小説「夏の出来事」 ART観賞の合間に小説で気分転換!

小説、ART(絵画=抽象・具象・シュール)油絵・水彩・木版画(ARTの現場)GRA-MA

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嗚呼小説
夏の出来事
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医療現場の不思議な体験。

〈1〉

 
もうどのくらいになるのか。
四、五年くらいつき合っているのかもしれない。一度は、別れたんだがなァ。俺のは皮がむけて赤い斑点状のが右足の指付近を中心に広がっている、左足にも二年ほど前から移住し始めた。それだけならまだカワイイのだが、右足なんかは爪にまで侵入して分厚く白く爪を変形させている。

 ああ、なんてことだ。あの時、何ヶ月も病院に通ったのに。そして、飲み薬できれいに君とお別れ出来たはずなのに。たった二年でもとの状態にもどってしまった。薬をやめるのが早すぎたのだ。
 俺が自分から、治ったと思い医者に行かなくなったのか、医者の方が、もう来なくていいと言ったのか、どっちだったかよく覚えてないのが・・ま、今となってはそんなことはどうでもいい。完全に治っても再発することだってあるのだから。

 彼は東京のど真ん中、千代田区のお堀の近くの会社に通うサラリーマン四五歳。

 この年の梅雨は男性的で降れば大粒の雨が滝のように降り続いた。その晴れ上がった二千年七月のある日。彼は意を決して、会社に事情を告げ、あらかじめ電話帳で調べていた一番近くの皮膚科に向かった。
「兎内皮膚科、ここだな。これは近い。よく前を通っているけど気付かなかったな」

 彼は、ペンシルビルの側面の大きく出ている看板の文字を読みながら、そのビルの入口に入って行った。小さなこの皮膚科の立て看板が左端にあり、奥のエレベーターの方に真直ぐ向かった。「・・何階かな?」と思い、もう一度その小さい看板に目をやり二階であることを確かめエレベーターに乗った。 「階段が無いのだろうか、見当たらなかったなァ」等と思っているうちにドアが開いた。
 「うっ」目の前が受付だ。エレベーターのドアから三メートルくらいだろうか非常に狭い待ち合い室だ。要するにこのエレベーターのドアが皮膚科の入口のドアなのだ。

 なんの心の準備も選択する余地もなく放り込まれたような感じである。すでにエレベーターのドアは閉まっていた。
 『受付に保険証を提出する前にもう一度他の皮膚科にするかどうか考える時間が欲しかったなァ・・・ああ・・』
 彼は、そこに入るや、三、四歩前進し、いや、するしかなく。 「初めてですがお願いします」と受付の女性に言っていた。
 『ま、いいか。別に狭いだけでなんてことはないよ。色々考え過ぎて結局失敗するということもあるからな』彼は、その狭い医院の待ち合い室の両脇に二つずつ置かれた椅子に座った。
 『なんだこれ。ええっ』受付の下に雑誌と漫画本が置いてある棚があり、その横に新聞が一週間分かけてあった。彼が驚いたのは、その雑誌の汚さと日付けであった。ほとんどが一年前、もしくはもっと古いもの。
 『やっぱりいやな予感がしたんだよな、入った瞬間。もう帰るわけにはいかないしなァ・・・・。

 それに、さっきから聞こえるあの男の声とそれに生返事をたまに返している女の声。あれは何だ。え、あれがもしかして、ここの先生?の声。すると、あのたまに聞こえるのが患者?しかし、あの話の内容は、どう聞いても年寄りの自慢話しだ。聞きたくも無いのに無理して聞いているといった一方的な会話が
ドア越しに話し声がよく聞こえる。

 「学会で先輩がねェ、なんで君、これが分かるのーって聞くんですよね。それで僕はね、言ってやったんですよ“じゃあ先輩なんで知らないのー”ってね」「はァ」 『そんなこと皮膚科の治療に関係ないだろ。聞いてる女も女だなァ。そんな生返事するから男がいいきになって喋ってんじゃないのか。ああ、本当にこんなところ今日だけにして次から他のところにしよう』もう待つしかなかった。ニ、三分待っただろうか。『あんなお喋りや、こんな古い雑誌がなかったらも
っとイライラせずに待てたかもしれないのに、なんという医者なんだろう早く顔が見てみたいものだ。あーあー、チェッツ!』

 話し声が消え静かになり、ドアが開いて患者と思われる女性が出てきた。
 なんと二十歳そこそこの学生かと思われるくらいの若い落ち着いた服装の女性である。
 『なんで君のような若い女性がここに』
彼は目を疑った。彼の中には、中年のおばさんが出てくるという確信のようなものがあった。そして、しばらくするとドアの奥からその先生と思われる人が彼を呼んだ。

 「鱗波君」
これは、このサラリーマンの名前である。『君(くん)だって。ま、いいか。今までの事は忘れて素直に診ていただきましょう』
 「はい」彼は、ドアを開けて中に入った。

 『目が点にたぶん俺はなっているんじゃないかな』と彼は思った。ま、思うだけの余裕があったといえばそれまでなのだが、あらかじめ心の準備、というか予感というか、予測は無意識に
していたかもしれない。

 とにかくひどい診察室である。この6坪くらいの長方形の部屋はまるで物置きだ。先生?の座る椅子の後ろ一面に古本屋の本棚から本が崩れ落ちたように本や紙、何かの箱等が子供の背丈ほどの山になっていてる。

 『やはり帰るべきだった』彼は思った。そこに机がひとつあり先生が座っている。その横に患者が座る丸いパイプ椅子があった。たぶん、人が障害物なく歩けるのは、ドアからその机までだろうと思われるくらい凄い。あ、受付の部屋からも狭いけ
ど障害物はないようだ。いや、そう言う問題じゃない、これは何かの間違い?いや別の世界にでもまぎれこんだかな。
 彼は、今までの常識が何だったんだろう・・・とにかくまさしく足場を失ったような不思議な気分になっていた。
 「どうしました」その初老の医者が言った。
 『え、どうしましたかって、先生こそどうしました?』
彼は、心の中で返事をしていた。 が、 「はい、水虫が爪に入ったんですが」と意外とまともに、自分でも驚くぐらい普通に答えていた。
 「あそう、爪にね」この時初めて目が合った。鋭い目である。
言葉は柔らかい。体型もブクブク太っていて穏やかな感じなのだが。
 「六年ほど前にいちど治ったんですが、再発しましてそれ以来ずっとなんですが」
 「そう、一度治ってもねェ。またなるんですよねェ」と先生が言った。鋭い目の中に何か弱いものがあるようなきもしたが。
 『いやいや、そんなはずはない。そうだとすればこの部屋を片付けるだろう。この人は物凄い強靱な精神力で、人がどのように見ようが感じようが関係ない、とでもいっているような目だ。きっと』。
 「見ていただけますか」彼は、はやく済ませて帰りたい気持ちで靴下を脱ぎはじめた。
 「ああん」ちらりと目をその足にやっただけで
 「私がね、軍隊にいたときにね、履物といえば風通しの悪いゴムでしてね」
 『ああ、これだ、さっき待ち合い室で聞こえてきたお喋りだ。返事をしなければ、ただの診察でおわるのかもしれない』と、彼は思ったのだが。
 「ええ」と、なんとも人のよさそうに喋っているので、ふと返事をしてしまった。いや、せざるおえなかったのか。相手が先生だから?どちらにしてもすでに相手のペースにはまってしまっていた。
 「そうすると水虫になって爪に入るんですよねェ。それを見た上官ががね、その人に明日までに治してこいっていうんですよねェ」
 「はァ」
 『あ、しまった。また返事してしまった』
 「それでね、どうしたと思います」
 「え、・・・・」彼は先生の顔を見ながら首をかしげて分かりませんとい合図を送ってしまっていた。先生は、そのことで気を良くしたのか、おかまい無しなのか喋り続けた。
 「誰かがペンチを持っていてね、貸してあげてね、爪を抜くんですよ」
 『先生!話は面白いかもしれないけど今聞く話じゃないんじゃないですか』と心の中で叫びながら、よくよくこの先生を観察してみることにした。

 まずはネクタイ。この椅子に座って暫くして気付いたのだが、汚れている。先生は、喋りながら机に向かってカルテなのか何かを書き、ゴム印で薬などの名前をそこに押している。したがって、その横に座っている彼からは正面の姿は見えないのでその汚れに最初は気が付かなかった。
 『ネクタイが汚れているとは、どういうことなのだろう。この人は平気なんだろうか。いやいや平気なんだこの人は。この部屋を見れば分かる。あ、白いカッターシャツまで汚れている。ズボンもか?やはりそうだサスペンダーなんかしてオシャレっぽく見えるけど汚いな。でも臭いはしない。肌は汚れてはいない。こんな医者いるのだろうか』

 カタカタ。キーボードの音だ。机の上に17インチモニターの古びたパソコンが置いてあり本体のキーボードとは別に計算機のようなキーボードが接続されていて、それでポツンポツンと何かを入力している。
 「他の先生がねェ、なんでコンピューター使うのーって聞くんですよ・・・」こんな調子で三十分くらい一人で喋りながら、のろのろとカルテを書き、パソコンに入力し、薬の袋に名前を書き入れる(字は達筆である)。それが終わると診察終了のようだ。患部を診る診察なんか数秒だけだ。

 彼は、六年前のとは違う新しい薬を一週間分もらい、やっと解放されてそのビルを出た時は、なんとも言えない空虚さを感じていた。外は初夏の太陽が肌に痛いはど突き刺さり、肌だけが自分自身であるかのようであった。
 周囲には白い眩しい光りがビルや車をギラギラと輝かせていた。しかし、あそこは何だったんだろう。この都会のまん中に自分の日常とはかけ離れた空間を見たような気がしていた。時間の流れも確かに違っていた。が、それも時間がたつにつれて、都会のぐうたらな医者というものはこんなものかもしれないと思うようになっていった。薬さえもらえば。そして、次は他の医院に変えようと決心し、忘れようとした。

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