「恋とか愛」と、呼ばれるものについて。
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男と女の「愛」とは、何か。???。・・・これが、簡単に判るようなら、天才だ。

「文学恋愛」なら、スタンダールでしょうか。耽読しましたね。

愛の詩人なんてのが、結構いましたね。ハイネ。

かのゲーテも意外に真面目に取り組んでいます。

日本では、ストレートですが。・・・なんかネチネチしていて・・・辛い。笑)

ギリシア神話の昔から、物書きは「愛」が、大好きのようです。

そう、考えると・・・宇宙論より、難しいかもしれない。

私も、長い間・・・考えてきました。近来、科学的な分析さえ行われています。

心理学・精神分析学を筆頭に、神経心理学・大脳学と。 そして、遺伝子学へ。

ハミルトンの「血縁淘汰説」に始まる遺伝子の分析は、

ドーキンスによって「利己的遺伝子」という概念によって解析されました。

さらに、これを社会的システムにまで発展させ「ミーム」と名付けている。

とにかく。生命起源・進化論・自然淘汰・突然変異・他、ウィルス説まで登場している。

まっ、「理屈」としては『御苦労様』と、言いたくなるほど、立派な研究成果。

・・・もしかすると「正しい」のかもしれない。

しかし、この世界はそんなに甘いもんじゃない。

「カオス」「ファジー」「特異点」「不確定性」「不完全性」「量子相関」その他。

人間を含めて、この「世界」は、針の先程も、判っちゃいないのだ。

結局「判らない」ってことが、真理に一番近いのが現状だ。

「愛」について最高の文章は、未だにプラトンの著作中。

「饗宴」のディオティマ(実はソクラテス)の言葉だろう。

これには、救われました。笑) 2400年前のオッサンの言葉か。

カントの「判断力批判」も少し役立ったかな。

ショーペンハウエルは、マサカリで私を真っ二つにしたし。

「なるほど」と感じたのは、ルネ・ジラールの「欲望の現象学」だ。

ジンメル等のドイツ系社会学も、現代の愛?を上手く解析している。


・・・だからこそ、「愛」とは。


私は、【「私」「言葉」「世界」】を、一つとして考え、「答え・解」を出したい。


 長い間。私は、考え続けてきた。・・・現実社会に暮らす「私」と共に。


第一に。「知る・認識」が、なければ「愛」も始まらない。「出会い」ですか。

「知らない人」を愛することは、有り得ないでしょう。

・・・しかし。DNAに組み込まれているのなら「知らない人」を愛するも有りかな。笑)

まぁ、一般的には「見る」「会う」ですね。このキッカケが、9割以上でしょう。

「雑誌」「テレビ」「映画」・「街」「会社」「学校」「その他」


次に「欲する」こと。・・・ここで、大きな問題が現れます。

「生殖本能」と「恋愛」を同一視するかどうかという問題です。科学的には、

当然のことですが、これを一つのカテゴリーにいれてしまうと、

「有性生殖」の意味が、失われてしまいます。 進化の過程で、雌雄が分離したのはなぜか?

そこから「恋愛」を紐解くべきでしょう。 もっとも、この辺までは、科学的分析が進んでいます。

第一に、環境変化への対応です。 我々の生活フィールドである地球は、

信じられない変化をしながら現在に至っています。 その中で、生物は、

絶滅の危機を回避してきました。空気が無かったり、大気温度差・数百度。

昆虫や水棲の蟹・海老等の「変態」は、地球の四季への対応の名残ではないでしょうか。

私は「恋愛」のルーツが、環境対応への手段にあると考えます。

・・・・・実際に、雌雄の無い下等生物でも、この不思議な「擬似恋愛?」は見られます。

【 この部分を、掘下げていると、本が一冊出来上がりますから。省略 】



・・・・・・・・・・・・・さて、さて。今まで、私は何をしていたのか。

んんんんんん。何を求めて生きてきたのか。


「私の人生」は、思い通りに行かなかったけれど、何か、納得のいく物は、

残せないのだろうか。なんか、健康も、今一つだし、困ったものだ。

とにかく、「人間の不思議」を解き明かしたいと、思っていた訳なのだから。

★まず、「思い」と「考え」は、絶対に、別の物だ。

この混同が「人類の最大の悩み」だ。 「思い」は、絶対に伝わらない。

「思い」は、現実の中にある。そして、「考え」は、空想の中にある。

この一見、逆の差こそ、人類を悩ませる。 『思いに従え』と言いたい。

「思い」は、喜怒哀楽と言われるように、千変万化するし、場合によっては、

狂気さえ、生むような気がする。・・・しかし、絶対にそのようなことはない。

怒りや「狂気」こそ、「考え」が作り出したものだ。正確には「考え」を、

「思い」に変えようとした結果なのだ。 「思い」は、肉体が生み出す。

「考え」は「理」が生み出す。演繹・帰納なんて「理」は、人間自体とは、無縁なのだ。

★では、なぜ「考え」は、存在するのか。考えは「選択手段」としてのみ、存在する。

・・・しかし「思い」は、絶対に伝わらない。 だから、考える。
余計に考える。

「考え」は、人類にとって邪魔なのか。 ・・・「手段」を選択する時にのみ重要なのだ。

だから「理」に、絶対はない。どうしても、世界の「法則」に従うしかないのだ。

1+1=2ではないのだ。「2」であると選択する為に、1+1があるに過ぎない。


では、「思い」通りでいいのか。これも、疑問だ。「思い」は、肉体が生み出すので、

その時の「肉体の状況」によって変化する。 【既に、考えに毒されている場合もある】

ここで「考え」(選択の手段)が必要となる。

【なーーーんだ、結局、いつもと変わらないじゃないか。思って、考えて、決定する】

そう。しかし、「思い」と「考え」を、明確に区別していないと「考え」に毒されてしまう。

・・・その事が大切なのだ。「山に登りたい」と思った時に、「疲れるし、時間と

お金も掛かる。」と考えたらそれで終わりだ。「考え」は「手段の選択」に使うのだ。

「考え」は空想の領域なのだ。事実でも、完全でもないのだ。どんな馬鹿でも考えるのだ。

「考え」には、キリも終わりもない。行き着く先は、混沌の地獄だ。

「思い」は変化する。・・・だけ。

辛い・苦しい・悲しい・・・そんな時は、変化させるのだ。 ワザと強引に。

笑ってみることだ。【演技としてでもいい】 走ってもいい。疲れの方が強いから。

軽く何かを食べてもいい。【そして。とにかく、笑ってみることだ。】

絶対に、考えてはいけない。何度でも書く。「思いは、考えられないのだ。」

・・・絶対に。絶対に?。
[あなたは、自分を客体化できるか。]

そう、不可能。 ただ、表現することは、何んとか可能かもしれない。

しかし、「自分を表現し、それに、満足する」のは、かなり苦労する。

その一端が「芸術」だと、私は思う。


「思い」は、考えられない。

「考え」は、キリがない。終わりがない。混沌の地獄があるだけだ。

「思い」は、変化する。大抵は、2つしかない。

最高にあっても、4っつ程度だ。

・・・とにかく、「笑ってみる」ことだ。




人間は、多かれ少なかれ誰かに認めてもらいたい。
最も、認めて貰いたい相手・・・それは、母親や父親だろう。

しかし、ここで言う「親」とは、現実の親とは限らない。
幼児期に刷り込まれた「イメージとしての親」だ。

私は、抽象的概念に逃れるつもりはないが、
この言動は良く見かける。社会的に偉大な人にも、多い。

・・・残るのは、人間の「恐怖心」についてだ。
「恐怖」というのも、不思議な心象だと私は思っている。

もっと学者の人たちに研究をしてもらいたい。
昨今の「狂気・凶気」は、多くの場合
「恐怖心」の反動だと言える。
ネクラ・引きこもりなんていうのも、対人恐怖症から来ていると思う。

私は「恐怖心」を解明したい。