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つれづれなるざれごと
『六中観』

 死中有活。苦中有楽。忙中有閑。
  壺中有天。意中有人。腹中有書。
                                        安岡正篤

『壺中有天』
  壺中の天
  現実の世俗的生活の中に自らが創っている別天地の事。(ロマン、風流)
  「自分だけの時間をもてない人は、幸せを失っているような気がしてならない。ましてや自分の世界を
   もてない人はあわれと思う」
                                                                          清水雅

   吉川英治が須賀川牡丹園の主人柿沼源太郎さんに書き送った礼状

  「先頃頂戴の牡丹の薪にて、新春、一月十三日夜、宿望の一会を催し申し候。
  
   屋外に焚くは惜しう候まま、赤阪の桔梗と申す家の炉部屋を借り申し候て、客を致し候。
  
   当夜の客は、金鶏学院の安岡正篤氏、元東京府知事の香坂昌康氏、南画家の新井洞巌翁の
  
   御三方に小生の四人にて、炉には、冬夜の暖をとる大根煮をいたし、酒は灘の吟醸、酌人
 
   は牡丹の花と申しても劣りなき赤阪の美妓(びぎ)に候。
   
   丹炎まことに美しく、微薫(びくん)ある煙も、牡丹なる故にや、苦になり申さず候。
   
   安岡氏の言葉にて、暫らく、燈火を滅し、炉の明かりのみにて、暫時(ざんじ)を雑談に忘れ申し候。
  
   食後、また炉の自在鉤に湯釜をかけ、牡丹にて沸かしたる湯にて、桔梗の女主人なるが薄茶のてまい
  
   一服立て候て、これは無類の風流と香坂氏も洞巌翁も興じ入り申し候。
  
   安岡氏、席上、画箋の詩筆をふるい、洞巌翁、竹蘭など即興に揮毫(きごう)いたし候。
  
   牡丹の絵をと望み候に洞巌氏曰く『牡丹はむつかし。しかも、今宵は生ける牡丹あり。また、
  
   炉中の牡丹あり、老筆の及ぶべからず』とて止み申し候。
   
   誠に御蔭をもって、王者の贅も及ばざる一夕宴を仕り候。」

                                        昭和十一年一月三十一日

  
  理屈や打算や功利一点張りになってくると、どうしても人間はコセコセして、ぎこちなくなる。
  味がない。人間も器量が大きくなればなるほど、そうゆうものが脱けて余裕が生まれてくる。
  その余裕を養うものが風流なのだ。いかなる『壺中の天』をもっているか、それがこの人物の器量を決定する。
                                                                          安岡正篤
  

『意中有人』
  いつも心の中に「人物をもっている」ことである。私淑(シシュク)し得る人物を理想的人間像を、あるいは
  要路に推薦し得る人材等のように、ありとあらゆる人物を用意していることである。


『腹中有書』
  断片的な知識ではなく、しっかりと腹の底に蔵(オサ)めた哲学をもっていること。
  元々、「知識」というのは人の話を聞いたり、本を読んだりして得るごく初歩的なものだから薄っぺらな
  ものである。これに経験と学問が積まれてくると「見識」となる。さらにこの見識に実行力が加わると「胆識」
  となる。この胆識が『腹中有書』である。
  


 「冷に耐え、苦に耐え、煩(ハン)に耐え、閑に耐え、激せず、躁(サワ)がず、競わず、随わず、以って、大事をなすべし」
王陽明
   『耐冷』
    人生は冷たくされることも多いし、冷や飯をくわされることもある。だが、その冷たさにたえる工夫をもって
    いなければならない。

   『耐苦』
    苦悩に耐える。耐えるたびに少しずつ人生が見えてくる。

   『耐煩』
    世に棲む以上、煩わしい雑事から逃れるわけにはいかない、人生・皆・雑事と割り切り雑事を苦にしないで処理
    していく。

   『耐閑』
   

   『不激』
    興奮しない、頭に血がのぼると、まともにやれることもやれなくなる。

   『不躁』
    事に臨んで、やたらとけたたましくならない、バタバタしない。

   『不競』
    つまらぬ事に競争意識をもやしてはならない。

   『不随』
    ひとのあとから、のこのこといくようなことをしない。


 「何が人の特性を最もよく表しているかというと、愚かものに対して執る態度が一番である」

 「怨(ウラ)みは外にあらわれることを怖れる怒である、それは自己の無力を意識している無力の怒である」

   

    まだ続く

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