Radio Romania International (ルーマニア)
 

  ルーマニア(英語ではRoumania、Rumaniaの表記があったが現在はRomaniaとなっている)は東欧の国の中では異色の存在 である。国名は「ローマ人の国」という意味であり、周囲のスラブ系諸国(ブルガリア、ウクライナ、 セルビア)とは異なり、トラヤヌス帝のダキア征服以来移り住んだローマ人の子孫により形成される国である。言語はイタリア語によく似ている ルーマニア語。ブルガリアからドナウ川を越えてこの国に入ると文化がかなり異なることを感じる。戦後ソ連の影響の下一時共産主義化したが、民族や言語(宗 教は 東方正教会でロシアと同じだが)の違いからソ連とは一線を画して独自路線を歩み、特に1967年にチャウシェスクが政権に座について以来その傾向が顕著と なった。共産主義諸国がボイコットした1984年のロスアンゼルズ五輪にも東欧からだだ一国参加した。しかし独裁政治で国全体が疲弊し、遂に1989年革 命によりチャウシェスクが処刑されて民主化が達成された。首都Bucurestiは「Petit Paris」(小パリ)を目指して整備された都市であったが、戦時中の空襲、共産主義時代の非文化的な建物で景観が大いに損なわれた。しかし革命後四半世 紀を経て特に旧市街は往時の美しい姿を取り戻しつつある。

  Radio Romania Internationalは同国の国営放送であるSociettatea Romãna de Radiodifuziuneの国際放送部門である。実は国際放送の歴史は国営放送よりも古く、1927年に首都Bucurestiの旧工科大学(現在は ルーマニア文学博物館になっている)より1071kHz、200Wで海外向に音楽の実験放送を行ったのが最初である。ルーマニア国立放送はその翌年の 1928年11月に設立され国際放送より遅れて747kHz、400Wで国内外向放送が開始された。1932年には「miniature talk shows」という名前の英語・フランス語の番組が登場し、これが実質海外向となった。海外向番組はその後イタリア語、ドイツ語が追加され、1933年に は英国・イタリア・エジプトからも受信報告が届くようになった。1930年代後半にはBucuresti北郊に小規模な短波送信所を建設、小出力ながら短 波の8771kHzで放送した。その結果1939年にはついに米国から受信報告が届いた。第二次世界大戦開始時にはルーマニアは連合国側につき、 Radio Dacia Romana(Daciaはローマ時代のルーマニアの名称)という名称で更にギリシア語、トルコ語、ロシア語、ウクライナ語の放送を追加して戦時宣伝放送 を行った。放送局は創立以来現在と同じBerthelot通にあった、大戦中はドイツ軍の爆撃で破壊され、近くのSt.Sava大学に仮設のスタジオを設 置して困難な中で海外向放送を継続した。終戦後すぐのRadio Dacia Romanaは6175(75W)、9250(4kW)、11900(75W)kHzで1日計1時間英・仏・独・露の4カ国語で放送を行っていたが、 1946年12月にはRadio Romania Liberiaという名称に改正され、5kWの短波送信機を増設して、ギリシア語、セルビア語の放送が追加された。放送は年々増強され、1950年には在 外ルーマニア人向にルーマニア語短波放送も開始、1957年以降は12言語で放送するに至った。在外ルーマニア人向放送はその後も強化され、1958年に はルーマニア系米国人向に「Voice of Motherland」という名称で放送するに至った。海外放送の名称は1953年頃Radio Bucurestiに改められた。

 ロシア語放送は東欧諸国に駐在するソ連軍向に行われていたが、1975年にはついに海外向放送としてソ連向ロシア語放送を行った。ソ連は属国から自国向のロシア語放送が行われるのを快く思わなかったが既にソ連と距離を置き始めていたルーマニアはこれを強行した。

 民主革命後の1989年12月には名称を現在のRadio Romania Internationalに改称し、若いスタッフを大量に投入して国際放送も模様替えを実施した。具体的には放送を在外ルーマニア人向の「Romana Live」と外国人向の「Open Radio」に区分、海外向には新たに中国語、アラビア語、ポルトガル語の放送を追加した。また隣国向放送「Herz」も新設し。ブルガリア語、ハンガ リー語、ウクライナ語、ギリシア語、トルコ語、ロシア語、セルビア語で放送した。1991年にはバルカン半島在住のロマ人(ジプシー)向にロマ語放送も新設した。

 他の欧州諸国と異なり海外向短波放送への積極的姿勢は継続し、2004年には更に海外ルーマニア人・ロマ人向けの「RRI1」と外国人向け「RRI2」に再編成を行った。現在は10カ国語+ルーマニア語+ロマ語放送の構成で海外向放送を行っている。

 経済が振るわなかったために元々海外移住が多かったが、特に渡航が自由になった1989年以降は若年層を中心に海外(言葉が似ているイタリアやスペイン が多い)へ流出する人口が急増し、2300万人をピークに人口が減少続けている。2007年にEU加盟(通貨統合には加わっていない)を果たした後も変わ らず、さらに2014年にはEU内での自由就労が認められたためこの傾向が加速している。流出した人口を母国につなぎ止めておくためにRRI1は特に必要 性が高い放送といえる。

 そのため他の欧州諸国が短波送信所を廃止する傾向の中、2007-2008年にContinental社製の高出力送信機を導入して短波送信所の大幅増 強が行われ、Bucuresti近郊のTiganesti(250kW×3)、Saftica(100kW×1)、北東部の Galbeni(250kW×2)に大規模な最新型送信施設を有している。この内Bucuresti北郊40kmにあるSaftica送信所は Brasov方面に通じる国道1号線のすぐ脇に位置するため比較的容易にその姿を拝することができる。TiganestiとSaftica両送信所は Bucharesti送信所として統一運用されている模様である。ルーマニアは東欧諸国の中で唯一大規模な短波放送を継続している国になっている訳でこの 点にも他の東欧諸国との違いが見られる。

 放送局は市内中心部Cisigiu公園のすぐ北東側General Bertholot通沿いのSala Radioにある。その南側500mには川を隔てて悪名高いチャウシェスクの「国民の館」(Casa Popurului:現在国会議事堂として使用されている)がある。市内には紛らわしい名称Casa Radioという建物もあるが、これはチャウシェスク時代に着工したまま未完成となっている共産主義風の大規模ショッピングセンターの建物であるため注意が必要である。ちなみにルーマニア語でsalaは「ホール・部屋」、casaは「家・館」という意味である。

 高出力送信機を使用して極東向放送も行っているために受信は比較的容易である。夜のロシア向や朝の極東向が狙い目である。QSLカードはほぼ一貫して風景写真を利用した絵葉書風のものが発行されている。受信報告には返信料同封が望ましい。

 受信報告の宛先:  Str.Bethelot nr 60-64, Sector 1, 010171 Bucuresti, Romania
                           または P.O.Box 1-111, 014700 Bucuresti, Romania

 E-mail:  rrii @ rri.ro

  URL: http://www.rri.ro
            


(左)2014年取得のQSLカード(表面) トランシルバニア地方西部の都市Alba Iulia(アルバ・ユリア)の要塞都市全景(異民族の侵入が多かったルーマニアには要塞教会や要塞都市が多く世界遺産になっているものもある) 大きさ 145×104mm
(右)同裏面  夜のロシア語放送受信に対するものである 返事はロシア語部からきた 中央のRと地図を組み合わせた図案が面白い

  

(左)50年前の1966年取得のQSLカード表面 モノクロの焼付写真である  Bucuresti北郊10kmにあるMogoşoaia(モゴショアイア)宮殿の東正面部分 大きさ142×90mm
(右)同裏面 当時はやりのタイプ打ち 局名はRumanian Radio and TVとなっている

  



(左)2016年現在のMogoşoaia宮殿の東側 上記QSLカードの写真は左側からバルコニー部分を撮ったもの
(中)国道1号線より見たSaftica短波送信所 欧州向ビームアンテナと100kW短波送信機1基を備える
(右)稼働中のSaftica送信所ビームアンテナ
  

(左) Radio Romaniaの玄関
(右) Sala Radioのメインエントランスの夜景

 


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