Bulgarian National Radio / Radio Bulgaria (ブルガリア)


 ギリシア、トルコの北に位置するブルガリアは「ブルガリア・ヨーグルト」(この地では殆どの料理に使われる)で有名であるが、トラキアと呼ばれた古代か ら文明が栄えた地であった。1879年より首都となっているソフィアは温泉が湧き出ていることもあってローマ皇帝コンスタンティヌ スより「我がローマ」と言われて寵愛された町であり、現在でも町中至る所に遺跡があり、古い建築も多く残っている。ブルガリアではロシアと同じキリル文字 が使用されており、言語もロシア語に近くロシア人ならば普通の会話には事欠かない位である、例えば朝の挨拶はブルガリア語「Добро утро」(ドブロ ウートロ)に対してロシア語「Доброе утро」(ドブロイ ウートロ)と言った具合である。しかしブルガリアの人々によればキリル文字(キリルはブルガリア人の名前)はブルガリア人の発明であり、未開の地であったロシアにブルガリア人が宗教や文化ととともに伝えてやったのだという自負を持っている。

 この国には共産主義時代以前から続く国営放送としてBulgarian National Radio(BNR)があり、ラジオ放送としては現在第一放送(Horizont)と第二放送(Hristo Botev)、ローカル放送(ソフィアではRadio Sofia)、海外向放送Radio Bulgariaがある。後述のように現在海外放送は短波から撤退中、国内向放送もFM化され、ブルガリア国内では全国向として一波(Vidin送信所、576kHz、400kW)を残すのみとなった。従ってソフィア市内では昼間中波局は全く受信出来ない状態である。

 ブルガリアの短波放送は歴史が古く、中波放送が始まる前の1927年には既にMarconi社製短波送信機が国内に持ち込まれていた。 国内向中波放送が「Rodno Radio」の名称で開始されたのは1930年、そして1935年1月25日には当時の国王Boris3世の命令で国営化され 「Radio Sofia」となった。BNRではこの日を「創立記念日」としている。海外向短波放送は国営化と共に開始され、1935年11月に 7460kHzにて試験送信が開始され、翌1936年1月からは週1回、5月からは毎日定期放送が実施された。当初は国内向と同じ番 組を放送していたが、すぐにエスペラント語放送が追加され、その後英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、トルコ語でも放送するようになり、1938年 頃には当時一流の海外放送局に成長した。第二次大戦直前及び戦後ソ連による占領前後に一時的に混乱したが、共産主義化された1947年時点では 9350kHz(5kW)で12カ国語で放送を行っていた。その後周波数は7670kHz(Stolnik送信所、15kW)に移行されたがこの 7670kHzはその後長く短波送信に使用された。当時のソ連は西側に近いこの地を送信拠点として重視し、1950年代以降高出力のソ連製短波送信機が導 入されて海外向短波送信が強化されて行った。まず1951年にはStolnik送信所に100kW短波送信機2基(1967年に更新)が導入され、その後 長らく使用されることになる 9700kHz等が使用開始となった。1970年代に至り西側との短波出力競争「パワーゲーム」が激化すると、
1976年頃よりPlovdiv 送信所(2012年廃止)に250kWが3基、500kWが2基、そして1979年以降はSofia西郊のKostinbrod送信所に50KW4基、 100kW3基、250kW1基が何れもソ連から導入され、ブルガリアは東側の「短波送信機地」の様相を呈するようになった。この時代これらの高出力短波 送信所は当時の海外放送Radio Bulgariaだけでなく、ソ連のRadio Moscow、当時東側が応援する共産系秘密放送(チリ向Radio Magalianes、スペイン向Radio Espana Independiente、イラン向Radio Courier等)の送信にも広く使用された。現在も秘密放送の送信が多いKostinbrod送信所の異名 「Secretbrod」はこの当りに起源がありそうだ。

 共産主義の時代にも外国のリスナー向にはDX番組が制作されていた。しかし国内での短波放送の受信者は弾圧の対象となり、1972年から同局英語放送のDX番組に情報を提供していたRumen Pankov氏(現在もDXerとして健在)はソ連のDXerと情報を交換した罪で1974年秘密警察に逮捕され5年間刑務所に入れられていた。

 1989年に共産主義の時代が終わると、ブルガリアは普通の欧州の国に戻った。海外向放送は名称をRadio Bulgariaに変え(Radio Sofiaはソフィアのローカルラジオの名称になった)、その後もKostinbrod送信所の設備を活用して強化され、1996年の最盛期には週間放送 時間が338時間(当時の Radio Japanは468時間)に達した。現在活躍中のIvo Ivanov氏はこの時代にブルガリア語放送、ロシア語放送でDX番組を担当していた。ブルガリアは2007年にはEUに加盟(通貨統合には入っていな い)したが、経済は苦しく、また若年人口が西側の諸国に流出(共産主義時代最後の都市1988年の898万人をピークとして人口減少に歯止めがかからない 状況である)して政府の財政は苦しくなった。他の諸国と同様国際放送の費用が問題視されるようになり、ついに2012年2月1日を以て短波放送は廃止され た。 但し「インターネット放送に移行」という名目で海外放送組織は維持され、現在も海外向放送番組は制作されている。2015年8月よりはドイツ語放送のみド イツのKall-Krekel送信所より短波送信(A16スケジュールでは16:00-16:30 7310、00:30-01:00 6005kHz、出力は1kW)が復活した。なおRadio Bulgariaの短波廃止後もKostinbrod送信所はSpaceline社という仲介会社によって他の放送に時間貸しされ、現在も維持されてい る。Kostinbrodからの送信復活を願いたいものである。

 現在BNRの放送を聞くにはKall-Krekel送信所からの短波放送はかなり難しく、インターネット放送から直接出掛けて行くかリモート受信しか方 法がない。幸いにもソフィアを訪問する機会があり、ソフィア市内で103.0MHzで放送されている第一放送「Horizont」(「地平線」の意味、現 在はニュースと音楽 を専門に放送)を受信してPFC同封で受信報告を送って見たところ、海外放送部門であるRadio Bulgariaから丁寧な返信をいただくことが出来た。Radio Sofia時代の1967年(「世界は二人のために」や「この広い夜空いっぱい」がはやった年だ)取得のQSLカードも合わせて掲載する。なお 「Horizont」の放送は2014年の中波廃止後も短期間Varakell送信所より長波の261kHzで継続されていたが、これも2015年1月に は廃止された。

 放送局はソフィアで誰もが訪れるアレキサンダー・ネフスキー寺院から国会議事堂、ソフィア大学を経て南に少し行った地下鉄Stadium Vasil Levski駅から入ったDrangon Tsankov通にある。

 受信報告の宛先: bul.Drangon Tsankov 4, 1040 Sofiya, Bulgaria

 E-mail:  bnr @ bnr.bg

  URL:   http://bnr.bg
                Radio Bulgariaの英語放送はhttp://bnr.bg/en (インターネット放送あり)

 電話:  +359 2 93 361
 FAX:   +359 2 963 33 68



(左)SofiaのHorizont 103.0MHzの受信報告に対するPFC利用のQSL 発行はInternationa RelationsのDirector Albena Milanova女史
(右)一緒に送られてきたBulgarian Radioの初代局長であり画家でもあったSirak Skitnik (Orfan Wanderer、1883-1943)
の絵画 「町」〔град〕(1921年)
   


(左)1967年取得のRadio SofiaのQSLカード表面 紙質は当時ソ連等で使われていた質の悪いアート紙  大きさ 97×150mm
(右)同カード裏面 当時はやりのタイプ打ち 周波数は定番であった朝の9700kHz 使用されている欧文活字体は当時ソ連で使用されRadio MoscowのQSL等で見慣れたもの

   


(左)Bulgarian National Radioの建物 (Sofia News Agencyより)
(右)ソフィアの中心街 (Wikipediaより) 左上部に
アレキサンダー・ネフスキー寺院の丸屋根(金色)がみえる、中央を走るGeorgi Sava Rakovski通に交わるDragon Tsankov通の右奥に局舎がある  


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