(愛)の力は、知の力に勝ります。頭では正しいと分かっていても、心がその通りに動かないのは、情が知よりも強いからです。したがって霊的人生を歩もうとする人間にとっては、寂しさ・孤独という情的な苦しみの克服は“信仰の生命線”とも言えるほど重要な意味を持つことになります。

霊的真理を知らない人々は、酒や娯楽・スポーツ・旅行・おしゃべり・恋愛・SEX・ドラッグなどで寂しさを紛らわせようとします。多くの日本人が一日中、携帯電話を手放せなくなっています。そうして寂しさを忘れ、孤独から逃れようとしています。それほど寂しさ・孤独は、人間にとって辛く苦しいものなのです。

残念なことにスピリチュアリストの中にも、寂しさ・孤独に負け、物質的快楽を満たす方向に道を外れ、大きなカルマ(霊的負債)をつくってしまっている人が見られます。霊的真理が“霊的武器”としての機能を、全く果たせなくなっているのです。

霊的エネルギーを補充することの大切さ

私たち地上人は肉体を持っているため、瞬間的に寂しさや虚しさを感じるようなことがあったとしてもやむをえません。それは“肉体”という物質に包まれて生きている地上人の宿命とも言えます。しかし「霊的真理」を手にしたスピリチュアリストは、寂しさや虚しさに正しく対処することによって、それを「霊的成長」のチャンスとすることができるのです。真理を知っているのに、もし間違った対処をするなら寂しさや虚しさを募らせ、苦しみを増幅させることになってしまいます。

寂しさ・孤独に対する正しい対処法とは、どのようなものなのでしょうか。すぐに陥ってしまう人間の弱点を、どうしたら克服することができるのでしょうか。

寂しさ・孤独は、“霊的エネルギー”の枯渇にともなう心のアンバランスから生じるものである以上、物質的・肉欲的手段でそれを癒すことはできません。霊的手段を講じて霊的エネルギーを補充しないかぎり、根本的な解決はできません。霊的エネルギーの補充こそ、寂しさ・孤独を克服するための基本的な方法なのです。霊的エネルギーを取り入れるためには、霊的真理を集中して読んだり、徹底して祈るといった努力が必要となります。

神と守護霊の愛を思い出すことが、寂しさ・孤独への最高の対処法

寂しさ・孤独を克服する一番の方法は、神と守護霊の愛を思い出すことです。次のような言葉で、神と守護霊に愛されている事実を確認しましょう。

「神は、宇宙よりも大きな愛で、私を愛してくれている。神の愛は、地上のいかなる人間の愛よりも深くて大きい。その神の愛は、守護霊を通じて私に注がれている。守護霊は、私という一人の人間を、神の愛で包んでくれている。守護霊は、私の背後にいて一生の間、ずっと付き添ってくれる。

私の長所も短所もすべて知り尽くしている守護霊は、私が霊的成長をして幸福になるためだけに、ひたすら心を砕き、心配し、導いてくれている。守護霊の愛は、地上の親や配偶者や恋人の愛もはるかに及ばない“完全な利他的愛”である。その愛で、今この時も、そして将来も、愛し続けてくれる。だから私は、決して独りぼっちではない。それどころか常に、身に余るほどの深い愛に包まれている。」

誰もが常に、神と守護霊に愛されている事実を思い出しましょう。そしてその事実を、何度も何度も強く自分に言い聞かせましょう。神と守護霊の愛を少しでも実感的にとらえることができるなら、その瞬間に寂しさや孤独感は消え去ってしまいます。

「寂しく思っていたのは間違いだった。寂しく思う必要など何もなかった。ただ、自分が大きな愛で愛されていることを忘れていたにすぎなかった。もう地上の人間から愛されても愛されなくても、どちらでもいい」と思えるようになることでしょう。そして周りの人間に一方的に愛を要求することがなくなり、不満が消え、寂しさ・孤独から解放されるようになります。

神と守護霊の愛を思い出して寂しさを克服できる人間は、“霊的自立”を果していると言えます。“霊的自立”とは――「神の愛を心の支え・拠りどころとして、自分自身を確立すること」です。それとは反対に、絶えず人間にすがり、人間の愛を拠りどころとして心を満たそうとする者は、霊的に未熟な人間、霊的に子供のままの人間なのです。不完全な人間に対して絶対的な愛を要求するかぎり、常に不満足な結果しか得られず、苦しみが付いてまわることになります。

愛の苦しみを克服するためには、自分自身が成長して霊的自立をし、神の愛を拠りどころとして生きていくことができるようにならなければなりません。

“嫉妬”という利己愛の苦しみ

寂しさ・孤独と同様、嫉妬(ジェラシー)も多くの苦しみをもたらします。“嫉妬”は、寂しさ・孤独と同じく「利己愛」が生み出す苦しみの代表格と言えます。霊的真理を知った者が真剣に人を愛する努力を始めると、必ず直面するのがこの嫉妬の問題です。利他愛で他人を愛することの重要性を知りつつも、嫉妬という利己愛・醜い感情が、いつの間にか心を支配するようになります。男女間だけでなく、ありとあらゆる人間関係の中に嫉妬が入り込んできます。

そうした自分自身の実態に直面すると、完全な利他愛を持つことがいかに難しいかを実感するようになります。「純粋な愛の持ち主になりたい」と思っていても、嫉妬という醜い利己的感情が、すぐに頭をもたげてきます。そして「もっと深く人を愛したい」という希望を打ち砕いてしまいます。“嫉妬”は、地上の人間にとっての大きな弱点であり、乗り越えがたい醜さなのです。

霊的エネルギー不足から“嫉妬”が発生

嫉妬は、「他人より自分は愛されていない、他人よりもっと愛がほしい」という愛にまつわる不満・欠乏感に由来します。言い換えれば“嫉妬”は――「愛に対する利己的な独占欲から発生する」ということです。嫉妬に苦しみがともなうのは、霊的摂理からずれた利己性が支配しているからです。

私たち地上人は、霊界人と違って肉体を持っているため、神の愛をストレートに実感することができません。一方、霊界人は霊的エネルギーを直接取り入れることができるため、常に神の存在と神の愛を実感できるようになっています。神の愛でいつも心が満たされ、完全に満足できるようになっています。そのため“他人の愛を独占したい”といった利己的な思いが湧くことはありません。霊界では、誰もが神を実感し、神の愛に包まれ、満足しています。それゆえ霊界では、嫉妬を持つような者は存在しないのです。

それに対して地上人の場合は、霊界人のように“霊的エネルギー(神の愛)”で常に心が満たされているわけではありません。それどころか大半の人々は霊的エネルギーを枯渇させ、“愛の欲求不満状態”に陥っています。神に向けて愛を求めることを知らない者は、必然的に周りの人間に愛を求めるようになります。「もっともっと多く愛されたい、もっともっと愛がほしい」という欲求が湧いてくるようになります。

愛には、何にもまして大きな刺激的な喜びがともなうようになっているため、人は自分に与えられる愛の多寡について、きわめて敏感になるのです。それが“嫉妬”という複雑な問題を発生させることになります。

「利他愛の実践」を徹底する中で、嫉妬は克服される

醜いと知りつつも、なかなか克服することができない“嫉妬”は、清らかさを求める人間に多くの苦しみをもたらすことになります。嫉妬の感情をそのままにしておくと、さらに自分自身を醜くすることになります。誰もがイヤだと思いながら、その醜い感情をなかなか拭い去ることができません。多くの人々が嫉妬との闘いに疲れ果て、絶望状態に陥っています。

しかし、この問題には希望があります。先に述べたように「霊界には嫉妬は存在しない」という現実があるからです。霊界人には、地上人にしつこく付きまとう醜い感情(嫉妬)はありません。その事実は、嫉妬が「肉体本能」から発生するものであることを示しています。今、地上で嫉妬の思いを拭い去ることができずに苦しんでいる人も、霊界ではきれいさっぱりとなくなってしまいます。したがって「純粋な愛の持ち主になりたい!」と切望する者にとって、死後に待ち受ける霊界での生活は、福音以外の何ものでもありません。

地上で生きている以上、何はともあれ「利他愛の実践」に専念することです。「与えることは義務である」という利他愛の原則に徹することによって“霊的エネルギー”が取り入れられるようになり、嫉妬の思いが小さくなっていきます。

霊界では、誰もが愛を与えることを優先し、先に愛されたいと思う者はいません。霊界では、受けることよりも与えることが大切であって、それが常識となっています。自分が先に与えずに、一方的に受ける立場に立つとするなら、苦痛を感じるようになることを知っているのです。自分のことを後回しにして、先に愛を与えてこそ“霊的エネルギー”に満たされ、喜びがもたらされるようになるのです。それゆえ霊界には、地上のような嫉妬は存在しません。

私たち地上人は肉体を持っているため、霊界人のようにはいきませんが、霊界人の生き方を手本とすべきです。そして絶えず次のように自分自身に語りかけ、心を高めるのです。

「自分の為すべきことは、ただ与えることだけである。相手から与えられること、愛されることを期待するのはやめよう。人から良く思われようと悪く思われようと、どちらでもいい。人を愛すること、先に与えることだけで、心と意欲を満たしてしまおう。愛されたいという思いや期待を、完全になくしてしまおう。自分の務めは与えることであって、人から愛されることではない。」

嫉妬の克服はまさに、地上における魂の修行内容の一つです。“愛の訓練”の最たるものと言えます。嫉妬を拭い去るのは実に難しい課題ですが、決して克服できないことではありません。「利他愛の実践」に徹する中で、徐々に克服することができるようになっていきます。常に霊的真理を読んで視野を広げ、絶えず祈って霊的エネルギーで心を満たすようにすれば、利己愛から発する“嫉妬”という醜い感情は確実に小さくなっていきます。

「神の愛」を思い出すことは、嫉妬を克服するための効果的な方法

嫉妬を乗り越えるためのもう一つの良い方法は――「神と守護霊から愛されている事実を思い出す」ということです。地上人はとかく、神から愛されているという最大の事実を忘れているために寂しさや孤独感が募り、嫉妬の思いが湧き上がってくるようになります。嫉妬を乗り越えるためにはまず、神と守護霊に愛されている事実を思い出すことです。これが嫉妬を克服するための効果的な方法です。

嫉妬の思いにとらわれたときには、今、神と守護霊から最高の愛で愛されていることを思い出すのです。そして「与えることだけが自分の務めであって、周りの人から愛されていようがいまいがどちらでもいい」と、自分に言い聞かせることが必要です。

3)カルマによる苦しみ・困難への正しい対処

地上世界に住んでいる多くの人間は、程度の差こそあれ前世でつくり出した「カルマ」を抱えています。また、今の地上人生においても、常に何らかの「カルマ」をつくり出しています。そうしたカルマが、摂理の働きによって地上人生のある時に、苦しみや困難を発生させるようになるのです。

ここでは「カルマ」によって発生する苦しみについては、どのように対処すべきかを見ていきます。

すべては“自業自得”

「因果の法則に基づいて発生する悪い結果は、すべて本人の責任であり、そのツケ(悪い結果)は本人自身が負わなければならない」――これが「自己責任の法則」です。自分が直面している苦しみは、これまでの人生(前世・今の地上人生)において自らがつくった悪い原因による結果です。自分がつくった原因から、苦しみを味わうような結果が生じているのです。その意味で、地上人生で体験する苦しみは“自業自得”ということになります。そしてその苦しみは「霊的成長の道」をリセットしてくれる、ありがたいものでもあるのです。

今の地上人生だけがすべてであると考える人間には、「前世のカルマ」による苦しみは、一方的に降りかかってくるいわれのない不幸のように思われます。“神の造った世界は、何と不公平・不平等な所なのか”ということになってしまいます。実際に多くの人々はそのように考え、自らの不遇を嘆き、神の無力さに絶望し、神を呪っています。生まれ育った環境や周りの人間が悪かったために、自分に不当な苦しみが与えられたと思っているのです。

しかし、あらゆる苦しみは自分が招いた必然的な結果であり、摂理からずれた行為のツケなのです。そこには、不公平・不平等は一切ありません。誰の責任でもなく、すべて自分自身の責任なのです。「霊的真理」を手にしたスピリチュアリストは、自分の身に降りかかってくる苦難に対して、こうした考え方をすべきです。それが苦しみに対する対処法の基本と言えます。

「カルマ」による苦しみ・困難は、神の罰ではない

信仰心の篤い人間は、悪いことが生じるのは神が罰を与えたからだと考え、恐れを抱きがちです。しかし遭遇する苦しみや不幸は、自分自身がつくり出したものであって、神の罰ではありません。生まれつきの身体の障害も、そのほとんどが前世のカルマが原因となっています。

まず、“神の罰(ばち)”といったこれまでの宗教の間違った教えを、頭の中からすっぱりと拭い去ってください。神や悪魔(サタン)が、人間に罰を与えるというようなことは決してありません。

「前世のカルマ」による苦しみ・困難の特徴

カルマによる苦難の特徴は――「人間として考えられる、ありとあらゆる回避のための努力をしても必ず生じるようになる」ということです。生まれつきの身体の障害、不慮の事故、治療法のない難病、突然の倒産や経済破綻、すぐには解決しがたい大きなトラブルなどは、「前世のカルマ」によって引き起こされていることが多いのです。どうしても避けられない、手の打ちようがない形で一方的に迫ってくる困難やトラブルの多くが、前世のカルマに関係しています。

一方、現在の人生における間違った生き方・行為によって「カルマ」が生じ、それが苦しみや困難を引き起こすこともあります。この場合は、本人が自分の生き方の間違いに気づいて改めることでカルマが清算され、苦しみは短期間で消滅することになります。今の地上人生の間に苦難が発生するのは、むしろ“ありがたいこと”なのです。大きなカルマの場合は、死後や再生人生にまで、時には再再生人生にまで持ち越されることも珍しくありません。そしてそのカルマを償うために、苦しい道を長い時をかけてたどることになるのです。

苦しみを甘受する・苦しみをありがたいものとして受け止める

どのような苦しみであれ、それは必ず何らかの原因(カルマ)から発生しています。苦しみを引き起こすカルマは、すべて自分自身がつくり出したものであり、責任は本人にあります。カルマによる苦しみは、それを正しく理解して甘受することです。その苦しみを前向きに受け止め乗り越えようと努力するなら、結果的に償いがなされ、より高い世界を目指す準備が整えられることになります。この意味でカルマによる苦難は、「霊的成長」のための一つのプロセスと言えます。

これは、どのような苦難であれ、“ありがたいもの”として受け止めるべきであるということを教えています。「苦しみを甘受する」――こうしたあり方こそが、苦難への正しい対処法なのです。苦しみを甘受するためには、常に「霊的真理」に立って物事を眺めなければなりません。すなわち、「霊的視野」からの広い心・楽天的な心を持ち続ける努力が必要となります。そうした努力を通して初めて、「前世のカルマ」による苦しみを喜んで受け入れ、耐えて乗り越えることができるようになるのです。

「前世のカルマ」について知る必要はない

ここで一つ注意すべき点があります。それは今の苦しみが「前世のカルマ」に起因しているとしても、そのカルマが具体的にいかなるものであるのか知る必要はない、ということです。前世の自分はどのような生活を送っていたのか、どのような人物であったのかということについては、一切知る必要はありません。

しかし実際には、多くの人々が自分の前世を知ろうとします。テレビの心霊番組や心霊書の類によって、前世が簡単に分かるかのような印象を持ってしまった人々が、前世を知りたいと考えるのです。何も知らない人間が、軽々しい好奇心に動かされるのです。テレビや心霊書などで語られる前世の指摘は、すべてインチキです。こうした番組や書籍に出てくる自称霊能者やスピリチュアル・カウンセラーは、典型的なペテン霊能者です。)

スピリチュアリズムが明らかにした前世についての霊的事実は――「神の配慮によって、地上人は前世を知ることができないようになっている」ということです。神の深い配慮によって前世が分からないようになっているのは、「カルマ清算」のためにはその方が都合がいいからです。自分が前世においていかなる人物であって、どのような悪事を働いたかが隠されているために、再生人生で余分な意識にとらわれずに歩むことができるのです。

それなのにニセ霊能者・ペテン霊能者は、わざわざ“ニセの前世”を指摘し、無知な人々を有頂天にさせるような馬鹿げたことをしています。そうしたニセ霊能者は頭から相手にせず、前世などに関心を向けないようにすべきです。ペテン師に騙されるのは、本人がその程度の人間であるとも言えますが……

今の皆さん方の人間性のすべて、人格や霊性や信仰心などのトータルが、前世を含めたこれまでの人生でつくり上げた自分自身の姿であるということです。現在の自分を見れば、前世はどの程度の人間であったのかが分かるはずです。「カルマ」による苦しみを体験するということは、前世でそれに相当する悪事を働いてきたからです。摂理に反する行為・利己的な行為をしてきたということであり、今回の地上人生はその「カルマ」を償うためにあるのです。これ以上の内容について、あれこれ詮索する必要はありません。

4)霊的無知による無益な苦しみ・悲劇への正しい対処

シルバーバーチは次のように言っています。

「同じく苦しむのでも、地上には無用の苦しみが多すぎるという事実を指摘したいのです。みずから背負い込んでいる苦しみ、みずから好んで無知と愚かさの道を選んだために引き起こしている苦しみ、偏見が生み出している苦しみ、迷信に捉われているために生じている苦しみ――私が取り除きたいのは、そうした無くもがなの苦しみです。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)  p.50〜51

「霊的真理の普及」こそが、無益な苦しみを追放する最高の手段

現在の地球人類が被っている無益な苦しみ・悲劇は、そのほとんどが「霊的無知」に起因しています。したがって無益な苦しみ・悲劇をなくすためには、「正しい霊的知識の普及」が根本的な対策となります。地球人類の霊的無知を解決するためには、「霊的真理の普及」が何よりも重要なことなのです。“スピリチュアリズム”はまさに、その目的のために展開されている人類救済運動です。地球人類の霊的無知を解消し、地球上に蔓延している無益な苦しみ・悲劇を追放しようとする霊界主導の大プロジェクトなのです。

真っ先に「霊的真理」を手にしたスピリチュアリストには、霊界の人々の道具としてスピリチュアリズムのために働くことが求められています。私たちスピリチュアリストは、地球人類の「霊的無知」を解決し、人々を救済するための戦いに参加する使命を担っています。霊的真理の普及活動(真理の伝道)は、そのためにあるのです。こうした問題については、4章の「霊的人生を送るための実践項目〈3〉――霊的真理の普及活動(伝道)」で詳しく述べています。)

スピリチュアリストが、まず自らの無益な苦しみを追放

ここで確認しておかなければならない、重要な内容があります。それは地球人類の中で真っ先に霊的真理を手にしたスピリチュアリスト自身が、「霊的無知」を真に克服したと言える生き方をしているかどうかということです。真理という「霊的無知」を乗り越えるための手段を与えられ“救いの道”に導かれたスピリチュアリストが、依然として真理を知らないこの世の人々と同じような生き方をしているとするなら大問題です。霊的真理を知ったスピリチュアリストには、すでに大きな責任が課せられているのです。“救いの道”が示されているのにそれを無視するなら、何も知らない人よりも大きな責任が問われることになります。高級霊が繰り返し述べているように、「知識には責任がともなう」ということなのです。

霊的真理を手にしたスピリチュアリストが、この世の富や名声、地位や職業といったどうでもいいことに心を奪われてはなりません。霊的に全く価値のないものに執着し、無益な苦しみや取り越し苦労を抱えているようなことがあってはなりません。それはスピリチュアリストの立場を自ら捨て去っているということであり、実に愚かなあり方です。愛する人との死別をいつまでも悲しむようなことも、スピリチュアリストとしては失格です。自分自身の死を恐れることも、また将来について心配し思い悩むことも、無益な苦しみに他なりません。

「神の摂理」に忠実な歩みをしているかぎり決定的に困った事態に陥ることはない、という高級霊の言葉を信じるべきです。「霊的真理」にそった歩みを心がけるなら、霊的成長にとってマイナスとなるようなことは何ひとつ生じません。真理を知ったスピリチュアリストは、この世の人々に、無益な苦しみとは無縁の生き方を示す立場・良き見本を示す立場に立っているのです。

自分自身に非がないのに苦しみが与えられた場合には、「埋め合わせの摂理」が働く

21世紀の地球上には、自分自身には直接的な原因がないにもかかわらず、地獄のような苦しみに遭遇している哀れな人々が大勢います。今回が最初の物質世界への誕生であるにもかかわらず(*当然「前世のカルマ」はありません)、地球人類のエゴがつくり出した貧困や飢餓に苦しみ、戦争によって生命を奪われるような人々がいます。

こうした地球人類全体の「霊的無知」と「利己主義」が生み出した“悲劇”の中に置かれた人々は、実に不幸な人間・気の毒な人間としか言いようがありません。苦しみを与えた加害者が罰を受けて苦しむのは当然ですが、自分には非がないのに被害者となって大きな苦しみを味わうようなことは、本当に哀れです。どう考えてみても“不公平・不平等”であるとの印象を拭いきれません。

しかし神の造られた世界は、決して不公平・不平等のままで終わることはありません。結果的には、誰ひとり不公平に扱われることがないような仕組みができ上がっているのです。それが「埋め合わせの摂理」です。一方的に与えられた苦しみとそれによる損失(霊的成長のチャンスが奪われること)に対しては、きちんと埋め合わせがなされるようになっています。そうした配慮が、摂理によって自動的にもたらされます。すばやく再生が実現したり、奪われてしまった霊的成長のチャンスが与えられるなど、人間にとって最も重要な霊的成長の歩みに対しては、決して不公平な結果が生じないようになっているのです。

こうした「埋め合わせの摂理」は、人間だけに適用されるものではありません。動物たちに対しても、埋め合わせの摂理は働きます。地球人類の霊性の低さとそこから発生したエゴによって、多くの動物たちが非道な扱いを受けています。虐待され、神から与えられた生命が無残にも奪われ続けています。これは人間世界の戦争や貧困・飢餓に劣らない、大きな悲劇です。

そうした哀れな動物たちに対しても、人間の愚かな行為によって進化の歩みが阻害されないような仕組みが設けられています。被害者である動物たちには、埋め合わせの道が展開することになります種ごとの「グループ・スピリット」を単位として摂理が働きます)。それに対して動物を虐待した人間には、「カルマの法則」によって罰としてのしかるべき苦しみが与えられることになるのです。