Short Story  writing by chef


Requiem 

               
SceneT

 今日も昨日と同じように、本州の南海上を通過した低気圧のおかげで、波は良かった。
ピックアップトラックで、ユタカに送ってもらい家へ帰ったタカシは、
シャワールームには寄らず、まっすぐに二階へ上がった。
午前中で仕事が終わった、タカシの彼女の裕子が帰りを待っているはずだった。

 裕子はベッドルームの窓を全開にして、雑誌を開いていた。
窓からは心地良い6月のオンショアが吹き込み、裕子の長い髪をそよがしていた。
タカシは笑みをかけ、裕子がそれに答えた。
言葉のない会話を二人は交わした。
タカシは塩気の残ったベタベタした体を、シャワーで流しながら今日の波の事を思い浮かべていた。

 タカシは裕子のいる部屋に戻った。
30分ほど経っただろうか?
甘い風は、相変わらず二人の部屋の侵入者であった。
裕子は雑誌を手にしながら、すやすやと眠りについていた。
タカシは、昨日買ったばかりのCDを聞きながら、
去年の夏にユタカに浜辺で撮ってもらった二人のフォトカードを眺めていた。
CDを半分も聞かないうちに、海で疲れた体を癒すための睡魔に、タカシは襲われた。
ベットの中の裕子の横に潜り込み、タカシも眠ってしまった。
6月の甘い風が吹いた、土曜日の午後だった。

 短い夏の週末の夜・・・
どれほどの時間が過ぎたのだろうか?
しらじらと夜の終わりを告げる空の変化が始まっている。
タカシは、その日も一週間の疲れを蹴散らすかのように、オートバイを飛ばしていた。
海沿いの国道を、残り少なくなったガソリンで走っている時、夜が明け始めてきた。
タカシはオートバイのヘッドライトを消し、見慣れた風景の交差点を、さほど減速しないで左折した。

 その時、誰かが散りばめたかのようにあった多くの砂に後輪を流し、
信号待ちのトラックの下に滑り込んでいった。

 純白のヘルメットが弾き飛ばされ電柱に当たり、割れた。
次の瞬間、今日始めて顔を出した太陽がバックミラーに映った・・・

 「だいじょうぶ?タカシ」
気がつくと裕子が驚いた顔でタカシを覗きこんでいた。
タカシは始めて裕子と知り合った16才の頃、オートバイに狂っていた。
なぜかその日タカシはその頃の夢を見た・・・


Scene U

 その日、目覚めたタカシはベッドルームのベランダに立ち、海を見ていた。

 昨日、関東冲を通過した低気圧が残していったスウェルが押し寄せている。
ベランダから見ても軽く15フィートはあるようだ。
辻堂に住むようになって、このビーチでこれほどの波は見た事がなかった。

 昨日のサンセットまで海に浸かっていて、まだ完全に乾いていないトランクスにはき、
階段を駆け降りたタカシは、サーフボードを抱えてビーチを走った。
その日の辻堂は、平日の朝にしてはサーファーの数は多かった。
パドリングを始めたタカシは大きな壁のような波を目前にして驚いた。
15フィートどころか、20フィート・オーバーのブレイクであった。

 1セットのスウェルをボードの上で観察し、次のセットの3本目の波をテイクオフした。
「高い!」 ボトムに下りたタカシは背後から迫る波にかすかな恐怖を感じ、呟いた。
ボトムターンからカットバックのあと、バックサイドにできたチューブに入っていった。
広い! … 地球と月との引力が作り上げた波のトンネルの中で、過去に経験した事のない大きな空間を楽しんだ。
実際はほんの7,8秒なのだろうが、タカシには時間が止まっているようだった。

 3時間ほど波と戯れたタカシは心地よい疲れの中、家に戻り遅い朝食をとった。
裕子の作ったエッグサンドと、コーヒーが特に美味く思えた。
最後の一口のコーヒーを飲み終えた時、電話のベルが鳴った。
茅ケ崎に住むタカシの親友、宮下からだった。
茅ケ崎では12フィート、七里ガ浜でも10フィートのブレイクとの事だった。
宮下は奥さんのフミと、すぐに辻堂に来ると言っていた。
電話を切ったタカシは、もう一人のサーフィン仲間で東京に住んでいる川口に波の情報を知らせたが、
車が故障していて来られない事を悔やんでいた。

 タカシはメンソールのタバコをくゆらしながら、小室さんに映画の事を聞くため電話を入れた。
小室さんは、日本のサーフィン界の草分け的なプロサーファーで、辻堂でサーフショップを経営していて、
タカシはそこで働いている。
最近はショップのオリジナルのサーフボードをシェ−ピングして販売していて、
サーフィンの大会にも年に数回しか出場せずに、もっぱら後輩の指導を仕事の合間にしている。
タカシにとって小室さんはこの世界で一番尊敬している人だ。
タカシは仲間たちとサーフィンの映画を計画中だが、電話の話では長いこと風邪をこじらせていた小室さんの奥さんも、
だいぶ良くなったので撮影に同行してくれると言う事だった。

 テラスのチェアに腰掛けて海を眺めていると、宮下の車の音が聞こえた。
宮下はタカシの顔を見るなり、早く海に入ろうの連発だった。

 その夜、久々に会った4人は、スコッチで乾杯をした。
タカシと宮下が海に入っている間に、裕子とフミが腕を競いあうように作った料理がテーブルの上に所狭しと並んでいた。
去年の冬に4人で行ったハワイで見たのと同じような今日の波の話しで盛り上がった。
茅ケ崎でガーデンのあるカフェのオーナーの宮下夫妻も今度の映画の作成には協力してくれるようだ。
スコッチのボトルを飲み干した頃、4人は眠りに就いた。

 翌日の辻堂は、まだ15フィートほどの波が残っていたがオフショアの為、ダンパーぎみだった。
朝刊の天気図を見て、北風になる事を祈りながら小室さんのショップへ向かった。

 いつものように、真っ黒に日焼けをした顔に笑顔を浮かべながら、小室さんは迎えてくれた。
台風並みの低気圧が残していった、3日前からのビッグウエーブも今日で終わりになると予想した皆は、撮影の話しをした。
小室さんは過去に何本かの映画を作ってきたが、今回は今までにない大規模なのを作成しようと切り出し、
2ヶ月位ロケに出て日本中のローカルなシークレット・ポイントを中心に撮影する事になった。

 小室さんの家で、ランチをご馳走になって5人は浜へ出たが、風は相変わらずのオンショアで皆がっかりした。
5人を乗せたワゴンは、海岸沿いの国道134号を西へ向かった。
相模川河口もダンパーで、伊豆半島の吉浜まで行く事にした。
途中の大磯も完全にクローズドアウトしていたので、車の中はFENから流れるDJの声だけで、誰も口を開かなかった。
1時間ほど走っただろうか?
真鶴道路の最後の下り坂を降りきった頃、吉浜の海岸線がくっきりと視界に入って来た。
遥か沖から、数本の波がセットになっているのが見えた。
昨日の辻堂と比べれば、かなり小さなブレイクだが湘南よりは良い波だ。
やっと皆に笑顔が戻った。

 その日の吉浜は、夕方前に完全にフラットになってしまった。
台風崩れの低気圧も、3日も経って本州の遥か東海上へ移動してしまい、沿岸まで力は及ばなかった。


Scene V

 数日後、映画撮影の日程が決まった。
7月の中旬から北海道の襟裳岬を皮切りに、仙台〜福島を回り下旬に四国、8月上旬に宮崎、中旬に湘南、下旬に千葉、
そしてビッグウェーブのメッカ新島には9月上旬に渡り、台風が良い波を生み出すようならしばらく滞在する。
概略はこんなスケジュールだ。

 この撮影計画と並行して、タカシの夢であった、『シーボー・サーフショップ』の開店計画も、着々と進められていた。
小室さんの店で働き出して間もないようだが、すでに4年の年月が流れ、ボードのシェ−ビングも3年の経験を積んでいた。
裕子との同棲も2年が過ぎて、今では2人とも24才だが、いつまでもこのままの状態で良いものだろうかと、思い始めていた。

 真夏を思わせる気温の中、じめじめとしたオンショアが、ビーチの砂を湘南道路に面した自宅の庭まで運んで来る。
3日前に関東地方は梅雨入りしたが、まだ雨は降っていない。
これからの梅雨の間は空梅雨にならない限り、サーファー達にとっても憂鬱で長く感じる毎日だ。
辻堂の街に梅雨明け後のカラッとした太陽の恵みを与えられる頃、四国でのロケ中だろうか?
ここ数日は、夜中まで撮影用のサーフボードのシェーブに追われている。

 出発までの1週間は、あっという間に過ぎて行き、いよいよ明日は苫小牧行きのフェリーに乗りこむ日が来た。
今日は朝から冷たい雨が降っているが、ロケ用の最後の荷造りに励むスタッフからは、笑顔がこぼれていた。
昼過ぎに自宅へ戻ると裕子も「ロケツアーが楽しみで、今夜は寝れそうにないわ」と、ニコニコしていた。
夕方になり、やっと雨も上がり辻堂のサンセットは久し振りに素晴らしかった。
2人はビーチを散歩しながら、知り合った頃の話しをした。
彼女とは一緒になった方が、裕子にとって本当に幸せなのだろうか?
最近、そんな事を良く考えるタカシは、夕方の空の独特な水色から濃紺、そして闇夜へのグラデーションを眺めながら、
「撮影が終わったら結婚しないか?」と、呟いた。

ほとんど沈みかけているオレンジ色の光の中で、裕子の頬に涙が光っていた。

 翌日、久し振りに寝坊をして午後1時にショップのシェービングハウスへ行き、
チーフシェーバーの上杉さんと、20枚の板をワゴンに積み込み出発した。
ロケメンバーの湘南組みの10人と、東京からの5人は横浜の竹芝桟橋で集合して、定刻通りフェリーは出航した。

 東京湾の浦賀水道を抜けて、房総半島の洲ノ崎灯台の沖合いを航行中の頃、
宮下とフミが「もうすぐ、サンセットだよ」と、タカシと裕子の客室へ教えに来た。
4人でデッキに上がり、バドワイザーを飲みながらしばらくすると、
昨日のそれよりも遥かに綺麗な、自然が作り上げるドラマが展開され始めた。


Scene W

 辻堂の街に木枯らしが吹いた、1983年12月20日…
クリスマスをあと4日後に控えた海岸沿いのお洒落なお店は、イルミネーションが輝き、
クリスマスソングがあちこちから流れている。
小室さんのショップも同様であった。
映画のフィルムの編集も、ラストシーンを残すだけとなり、タカシは毎日のように横浜の編集スタジオに通っていた。
その日も、横浜へ行く予定だったが、裕子から電話が入り「今日はスタジオへ行かずにすぐに帰って来て欲しい」と、言ってきた。
ショップの片付けを済まして自宅へ戻ったタカシの目に入ったのは、ダイニングテーブルにところ狭しと並べられた料理だった。
キョトンと眺めているタカシは「早く腰掛けてよ」という裕子の声で我に返った。
チェアーにゆっくりと座った裕子は、「赤ちゃんができたの」と、満面に笑みを浮かべ呟いた。
予定日は7月24日とのことだ。
映画の完成を前に、最高の吉報であった。
お祝いのデイナーの片付けを2人でやり終え披露宴の話しになった。
自分のショップがオープンしてからと、2人は決めていたが、生まれてくるベビーの事を思うとゆっくりはしていられない。
裕子の実家へ電話をして、早速2人で報告に行った。
同棲の話しをした時、大反対の裕子の両親だったが、結婚となれば心から祝福され、喜びの中でクリスマスが過ぎ、
暮れも押し迫った12月29日に映画は完成した。

1984年元旦…
初日の出を江ノ島で見てから4日後、タカシが25才になった日に宮下が幹事となり、
葉山マリーナで婚約パーテイーを開いてくれた。

2月に入り、完成した映画の上映が東京と、湘南、千葉で12会場で次々と行われたが、大変な盛況振りであった。

 裕子との第2、いや第3のスタートは裕子の誕生日の3月3日に新宿のホテルで行われた。
そして裕子のお腹と、ベビー用品の準備以外は例年とあまり変わらない5月、6月が過ぎた初夏のある日、
タカシの兄から開業資金の一部に充てる為の銀行の貸付けがOKになったと、連絡が来た。
タカシの兄に大学時代の友人に、ある銀行の支店長代理がいるのだが、かねてから低金利の融資を申請してあったのだ。
その日のうちに、茅ケ崎の『シーボー・サーフショップ』の建設予定地の土地売買契約を済ませ、着工を待つだけとなった。
湘南道路に面した場所で、1階をサーフショップにして、2階にオープンテラス付のシーフードレストラン、
3階を自宅にする設計だ。

 ギラギラと輝く太陽が眩しい、8月1日…
昨夜から入院していた裕子に男の子が生まれた。
裕子が愛児と共に新居に帰ってきてから1週間後に念願の『シーボー・サーフショップ』がオープンした。
開店後の店は順調で、1年中サーファーのみならず、東京からのお客で盛り上がっていた。


Final Scene 

 タカシと裕子の息子、佳祐が12才になった秋…

 その年の全日本サーフィントーナメントのジュニア部門で、佳祐が優勝した。
湘南に久々のグッドスウェルが上がった日、タカシと佳祐は海に入っていた。
その日の最高と言える波にテイクオフしたタカシは大きなチューブに入った途端にワイプアウトして、
ボードのフィンで肩から腕にかけて切り、7針縫った。
佳祐は同じ波をパーフェクトに乗りこなし、砂浜のギャラリーを湧かしていた。
ベッドルームで傷口を癒しているタカシの元に、真っ黒に日焼けした顔に微笑を浮かべながら、佳祐が来た。
彼は、波乗りに青春をぶつけようとしている、男の顔をしていた。
それは20年前のタカシと、同じ情熱の表情だった。

 ひとつの青春のページが終わろうとしている。
次の世代の若者たちがサーフィン界を背負っていく時代が来たと悟った、波乗りにすべてをかけて燃焼しきった2人が、
木枯らしの吹く中、茅ケ崎から辻堂へ続くビーチを歩いている。
海にはカラフルなスウェットスーツのサーファー達がいた。
時代の移り変わりを、感じさせられずにはいられなかった。
タカシ、裕子、共に39才の春。

立ち止まり、ふと見ると、裕子の肩越しに15年前の初夏のビッグウェーブがそこにあった…

                                       FIN



Postscript.

 " Requiem"を、最後まで読んでいただきまして、ありがとうございます。

 私には中学、高専時代からの一番の親友がいました。
中学時代、彼は漫画家を夢見ていましたが、オリジナルの漫画作品は、なかなかの腕前でした。
当時、私は写真に興味を持っていまして、二人はデザインと写真の専門課程のある高専へ進学しました。
18才の頃から二人はサーフィンに病みつきになり、東京から千葉の外房、湘南へ毎週のように通っていました。
卒業後、彼はデザイン畑に進み数年前に独立を果たしました。
私は料理の世界に進みましたが、彼とは一生涯の友人でいられるとの確信がありました。

 1983年の初夏、静岡にいる私の元に彼から電話が来ました。
内容は、『明日、俺の彼女とディズニーランドへ行ってくれないか?』との事でした。
オープンしたてのディズニーランドに、高専時代の後輩が就職していて『接待用のチケットが入ったので、
彼女を連れて行く約束をしたが、急な仕事で行けなくなったので私に連れて行って欲しい』という内容でした。
気心の知れた二人でしたので、こんな要望ができたし、受けられたのでしょう。

 彼には、結婚式の司会も要請されました。
返事に迷っている私に彼は、『一生に何度もあるもんじゃないから、やってみろよ』と、
まるで他人事のように言われて、結局引き受けました。

 その、結婚式の前夜に台風19号が上陸する予報がでていました。
当時、私は小さなモーターボートを所有していましたので、台風の接近に備えて舫いのロープを締め直すために、
海に行きたかったのですが親友の晴れ舞台に遅刻する訳には行かないので、
翌日に乗車予定だった新幹線をキャンセルして、前日に東京へ向かいました。
台風で新幹線の運転停止が予想されたからです。
台風は四国へ上陸し日本海へ抜けるコースをたどり、結婚式は無事にお開きになりましたが、私の元へ『船が流された』と、連絡が入りました。
数日後、浅瀬の岩場に乗り上げて船底に穴が開いた船が見つかり廃船となりましたが、親友にはその事は言えませんでした。

 湘南の海とサザン・オールスターズを、こよなく愛していた親友は二人の子供を授かり、茅ケ崎に住んでいました。
海まで徒歩5分くらいの所なので、休日は幼い子供を連れて釣りに行ったり、サーフィンをしたりの生活をしていました。

 親友の名は、宮下政久。
1999年6月18日、41才の誕生日の6日後に、この世を去りました…
出張中の大阪の、ホテルのベッドの上で、独りぼっちで…

 Requiemは、私と宮下が10代の頃から夢見ていた、未来予想図でした。
お互いに、海の見える場所に住み、ビジネスをやるのが夢でした。
以前、この作品を彼に見せた時、『お前らしい内容だな』と言ったその笑顔が思い出されます。

 人間は誰しも、失った時にその存在の大切さに気づくものだと、痛感しています。
身の回りの人々も、近くにいて当たり前だと思っていても、いつかは必ず別れが来ます。
失った時に後悔だけが残らぬように、存在の重さをしっかりと受け止めて生きていきたいと、痛感しています。
私の心には生涯、彼がいます。
いつまでも持ち続ける夢、家族への思い、そして少年のような優しい心…
そんな、思いを私も追いかけて生きたい。

 親友、宮下政久君のご冥福を祈ります。

                                    Chef.