17歳のDonnie Yen (北京体育学院)





The Donnie Yen Story in Beijing 

 私がDonnie Yenと知り合ったのは、彼の母親のBow Sim Markの紹介です。
その当時私は、北京体育学院(北京体育大学)の武術科へ進み、最初の日本人留学生として勉強をしていました。
そこでは、成伝鋭助教授のもとで伝統武術を研究習得に努めていました。
Donnie Yenと私は、先ず武術を通しての付き合いから始まりました。
それから、一番最初の日本人の親友として、よく共に行動しました。
私は、初にDonnie Yenと会ったとき、物凄く礼儀正しい人物という印象を得ました。
彼と付き合ってからは、よくある武術のみ出来る若者ではなく、いろんな才能を持っていて、たまたま現在、武術で光っている、多才な人だという事がわかりました。
二人でいる時、わたしのリクエストでクラシックからアメリカポップスまでピアノをよく弾いていただきました。
話術も堪能で、人を飽きささなく、リズムをもっていた。もちろん、二人の会話は英語でした。
私も、ジョークは好きですが、彼のジョークはかなりレベルが高かったです。

1983年当時の北京体育学院:小白楼(shoubairou)

Donnie Yenの過ごした、左側の4階建の外国人留学生宿舎(小白楼)の2階には、それぞれの夢を抱いた学生が10人程度暮らしていた。
Donnie Yenは210号室
私は207号室
彼は私の部屋でおぼえた日本のポップスをよく、くちずさんでいた。
私が横で説明しながら、日本の雑誌もよく読んでいた。


今回は、ドニーとの最初の別れについて書きたいと思います

最初の別れは,彼が1982年の始めに香港に行く時でした。
北京駅を深夜出発する、寝台車に乗るため、彼の白いホテルから30分程かけ、数人の友達と荷物を持って暗い道をゆっくり歩いて行きました。
北京駅に着くと、広い構内はほとんど人影もなく、2階に行く無機質的なそら色に塗られた通路の壁は、「君たちを簡単には受け入れないぞ」という閉鎖的な決意を感じました。
改札口ではドニーの切符をチェックするだけではなく、駅員は外国人用の中国移動許可証明書とパスポートを入念に調べあげ、それに機械的に印を押しました。
我々は何か疲れるような冷たい感じをもちました。
荷物を汽車に乗せた後、時間は充分あったので、最初は駅のプラットでたわいない話をしていました。
プラットは屋根が有るだけで、自動販売機すらなく、コンクリートの単なる道路みたいな感じでした。
そして話は武術のに移り、プラットは我々以外にはいなく、次第に冗談でお互いの武術の腕を披露しだしたのです。あるものは長拳、私は太極拳、ドニーは蟷螂拳というように。
たっぷり汗をかいた時にちょうど、汽車(蒸気機関汽車)の出発の合図がありました。日本では聞けないノスタルジックな警笛音が響きました。
彼はあわてて汽車に乗り、窓から手を振り、皆に別れを告げました。
汽車が動き出すとき、もうあえないと思ったツィ・イーは、急にジャンプして手に持っていた、三節棍を固いコンクリートに打ち付た。
「ダーン」という、強い大きな澄んだ音が北京駅全体に鳴り響きました。
それは、ドニーの香港での成功と活躍を、仲間全員が願って出した声のようであった。
それから数ヵ月後、ドニーがまた、北京に帰えってくるのだが、その時は誰も知るよしもなかった。
 ツィ・イーは当時三節棍で中国の武術大会ではいつも、ベスト3にはいっていた。西安武術チームの選手で、「少林寺の兄弟」という中国の映画で準主役をしたり、TVにもよく出ていた。また彼はドニーと私の共通の友人でした、北京ではこの3人で、武術三兄弟として、よく行動を共にしていた。

1982年の秋の事です

以前からDonnieの北京武術チーム(その当時中国最高レベルを維持していた)の練習見学に行く約束をしていた。
私は北京口腔医学院を朝早めにでて、Donnieのホテルに向かった、部屋では彼と会った。
彼はオシャレでまた清潔好きのため、まめに歯ブラシをしていた、彼は赤青白のアクアフレッシュをいつも使っていた、それは彼の大変お気に入りで、日本ではまだ知られていなく、私が使用感はどうかと聞くと「最高」と答えたことを覚えている。私も、彼の歯磨き粉を何度か使ったが、あまり馴染まなかった。

2人で北京武術チームの練習場に向かった。窓のあいたギイギイと軋んだ音のするバスを2〜3回乗り換え、北京武術チームの練習場についた。舗装の悪い道路沿いにあり、少しなかに入った所に緑で囲まれた土色のレンガ造りの建物があった。
Donnieは彼のコーチに私の見学許可のもらいになかに入った。Donnieのコーチは中国で最高に有名人でJet Liのコーチもしていた。その結果、コーチはDonnieと私に対して、私の見学は公式練習中は許可できなく、終了後はいいという話になりました。

午前中はDonnieの練習が終わるまで、彼が使っている、北京武術チームの宿舎で待つことにした。多くの武術チームの隊員はその宿舎で生活していた。
お昼になり、Donnieは沢山昼ご飯を提げてもどってきた。2人でたらふく食べて、昼寝をしました。

彼の練習終了後、土色のレンガ造りの建物に案内され。
ドアは緑に塗られた木製だった。風がすうすう入って来そうな、閉鎖性の良くない造りだった。たぶん、冬の寒いときは、ドアの外にビニールの布で風ぜを防ぐのだろうと思った。
床はよく使い込んだ、緑のマットが敷き詰めていた。
数人の子供たちが基礎的な動作(床体操にちかい)を練習していた。この子供たちは、将来の中国武術を担う才能ある子供たちでした。
最初は私の前で練習をすることはDonnieは大変恥ずかしがっていたが、Li-Xiaが、「早く早く」と彼を急き立て、長拳の刀を約1.7分単位で3〜4回しました。
彼は一生懸命にやり、体全体から汗が飛び出していた。
Li-Xiaともう一人の女性の演武をみて、私は型をほんの少し教えてもらった。その時の、写真はこれです。これは、Donnieが撮ってくれたものです。



土色のレンガ造りの建物での、練習の後、私とDonnieは別の棟で、ウエイト・トレーニングをした。
お腹の減った私とDonnieの2組みは、バスを乗り換え、北京でもっとも有名な、北京飯店(=北京ホテル)に向かいました。
そこのレストランで、タラフク中華料理を食べ、2人が大好きなアイスクリーム(単なるアイスクリーム)を食べました。 食後の運動では、いつものように、ホテル側には内緒で、人目を避け、勝手に絨毯の有る場所で武術練習をました。派手な側方宙返りとか前方宙返りもよくしました。


日本のポップス

Donnie Yenは私の部屋でおぼえた日本のポップスをよく、くちずさんでいた。
そのなかで、一番好きな曲は  太田裕美 の雨だれでした。
太田裕美の声は、その当時、ともに暮らしていた留学生全員が好きでした。

その時の、体育学院の留学生の国籍はアメリカ、カナダ、イギリス、西ドイツ、ニュージランド、ソマリア、パキスタン、イラン,etc でした。

Donnieは飛行機の乗換で、買い物時間が有るときに東京の空港で、いつも太田裕美のミュージックテープを探した。しかし、彼は見つけられなっかた。
そのため、私の手持ちの太田裕美のテープをプレゼントした。

 雨だれ
   作詞 松本隆
   作曲 筒美 京平
   編曲 萩田光雄

ひとり雨だれは淋しすぎて  あなた呼びだしたりしてみたの
hitori amadareha sabishisugite  anata yobidashitarishitemitano

  最初の歌詞のみ書かせて頂きました、その当時の,万国共通の傑作作品でした。


私が勝手に考えます ”ドニー・イェンの日本の女性観について”

昔、将軍という映画がありました、それを見た世界中の人が、日本女性=Beautifulと信じていました。・・・・一部の方が現在も信じています
 当然、私に出会ったときの彼もそうでした。つまり、着物を着ておしとやかな女性。そうそう、京都の町で見かけるような舞妓サンみたいな、懐かしい女性。
 私の部屋では日本の女性歌手の甘い声が流れ、壁やドアには日本の女性の素敵なポスターも沢山有り(すべて税関を通過したもの)。
注)その当時の、中国の税関では水着の女性までが限度で、真面目な顔のポスターは許可されますが、いくらスクール水着でも、笑っている顔のものは許可されませんでした。なんか、変な通達を守っているようです。
その当時、北京では教育放送ばかりTVで流れています。
唯一の、憩いの場所は私の部屋でした。
 
私事になりますが、2つの大学に籍を置き、つまり、北京医科大学口腔医学院では、唯一の外国人研修医として患者治療や口腔病理研究、歯科針麻酔、顎顔面の針治療などを勉強していました、一方では、北京体育学院の武術科の日本人留学生として勉強していました。
つまり、毎日、一日に2つの大学を忙しくハシゴをしていました。
 日本大使館の医務室の依頼で歯科医師として日本大使館で治療し、必要に応じて患者に優秀な現地専門医を紹介していました。
 約2年間、日本人学校の校医として小学生・中学生の口腔衛生の向上に努めていました。その当時の、日本人学校は大使公邸に有り、学童数は約130人でした。但し、幼稚園児は現地の施設で一般の中国人の園児と一緒にあずけられていました。
 その当時、まだ、北京は衛生状態は完璧だと言えず、日本大使館の認める衛生状態の良い食堂やレストランは僅か5件ぐらいしかなかったです(ホテル内も含む)。
 1982年に幼稚園児が数人A型肝炎に罹患していた事が判明して日本人社会(1200名程度)でパニックが起こりました。

そういうわけで、ドニー・イェンと外食をする時は、大変注意をして、出来るだけその5件の内のレストランで食事をしていました。何も無い中国での楽しみは、食事かドニーとDisco行へいくぐらいなことでした。ドニーとのDiscoに関しては、Bioので時期を見て書きます、期待して下さい。
 その当時、自分が日本人で有ることに対して大変誇りを持っていました。
 当然、「日本女性=Beautiful」と思っている彼に、「そうだ!そうだ!」言ってきました。
   …だから、ドニー・イェンの日本の女性観には私の影響があると思います。責任あるかもしれない???
そうそう、思い出しました、その当時、中国の雑誌には日本女優特集なんを、かなりやっていました。
山口百恵が凄い人気で、小学生の低学年でも知っていました。・・・・その当時の、中国人のかたは、一般に彼女の結婚のことは知っていなかたです。
山口百恵をビーナスみたいに思っていました。
話は変わりますが、外国人は日本の女性に関して、一般に、良い意味での凄い思い込みを持った方が多いです。
だから、海外では日本の女性は物凄くもてるのです。それに日本の女性は実力がありますから。また最近、行動的な日本女性をテーマにした番組が海外で人気があるため、知的とか行動的とかいう言葉が加わったと思います。