「パニック障害」という症状の名前を聞いたことがありますか?ここ数年、芸能人や著名人の方々が公表されてりして、メディアでもとりあげられて、割と少しづつではありますが、世の中に浸透し始めた心の病です。


私の、パニック障害との歴史は25〜6年にも及びます。もちろん、なり始めの頃は、その言葉などありませんでした。現在は、98%治っていると思っています。

そんな私の、パニック障害の歴史を何回かに分けて、いろいろな出来事など織り交ぜながら、綴って見たいと思います。

パニック障害は精神障害とは違い、健康な人でも、過度のストレスなどから、いきなり症状が出始めたりします。
何か、参考になればいいなと思いつつ書くことにします。


 【パニック障害克服体験記】

最初の発作と言うべきものは、おそらくあれだったのだろう。それは、私が27歳の時だった。
朝、変な感じで目が覚めた。胸の中で、ネズミが三匹くらい走り回っているような、本当に口では説明できないような、妙な感覚。

体力に自信のあった私は、病気だとは思わなかったが、体が言う事をきいてくれない。
一体どうしたんだろう?
娘達を、夫に託し救急車で病院へ。「心身ともに過度の疲労状態です。このまま、暫く入院して下さい。」

はあ?という気持ちだったが、仕方が無い、このままでは仕事も出来ない。言われた通り入院した。点滴を打って、二日目にはすっかり元気になった。子供もいたので、4日目には無理やり退院。
今思えば、あの時きちんと治療しておけば、こんなに長い間辛い思いをしなくて良かったのになぁ・・・・と思う。
しかし、その頃は未だパニック障害という言葉さえ無かったのだから、仕方が無いか・・・苦笑。

 

最初の大発作は、入院して2ヵ月後。

退院してからは、また、多忙な日々が続いた。私はいわゆる「完璧主義者」だった。仕事も家事も育児も完璧でないと気がすまなかった。夜も、TVを観ながら編物をすると言ったような、時間を無駄に過ごさないという習慣が出来てしまっていた。

その日は、ちょっと長い会議があった。3時間位だったと思う。次シーズンの打ち出しの企画会議だったので、何時もより熱が入った。5時ぴったりに終わって、急ぎ足で電車へ。保育園に子供達を迎えに行かねばならない。

電車に乗って、何時ものようにクロスワードパズルを引っ張り出し、やり始めた途端に心臓が音を立て始めた。「え?な〜に?これ?」だんだん大きく早くなってくる。手足が冷たくなり、冷汗が・・・
疲れたのかな?とにかく、落ち着こう。そう思っても、お構い無しに勝手に心臓は音を立てる、息苦しい。
S駅で仕方なく下車。駅員さんに具合が悪いと伝えると、駅員室まで行ってくれだって。
え〜っ、ここは地下三階だよ・・・無事にたどり着けるの?そう思いながら、やっとの思いで駅員室へ。

着いた途端に倒れこみながら、「子供が未だ幼いんです。今、死ぬわけにはいかないんです。助けてください。」そう言ったのを、しっかり覚えている。

救急車でT医大に運ばれた。夫が迎えにきてくれたが、「落ち着いたら帰って良いですよ。」と言われただけだった。

次の日、会社に行く前にT医大へ行った。一応診察すると言うので行ったのだが、検査をして一週間後にまた来て下さいで終わった。
検査の結果は、「何も問題ない、疲れでしょう。」という事だった。
私も、「疲れか・・・気をつけよう。」位であまり気にもしなかった。

 

 

 

S駅から、救急車で運ばれた後、私の生活は元に戻った。また、朝は5時半に起きて、食事を作り子供達の面倒を見て、7時半に保育園へ預け、仕事に行く。6時にお迎え、買い物、洗濯、掃除、夕食の支度、夜は、子供達の服を作ったり、レース編みをしたり。
夫はあまり手の掛からない人で、(TVっ子=汗)まあ、仲のいい家族だった。

何事もなかったように時は過ぎ、秋になった。二社掛け持ちで仕事していたが、割と自由なやり方で企画を任されていたので、その点は良かったが、神経は磨り減っていたのかもしれない。
会社の帰りに今度は足が動かなくなった。
椅子に座っていたのだが、いきなり足が動かない。焦った。どうしよう・・・
またまた、S駅で、自分の足を両手で各々抱えて、やっとの思いで降りた。
暫くベンチで休んだが、変化無し。

親切そうな女性を見つけ、事情を話そうとしたが無視された。哀しかった。
また、自分で足を持ち上げながら、普通なら10分で着くタクシー乗り場へ1時間近くかかったがたどり着いた。
不思議とその時は、動悸も呼吸困難も無かったな・・・

タクシーからやっと降りたら、近所の友達が子供達と一緒に待っていてくれた。転がるように、そこのお宅の玄関へ。
暫くそのまま、話していたら段々足が動くようになってきた。
ほっとした。
友達が、マンションまで送ってくれて夕食まで持ってきてくれた。ありがたかった。

しかし、一体これは何???
不安が頭から離れなかった。

 

 

訳の分からない不安を抱えながら、生活するのもイヤなので、徹底的に検査してやろうと思い、某総合病院へ。
「何処も悪くありません。」
はぁ?ホント?・・・

じゃあ、あの3回の私的事件は何なのよ?意味不明。結果があると言う事は、「原因」があるんじゃないの?

不信感が絶えない私は、それから大学病院から個人病院まで、十数件ハシゴして歩いた。暇さえあれば、病院めぐりという感じだった。
何処に行っても、「何処も悪くありません。」

そうかい、上等じゃないか!!私は何処も悪くないんだな!頭に来て、そう開き直ったりもしたものだ。()

そうこうするうちに、冬になり事件の事も頭から消え去った頃、胃が痛くなった。だんだん酷くなり、眠れないほどだった。病院巡りも飽きていた?私は、近所の内科に行って、症状を訴えた。
検査の結果、「胃潰瘍」だった。
「3〜4箇所、自然に治った痕があるから、慢性ですね〜。職業病でしょうね。」と言われ、胃潰瘍の薬と「リーゼ」という精神安定剤を5個処方してくれた。

精神安定剤はいらないと言うと、胃は神経から来る場合が多いから、疲れたときやイライラして気分が落ち着かないと、胃潰瘍も悪化するので、とりあえずそういう時に飲んでくださいと言われた。

元来、薬嫌いの私は、当然のごとくその「リーゼ」とやらには手出しすることなく、バッグの隅に眠ったままだった。

胃潰瘍も、だんだん良くなり、仕事も私生活も、元気一杯。休みの日は子連れで遊園地や動物園など、何時ものように楽しい、そして忙しい日々が、私にはごく普通の事のように思えた。

しかし、私を落とすための落とし穴は、もうすでに這い上がれないほどの大きさになって、私が落ちるのを待ち構えていた。

 

 

 

胃潰瘍も良くなって、街がXマス仕様に変わる頃、不眠症になった。
大体、4時間半位しか眠らない生活を学生時代から続けてきた私は、不眠ということが、こんなに辛いものだとは全く予想できなかった。
一日二日寝なくても、まあ死にはしない・・・そんな風だったが、三日四日と続くとだんだん不安になってきた。
全く眠ってないわけではない。うとうとと何となくは眠ってるのだろう。

そんな日が数日続いた頃、夜中に心臓がバクバク言い出した。「眠れないから疲れが溜まっちゃったんだな。」と思いつつ、横になっていた。苦しい・・・何だ?喘息?いや、違うよ。あ、あの救急車でS駅から運ばれた時と似てる・・・

そう思ったら、居ても立ってもいられず夫を起こした。三回目の救急車のお世話になった。K大病院で、「鎮静剤打ちますか?」と訊かれた。「いえ、もう大分落ち着いたので・・・ありがとうございます。」
結局、何もせず帰宅。
朝になったらケロッとしている私に「とにかく、病院行った方がいいよ。」と言い残し夫は仕事へ。

暫く考えたが、前回、胃潰瘍でお世話になった内科に行く事にした。先生に事情を話すと、「自律神経失調症かもしれませんね。リーゼを出してあげましょう。寝る前とか、飲んだらいいですよ。」
と、一週間分7錠の小さな薬をもらった。

自律神経失調症かぁ〜・・・一体どんなものなんだ?それって。本好きな私は、そのまま本屋へ行き「自律神経失調症の治し方」なる本を手に入れた。
手のツボとか、体操とか食事とか、親切丁寧に書かれていた。よし、これで私は、自律神経失調症から脱出出来るぞ!
そんな事を思いつつ、会社に向かった。

そう言えば、以前貰ったリーゼはどうしたんだっけ?あ、いらないって捨てちゃったなぁ。ま、いいか、どうせ飲まないし。この本があれば、薬なんてね〜、飲まないに越した事無いよ。

ツボ押しが効いたのか、気持ちが楽になったのか割と眠れるようになり、一件落着と思った数日後・・・得体の知れない現象が起こった。
体が重い。帰りの電車で変な感じ。その夜、息苦しさも出てきて、これはまずい・・・。慌てて「リーゼ」とやらを、引出しから引っ張り出し飲んでみた。
2〜30分したら、体が軽くなった気がした。
良かった。
しかし、この薬・・・凄い!もしかして、麻薬じゃないよね?
治った安心感と、薬に対する恐怖感が入り混じって、暫く「リーゼ」を見つめていた。

ま、いいか、残り6個あるし、こんな事もそうそうあることじゃないから、とりあえずバッグに入れておこう。根っから楽天的な私は、自分にそう言い聞かせ、とにかくこの薬のお世話にならないよう、自己管理に気をつけようと強く思った。

 

 

大晦日、御節の準備も終わり(毎年作っている)年越し蕎麦を食べながら、今年を振り返る。我が家の恒例。

今年はいろんな事があった。元日から私の父が心臓の病で地元の大学病院に入院。3月に退院して喜んでいたら、父の退院の翌日、下の娘が、原因不明の高熱で生きるや死ぬやの入院。命は取り留めたものの、意識不明の重態が続き、脳に異常をきたすかもしれないと言われた。奇跡的に正常だったが、彼女は以前の記憶を失ってしまった。

その後、私の過労での入院、わけの分からぬ発作。夏休みの中頃、実家の隣の身内同然の方とお孫さん二人の事故死(TVで観て驚いた)
その後の、夫の実家とのトラブルも、かなり私にはこたえた。

悪い事は重なるものだ。何て酷い一年だったんだろう・・・

来年こそは、いい年にしようね!と言いながら、父の病気の事は、かなり気になっていた。あんな、風邪一つ引かなかった人が・・・
私には、大ショックだった。
「普通だったら死んでる」と言われたらしい。凄い生命力の持ち主で良かった。

新しい年を迎え、暫く平穏な日々が続いた。入学式やら何やらで、忙しかった。
たまに心臓が「ドキッ」となったりしたが、気にしない、気にしないで過ぎていった。
仕事も、一社にして新しいブランドを任され、展示会も好評で、市場の評価も得て、本当に楽しい日々だった。

「リーゼ」という薬がバッグに眠っている事すら忘れていた。夏が過ぎ去ろうとしている頃、帰りの電車の中で、ついにあの化け物がやってきた。
今回は、昨年駅員室に倒れこんだ時より輪をかけて酷いものだった。
何処の駅だったかも覚えていない。とにかく、また救急車のお世話になった。

とにかく、運ばれて暫くすると治ってしまう・・・一体どうしちゃったの?
私の不安は少しずつ大きくなっていった。

そういう目に遭いつつも、私は仕事をやめようとは思わなかった。仕事は好きだ。私の生き甲斐でもあった。その頃は、電車も怖くなかったし、飛行機も怖くなかった。一人で、飛行機に乗り、新幹線に乗り、仕事で駆け回っていた。

 

 

 

何だかんだと言いながら、いわゆるプチ発作は一月に数回、大発作は三ヶ月に一回くらいの割合で私を襲った。もちろん、大発作の時は、救急車のお世話に・・・

そんな事を繰り返しながら、30歳を迎え、相変わらず、仕事と家事と育児に一生懸命だった。不安はあったものの、何回検査をしても、何も見つからない。もう、どうでも良かった。きっと、死にそうになっても死なないから、大丈夫なんだろうとタガをくくっていた。

肺活量4800、心拍数50の体は強靭だったからかもしれない。(笑)
友人と、会社を設立。自分達の会社だからと、休み返上で働き半年後には、帳簿上は黒字になった。嬉しかった。
だが、そんな私にいきなり暗雲が立ち込めた。

一年後、T女子医大で「卵巣脳腫」の診断が出た。手術は免れたものの、安静に出来ないんだったら入院して欲しいとの事。半年から一年は仕事もダメ。
泣く泣く、会社を去る決意をした。みんなに迷惑をかけたくない。

しかし、その決断は正しかった事を、後になって知る事になる。子供達のことも気になったので、自宅で療養する事にした。半年か・・・長いな・・・そう思いながらの療養生活は、思いのほか早く終わった。
経過が良く、3ヶ月で殆ど普通の大きさに近いまでになった。ラッキー!喜んだ私は、早速、仕事の復帰に全精力を注いだ。

実績を認められてか、契約してくれる会社には困らなかった。やった!また、仕事が出来る。嬉しい。自分の体のことはさておき、ひたすら喜び、また、以前と同じ生活に。

しかし、そんなに上手く行くはずもなく、卵巣脳腫でホルモンのバランスが崩れていた私に、頻繁に発作が襲うようになった。
「負けるものか。絶対負けない。」そう自分に言い聞かせながら頑張った。
胃潰瘍も再発を繰り返し、あの「リーゼ」とやらも、何回か飲んで見たりした。胃潰瘍と自律神経失調症。胃薬と軽い精神安低剤。
もらった「リーゼ」をまるで宝石のように大切に持ち歩いた。飲んだのは、回数にして、おそらく20回くらいだと思う。

最初の発作から、7年が過ぎた頃、夜、言いようの無い発作が出た。動悸や呼吸困難にともないお腹が死ぬほど痛かった。もう、このまま死ぬのかと思う余裕も無かった。T女子医大系列の病院へ。
検査の結果、妊娠していて非常に危険な状態だと分かった。私は、「産みたい」と言ったが、夫が「妻の命を優先してください」と。
結局、半ば強引に・・・・・
私の小さな分身は、数時間でこの世から消え去った。哀しかった。とても、これ以上は書けない。
ここまで書いただけでも、涙が溢れてくる。ごめんなさい。

その日を境に地獄の日々が始まったのである。

 

 

 

私は、外に行けなくなった。人に会うのも嫌になった。言いようの無い、恐怖と絶望感。何も出来ない。布団の中で、いろんな事を考えた。
寝ていて、考えたり、うとうと出来るうちは未だ良かった。自律神経とホルモンのバランスが崩れた私に、否応無しに発作は襲ってきた。
薬は、胃潰瘍と自律神経失調症と言われた時に貰ったリーゼがあるだけ。確か、5錠だったと思う。引っ越していたので、そこの病院は遠くなりとてもいける状態ではない。

救急車で数回運ばれたが、薬はくれなかった。(今思うと、何でだよ?と言いたい)

お風呂も怖くて入れなくなり、誰も居ない時の、調子のいい時に台所でタオルを絞って体を拭いた。トイレもドアを開けたまま。家族が居る時も、ほんの少し開けて入った。
一番困ったのは、髪のことだった。洗えない。ロングのカーリーヘアを自分の仕事の鋏で、バッサリ切り落とした。泣けた。自慢のロングカーリーだったから。
夫にアルコールの洗髪剤を買ってきてもらい、何とか凌いだ。
そんな風だったから、私の生活用品は、台所に集結した。

発作が出て動けない時は、亀のように丸くなってひたすら耐えた。すぐ近くの電話の所までも行けなかったから、ただ耐えるしかなかった。
一人で家に居るのは、辛かった。ドアの所で一日しゃがみこんで、ひたすら時が経つのを待った事も数え切れないくらいある。

数ヶ月過ぎる頃には、夜中、恐怖と不安に打ち震えても、夫を起こそうという気持ちも無くなった。
毎日、一生懸命働いて来る優しい夫に、これ以上迷惑をかけたくないという気持ちと、夫が私のことで疲れて倒れたら、子供達が・・・と言う思いが大きかった。

リーゼは飲み果たし手元には何もない。家から出れなくなって、一年が過ぎ去ろうとしている頃、私は「遺書」を書いた。絶望感はもう、生きる望みをこれっぽっちも残してくれていなかった。
「私なんか、死んだ方がいいんだ・・・生きていても仕方の無い人間だ・・・」

完璧な鬱状態。(今だから言える)
枕の下に入れた遺書を時々取り出して、読み返しては泣いた。涙というやつは、一体どこからこんなに大量に出てくるんだ。
終いには、泣く事も忘れた。もう、どうでも良かった。死んだら楽だろうな・・・
こんな苦しみから逃れたい・・・でも、自分で死ぬ勇気?は無い。誰か殺してくれないだろうか・・・
そんな事ばかり考えていた。

 

 

 

人間、何がきっかけで変わるか分からない。鬱、絶好調の私に、ある友人から一本の電話が入った。
私も、何故その電話にだけは出たのかは分からない。

「仕事しない?週二日でいいから。」
「ウソ・・・マジ?」

少し考えさせて欲しいと言って、電話を切った。私の心の中で、何かが動き始めたような気がした。まだ、私は必要とされてるの?まだ、仕事をさせてくれるの?そう思ったら、凄く嬉しかった。

しかし、現実は、電気のスイッチの「パチッ」という音でも心臓がびくつき発作になる。亀のように丸くなってガタガタ震えながらおびえている自分の姿を思うと自信が無かった。

そうだ、母に相談しよう。
何とか母に電話し、自分の今までの事を話し、二人で泣いた。母が言ってくれた言葉、きっと死んでも忘れない。
「小さい頃から、何でも一生懸命やってきたキララに、できない事なんか無いよ。『なせば成る』 でしょう?」

私は、今までの家の中での生活にサヨナラするべく、枕の下に入れてあった「遺書」を引っ張り出し、ビリビリと決意をもって破り捨てた。
そしてまた、私の闘いは始まった。

 

 

 

割と体調のいい日に、私はタクシーに乗り、前に行った内科に行き、事情を説明して「リーゼ」を貰った。今度は二週間分貰えた。一日一回14錠。良し、頑張ろう。

電話を貰ってから三週間後、私は以前のように電車で表参道まで行く事が出来た。溌剌とした状態ではなかったが、仕事が出来る、それも最先端の企画だと思うと、ウキウキした。地下から昇る階段は、辛かった。体力が落ちてしまった事を如実に示していた。途中の踊り場で休憩して、また昇った。

仕事は楽しかった。TVなどでもドンドン自分の作品が出てくる。嬉しい。気持ちは、瞬く間に回復していった。
喜びもつかの間、どうも躁鬱状態になってしまったようだった。仕事をしている時は、ノリノリでとても充実していたが、家に帰ってくると、イライラしたり落ち込んだり怒ったり、妙に明るく歌ったりおかしな事が多くなった。
リーゼは貰っていたが、発作の時しか飲んじゃいけないと思っていた。
家族に暴言を吐いたりするようになった。(自分では良く覚えていない)

電車や飛行機など怖いと思わなかったのは私にとってラッキーだったが・・・・

37歳の春、父が急死した。亡くなった時間に私は父のお見舞いに行くため飛行機の中にいた。
飛行機の中で初めて発作が出た。奇しくも父が亡くなった時間と同じ時だった。
尊敬していた父の死は、非常にショックだった。病院に着いたら「お帰りになられましたよ。」「え?退院したんですね!良かった。」「いえ、お亡くなりになりました。」
私の髪は一日で、大半は白くなった。

帰りも飛行機に乗ったが、それから私は飛行機に乗れなくなった。

電車で何回も発作を起こして来た付けが回って来たのもその後だった。
私は、電車も怖くなった。会社に行くのに、一時間早く出なければいけなくなった。途中で降りたりしてしまうからだ。脂汗タラタラで、必死で通勤しなければならなくなった。特急も急行ももちろんダメ。各駅だって、やっとこさだ。
帰りは、夫と待ち合わせして一緒に帰るようにした。

そんな時、私立の中学に行っていた娘が、具合が悪くなったと学校の近くの駅から電話が入った。特急に乗りたい。でも、もし自分が発作が出たらと思うと乗れなかった。大分時間が掛かってしまったが、やっとの思いで娘の所に着くことが出来た。
「ママ、私がこんなに具合悪くても急行とかに乗れなかったの?」
ショックだった・・・

このままではいけない。何とかこの訳の分からない自律神経の乱れうちを断ち切らねばならない。このままでは、家庭も仕事も本当にダメになってしまう・・・

 

 

さて、ここからが本題です。()

最初の発作から11年が過ぎた。私は、この変な症状を絶対に断ち切ってやる!と強く誓った。仕事も週に二日しか行けない。後は、自宅で企画書を作ったりする仕事しか出来ない。ともすれば、この嫌な症状に振り回され、数日は家から出られない事も多々あった。喜怒哀楽も極めて激しく、家の中はピリピリした空気が漂い、仕事に行くのも死ぬ思いだ。行けない時に、電話で連絡して謝るのも、もう沢山!
絶対に治すぞ!負けない!何があっても。

勢いづいたは良いが、何をどうすれば良いのか分からない。とりあえず、買い込んだ山のような書籍を、片っ端から読んだ。「不安神経症」「心臓神経症」「自律神経失調症」「神経症」「心身症」などに関する本で、私の周りは埋め尽くされた。

失敗した。
いらない知識まで頭にインプットしてしまった。おかげで、今まで、自分には無かった症状まで出始めてしまった。遂には、仕事も辞める羽目に陥った。
もう、何とか病院を探すしかない。とにかく当たって砕けろだ。でも、一人では何処にも行けない。外に出るのだって大変だ。
言う間でもなく、夫に頭を下げて頼み込んだ。私の夫は、平常心を字に書いたような人である。笑う事はあっても、滅多に怒ったりしない。
それに真面目だ、程ほどに。(*^^*)

休みをとってくれたりして、本当に良く協力してくれた。精神科から神経科、大学病院、総合病院。。。
行く所、行く所で「特に悪くない。強いて言えば、少し神経質な所がありますね。」
そんな事を聞きにきたんじゃないよ!
一体何なんだ?!

ついにとある有名精神科で薬が出た。早速、夫と昼食をとり、飲んでみた。三種類あった。色とりどり。
暫くしたら、すごい事になってしまった。先ず、立てなくなった。ふらつくし、頭がおかしい気分。ろれつは回らず、夫に支えられタクシーで自宅へ。結局、食事もとれず、そのまま寝込んだ。
二三日調子が悪かった。

懲りずに、病院を探しながら、気孔や、怪しげな機械を使った整体や、カウンセリングなど目につくものは、片っ端から行ってみた。どれもこれも、たいした成果は得られなかった。強いて言えば、気孔は本場の医師免許を持った先生だったので、なかなかいい感じではあったが、その場しのぎという感しか無かった。それに、どいつもこいつも保険が利かないので、一回に支払う金額が高すぎる。本当に治るんだったら安いものだと思って通ったが、残念。

少し失望しかけた頃、夫の会社の健康相談室で、「心療内科」の先生を紹介してもらう事が出来た。TVや雑誌などでも有名な先生だった。最初は、夫に一緒に行ってもらったが、割と近かったので一人でも何とか通う事が出来そうだった。
「不安神経症です。大丈夫、必ず治りますよ。」
おお、なんて心強い言葉だ!!初めて聞くその言葉に私の心は躍った。
良かった、本当に良かった。これで私は、また自分を取戻す事が出来る。嬉しい。涙が出た。

貰った薬、ソラナックスとレキソタン。レキソタン5ミリは頓服だそうだ。食後に飲むのは「ソラナックス」
飲み始めて、その薬が自分に適していると分かった。体も心も凄く楽になった。
何年振りだろう・・・・こんなに安定した気持ち。
嬉しかった。
発作が出たときも、大丈夫、レキソタンを飲めば・・・と思える。実際、相性が良かったのか、良く効いた。

通院を始めて、半年ちょっと経ったある日。その日は、私の主治医が医学会で留守だというので、他の先生に診てもらう事になった。
「あと、どのくらいしたら、治るんでしょうか?」
「え?この病気は、治りませんよ。」
ガ〜〜〜〜〜〜ン・・・・・

もう、このクリニックには来ない・・・そう思いながら、帰途についた。

 

 

初めての「心療内科Sクリニック」に失望した私は、血眼になって他の病院を探した。
一週間分の薬があるうちに、何とかしなければ・・・
結局、これという病院は見つからなかった。

丁度、薬が無くなった頃、風邪を引いた。すぐ、目と鼻の先に、新しく開業した個人クリニックがあった。近かったので、何となくそこのクリニックに足を運んだ。
「内科・神経科」そう書いてある。ふ〜ん、神経科もやってるんだ・・・
熱はたいした事はなかったが、咳が酷くて辛かった。E先生は、私より若干若そうだった。薬のこと等、いろいろ、説明してくれるので、私は気に入った。
「神経科」もやってるんだったら、ちょっと訊いてみるか。今までの事をかいつまんで話すと、検査しようと言う事になった。
その日は、Sクリニックで貰っていた薬と同じものを処方してくれた。

人間、悪い事ばかりでは無い。生きていれば、いい事もあるもんだ。このE先生は、後々、まるで私のために、目と鼻の先に開業してくれたかのような、私の本当の意味での「主治医」になるのである。

検査の結果は、思った通り良好だった。24時間心電図も結果は良。
「不安神経症と心臓神経症だね。薬、出しておくから、きちんと飲んでね。」
気さくな感じで、ここなら良いかも・・・でも、治るかどうか訊くのはやめておこう・・・
そんな感じで、E先生の所に毎週通うようになった。薬も、メイラックッスとか他のも飲んでみたが、私には強すぎるようだったので、最終的に、元のソラナックスとレキソタンに戻った。

きちんと薬を飲み始めて2年、3年と過ぎて行った。発作の回数はもちろん、激減したが、全く出ない訳では無かった。調子のいい時悪い時は、波のうねりのようにあった。

「先生、他に何か出来る治療はないんですか?」と訊いて見た。
「森田療法やってみる?」
何かで読んだな・・・森田療法。
「一週間、入院して、なるがままに・・・という療法だけど、入院できる?」「何時でも、G医大を紹介するから、決めたら言ってね。」
「はい。」
そう、返事はしたものの、薬も飲まずに一人の部屋で一週間は、考えただけで、ぞっとした。
結局、森田療法はやらず終いだった。

 

 

 

薬をきちんと飲み始めて、私はだんだん自分と言うものを取戻し始めた。
E先生に出会った頃から、自宅で細々とではあるが、企画の仕事をやり始めた。バブルも崩壊して景気も悪く、あまり大した仕事は来なかったが、その頃の私には丁度良かった。

ある日、現役バリバリの頃、面倒を見た後輩から電話が来た。S社の仕事しないか、というものだった。契約なので自由に出来るという。でも、朝はとりあえず会社に顔を出さなければならない。
薬のおかげで割と普通に生活することは出来るようになっていたが、電車に乗るのが不安だった。
運良く、同じ路線で各駅停車で9個めだったが、私にとって電車に乗ると言う事は、恐怖と不安のどん底に落ちるのと同様のことだった。

「先生、私電車に乗りたいんですが、どうしたらいいでしょう?」
「え?乗ればいいじゃない。」
「だって・・・怖いんです。」
「各駅停車だったら平気だよ。すぐ隣の駅に着くし。」
「ダメですよ。駅のそばで電車を見ただけで怖いんです。」
「薬飲んでもダメ?頓服飲んで乗ってみたら。」
「あ、頓服・・・そうですね。試して見ます。でも、もし発作が出たら・・・どうしたらいいでしょう・・・」
「アハハハ、大丈夫だよ。死なないから。それは、あなたが一番良く知っているでしょう。」
「周りの人に迷惑をかけたら・・・・」
「じゃあ、『私は、死なないのでほっといて下さい』と言う紙でも出しておけば?」
「え〜〜〜っ!そんな〜人の事だと思って、先生・・・」
「大丈夫だよ。まあ、そのくらいの気持ちで一駅乗って来たら?」

そんなやり取りがあって、私は、もうやるしかないと思った。確かにそうだ。E先生の言う通りだ。死なないんだから、やってみよう。急行とか特急に乗る訳ではないし。
私は、先ず、駅のホームまで行く練習をした。最初は、入ってくる電車を見ると体が固くなり動けなかった。
でも、何回か繰り返すうちに、ホームに居ても構えなくなった。

さあ、いよいよ本番の各駅停車だ。私は、バッグの中に、「私は、死なないのでほっといて下さい」と書いた紙を持っていた。
一歩、電車に踏み入れた途端に、嫌な感じがした。「死なないんだから、大丈夫。一駅だけだし。薬も飲んでるし。」自分にそう言い聞かせながら、ポールにしがみついた。凄く長く感じたが、隣の駅までは2分だった。
ホームに降りた時、嬉しくて涙がでた。ベンチに座って小一時間ほど、行き交う人々や電車を見ていた。

そういう小さな努力を積んで、やっと各駅停車に何とか乗れるようになったが、調子悪い時はダメだった。

しかし、契約した会社にはどうにか行けて、週三日は好きな仕事が出来るようになった。薬様様だったな()

E先生に出会えてから、5年経った頃「自律訓練法」を薦められた。やり方を教えてもらって、自分で出来るようになった。これは、結構、効果があった。リラックス出来るし、体調も良くなるような気がした。

丁度その頃、主人と相談してインターネットを始めた。パソコンはあったが、何故かエクセルとワードとゲーム位しかやっていなかった。
インターネットを始めた事が、その後の私の人生に転機をもたらすとは、・・・・

 

 

 

薬を飲んで、電車に乗り、仕事も家事も何とか出来るようになった。夫には「無理するな。」とか、「埃じゃ死なないから、もうそのくらいにしなさい。」とか、「茶碗なんか、明日、洗えばいい。他にも一杯あるよ。」とか、本当に沢山の助言を貰った。(感謝)

発作も本当に大きなものは出なくなった。ただ、寝つきが悪く、E先生に相談したら、眠剤を出そうか?と言われた。私は、「いえ、何とかします、違う方法で。」と断った。

私が心がけた事は、早寝早起き、規則正しい生活、食事、軽い運動などだった。キャベツの芯やレタス、ホットミルクなどが寝つきを良くすると知って早速試した。たまねぎを半分に切って枕もとに置いたり、ラベンダーの香りを振りまいたり、そんな努力をするうちに、だんだん寝つきが良くなった。

予期不安や軽い発作が起きても、自分と対話する事によって、随分違うと言う事を発見した。
水を飲んだり、顔を洗ったり、外の空気を吸ったり、いろいろ試して自分が楽になれるような事を探した。
もちろん、頓服は真っ先に飲んだが(^_^;)

大学から帰ってきた娘が、「ねえ、ママ。催眠療法って知ってる?ママは単細胞だから、結構いいかもよ、催眠療法。」と言ってきた。
「催眠療法」・・・催眠術かな〜? 嫌だな、そんなの・・・
その時は、そんな感じで終わってしまったが、「催眠療法」という言葉は、私の脳裏にしっかりと焼きついていた。

暫くして、ふと「催眠療法」ってどんなのかな?と思い、ネットで検索をかけた。
いろいろ見つけたが、何しろ料金が高いし、場所が遠い。あれ?ここって、何だか優しい感じだな・・・と、ひとつのサイトが妙に気になった。
無料でメール相談できると書いてあったので、早速メールを送ってみた。
そのK先生との出会いが、神経症で悩む私に、信じられないような奇跡を起こしたのだった。

 

 

 

私が、K先生にメールを送ってから、一週間ほどして返事が来た。詳細を訊きたいので、電話をして欲しいという内容と、催眠医療学会でアメリカに行っていたので、返事が遅れて申し訳ないという内容だった。

私は、主治医のE先生の所に行き、訊いて見た。

「先生、薬を飲み始めてもう、かれこれ6〜7年経ちました。確かに、症状は安定してあまり大きな発作とか、出なくなったし、快方に向かっていると思うんですが、このままでは何時になったら薬と縁が切れるのか分からないので、催眠療法をやってみたいんですが、・・・・」

「催眠療法ね。良いんじゃない、宛はあるの?」

「はい。ネットで見つけたんですが、すごく感じ良いと思った先生がいらっしゃるので、とりあえず受けてみたいのです。」

「そうだね。いろんな療法があるから、自分に合ったものを見つけるのは賛成だね。薬は、あくまで、症状を押さえたり、快方に向かう手助けをするものだから、自分で治すという気持ちが無かったら、治るものも、治らないからね。やってみたら?」

「ありがとう。良かった。E先生には、何でも相談してからと決めてるので。また、報告しますね。」

主治医の了解を得た私は、ウキウキとした気分でK先生から指定された時間に電話を入れた。
気になったのは、料金だったが、今まで見た料金とは比べ物にならないほど安かった。約4分の1。
電車が苦手で、通えないと言うと、電話でも出来るから安心してくださいと言われ、本当に助かった。

料金を振り込むと、催眠療法についての詳細がメールで届き、私の診療予定が書かれていた。
要するに、その時間に電話をすれば良い訳だ。

未知のものだし、半信半疑だったが、もう、藁にもすがる思いで、
指定された最初の診療時間に受話器をとった。

最初に、今までの経緯を詳しく訊かれ、「パニック症候群」って聞いたことがありますか?と言われた。私が知らないと言うと、「今の状態は、不安神経症と言って良いでしょう。似たようなものですが、あなたの初期の頃は、過喚起症候群だったと思われますね。そして、パニック症候群になり、鬱になり躁鬱になり、・・・現在は、おそらく不安神経症、まあ、パニック症候群と言ってもいいですが。」
はぁ〜・・・なるほど・・・

ここで初めて「パニック症候群」という言葉を耳にした。

「K先生、私あるクリニックで、この症状は完治しないと言われました。今の主治医には、怖くて訊いてません・・・」そう言った。

「大丈夫ですよ。必ず良くなります。治るも治らないも、あなた次第です。あなた自身が治して行くんですよ。薬なんかいりません。でも、不安だったら、薬を飲みながらでも良いですから、催眠をやってくださいね。実際、私自信も、不安神経症から、自己催眠で立ち直りました。今、80歳ですが、元気ですよ。風邪も引きません。」

「・・・・・・・」涙・・・口では表現できないほど、嬉しかった。

 

 

 

催眠療法は、全部で10回だった。10回やっても、進展がみられなかったら、後の追加分は料金はいらないとK先生に言われた。

治療してもらいながら、自己催眠を練習した。自分で治すという気持ちを持つと言う事を、再三言われたので、真面目に毎日、時間を見つけては練習した。
最初の三回は三日置き、その後から5日置きになった。

最初は、慣れない呼吸法とかのため、苦しかったりした。本当に、こんなことで良くなるんだろうか?と疑問にも思った。安いし、仕方ないか・・・でも、折角だから騙されたと思って、真剣にやろう・・・
そんな程度だったなぁ〜苦笑

根が単純、真面目な私は、とにかくせっせと練習した。家族も、興味津々と言った感じで、見守ってくれた。

4回目の電話をかける頃、私はある変化に気づいた。凄く気持ちが楽だし、体調も良い。何か自分の中でもう一人の自分が、「もう、薬、そんなにいらないよ。」と、言ってるような気がした。
主治医のE先生に、その事を伝えると、ソラナックスを朝と晩にしてみたら?と言われた。

薬を減らしても、快適な日々が続いた。もちろん、何時も良いわけではなかったが。

7回目の治療を受ける頃には、朝しかソラナックスはいらなくなった。
朝、一回飲めば安心して暮らすことが出来た。
レキソタンも2ミリを貰って、殆ど飲むことは無かった。

自分で、自己催眠が出来るようになり、呼吸法も修得した。さすがに、瞬時に催眠状態に入るというのは、難しかった。(現在練習中)

自己催眠をやるようになってから、半年足らずで薬はいらなくなった。
主治医であるE先生は、予期不安とか、とにかく不安が出ると、完治に遠のくので、変だと思ったり、電車に乗る前、嫌だったらソラナックスを頓服だと思って飲みなさいと、二週間分処方してくれるようになった。

ほぼ、完治に近い状態。嘘のようだ。騙されたと思って、いろいろな事をやってきたが、最後に巡り合った催眠療法は本物だった。
その日、私はお赤飯を炊いて、尾頭付きの鯛を焼いて家族でお祝いした。
嬉しくて、泣いてしまった。

まだ、完治とまではいかない。特急や急行、飛行機は怖くて足が向かない。でも、各駅停車だったら、薬を飲まなくても乗れるようになったのだ。もちろん、ソラナックスはお守りのようにもって歩いたが、・・・・

記念すべき、2001年、秋。私の心も秋晴れだったな・・・

 

 

 

 

頓服だけで生活できるようになった私は、母に電話して、約束をした。
「来年の夏は、絶対に帰るからね。お父さんのお墓参りも10年してないし、・・・待っててね。きっと、今より、良くなってると思うから。」

年が明けて、春になった。その頃には、頓服で貰ったソラナックスも、殆ど飲まなくて済むようになっていた。E主治医の所にも、だんだん足が遠のき、調子も良く、仕事のほうも、某有名ブランドの顧問として迎えられ、新人教育を進んで買って出た。

そんな時、母が入院すると言う連絡が入った。足の付け根の骨の手術をするということだった。歩行が危ういので、手術をすれば治ると言っていた。
私は、じゃあ、お見舞いにいかなきゃね、と言って電話を切った。

4月になったある日、弟から携帯に母危篤の知らせが入った。すぐに、四国にいる妹に電話したら、車で帰るから明日の朝までに来れない?と言われた。
正直言って、焦った。
新幹線、大丈夫かな?
夫に連絡したら、一緒に行くと言う。松山まで夜行バスがあるからそれに乗ろうということになり、時間も無かったので慌ててターミナルへ向かった。

とりあえず、ソラナックス0.4を1錠飲んだ。初めての夜行バスだった。
思いのほか、楽に乗れた。朝、「ほら、見てごらん。海が綺麗だよ。」という夫の声で目が覚めた。
瀬戸大橋の上だった。

フェリーで九州に渡って、車で更に南へ。
やっと、病院に着いて、母の待つ病棟へ向かった。途中で、弟に会ったら、持ち直したという事を聞いて安心した。肺炎を起こしたらしい。
病室に入った途端、人工呼吸器をつけた母の姿を目の当たりにして、夫と二人で呆然と立ちすくんだ。
母はリュウマチに冒されていて、手足が異様に曲がっていた。私が知っている母の姿は、10年の間に、可哀相ではすまない位に変わり果てていた。

そのまま、ひと月ちょっと病院のそばのホテルをチャーターし、昼夜付き添った。ホテルはシャワーを何回か使っただけだった。

私のパニック障害は、睡眠不足であったにもかかわらず、一回も出なかった。

 

 

 

人工呼吸器は、口から咽喉を切開して、そちらに付ける事になった。母にとって、そちらの方が楽かもと思ったのだが、痰がからんだときは、いちいち吸い取ってもらわなきゃならないので、可哀相だった。
ある日、りんごが食べたいと言うので(私が50音順にひらがなを大きく書いた画用紙を作って、指で指して訊いていた)りんごジュースをストローで、ほんの少し含ませると、にっこりして美味しいと言ってくれた。
少し元気を取戻したようだったので、仕事のことや、うちのことが気になるから、一回東京に帰って、またすぐ来るからね、と言って、帰ることにした。

帰りはどうしよう・・・・
頭の痛い問題だった。宮崎まで車で行って、特急寝台で京都に出て、新幹線のぞみに乗ろうと言う事になった。
弟が都城まで車で送ってくれて、都城で私の旧友に会い、そのI君が宮崎まで送ってくれた。
薬剤師の彼に、事情を話してみたら、ソラナックスを2錠飲んだらどうかと言われた。
平気?って訊くと、飲みすぎて死んだとかいう話しは聞かないから、大丈夫だよと。でも、そんな薬、あまり飲むなよ!とも言われた。
言われた通り、ソラナックスを2錠飲んで、寝台特急に乗った。

出た!
自分の席に行く途中も怪しかったが、バッチリ発作の前触れ状態・・・
電車は走り出してしまったし・・・・
夫がそばで、横になったらどうか?とか、タオル絞ってこようか?とか、気を使ってくれた。
「催眠やるから・・・」
そう言って、横になり自己催眠を始めた。
暗示の言葉をイメージする頃には、すっかり落ち着いた。良かった〜。
夫は、何時電車を止めてもらうか考え中だったらしい(汗)その後は、全く平気で歯磨きをしたり顔洗ったり、夫と母の話をしたり、夜も更けたので、自己催眠をやりながら眠った。

朝は、気持ち良かった。何事も無く京都に着いた。京都駅で、アッ君にお土産を買って、のぞみのホームへ。いや〜、参った。ホームで、体が重くて動かなくなり、不安が襲ってきた。未だ、30分あったので、ソラナックスを1錠飲んだ。
夫が、「京都に一泊しようか?無理しないで。」と言ってくれたが、「いや、乗る。もう、どうなってもいいから乗る。死なないんだし。」
重い足を引きずるように、新幹線に乗り込んだ。座って、自己催眠をした。
隣の人の良さそうなお姉さんと挨拶をし、話してるうちに、すごく打ち解けてしまった。
いろいろ話してるうちに、東京駅に着いた。
凄い!やればできるじゃん!
その後は、もう本当に楽だった。特急に乗り換えて、また急行に乗り帰宅。

その日から、自信が着いたのか、電車は怖くなくなった。ただ、家族と一緒じゃなきゃ、急行&特急は乗らなかったが(苦笑)

 

 

 

東京に戻ってから、数日してそろそろ実家の方に行かなきゃと思っていたら、弟から電話が入った。母の様態が急変したので、すぐ来て欲しいとの事だった。
私は、かなり焦った。
すぐに家族に連絡して、飛行機のチケットの手配をし、E先生に電話して、事情を話し、薬を処方してもらう事ができた。「レボトミン」という薬だった。思考を停止するらしい。ちょっと怖かったが、そんな事は言っていられない。
先生が、ソラナックスでもいいけど、途中で挫折したらいけないから、メイラックスの方が長時間効くし、メイラックス飲んで羽田に行った方が良いとおっしゃるので、言われた通りにした。

まあ、全く記憶喪失・・・どうやって乗ったかも覚えていない。とにかく、記憶にあるのは、飛行機が目的の空港に着陸して、すぐに弟の携帯に電話を入れたら、「急いで。」と言われたのと、市内をタクシーで走っていたら、「間に合わなかった、そのまま、実家へ向かってくれ。」という弟からの連絡のみ。

覚悟はしていたが、切なかった。車を降りて、懐かしい景色を見た時、無性に子供の頃にかえりたいと思った。

母の葬儀を終え、初七日を終えて、また、飛行機で帰京した。薬のおかげで、全く記憶無し・・・
何故か、私の手帳のアドレスとかが綺麗に書き直してあった。私の字だからきっと私が飛行機の中で書き直したに違いない。

父65歳、母70歳・・・早過ぎるよ・・・うちは、割と長寿の家系なのに。

母に会いたい、その思いで、一生懸命やってきたいろいろな事が、意味をなさなくなった。まるで、糸の切れた凧のようにフワフワと毎日を過ごした。仕事は相変わらずだったが、何かが足りない、そんな気持ちだった。

母の思い出に明け暮れて、まだ哀しみに浸っている頃、仲の良かった従妹が自殺した。
ショックだった。
私の母に良くいろいろな相談をしに来ていたらしかったので、母の死も影響したのかもしれない。どうして、私に、一言何か言ってくれなかったのか・・・
優しい子だったから、私のPDを気遣ったのか・・・悔しかった。何も出来なかった自分が、本当に悔しくて仕方が無かった。

 

 

 

母が亡くなって、5年が過ぎた。いろんな心の葛藤があったが、仏壇に飾ってある写真(両親の)を見る度に励まされているようで、だんだん、元気を取戻してきた。
私も、「そうだよね。沢山の悪いものを、とうさんとかあさんが持って行ってくれたんだから、私は感謝してこの健康を維持して、少しでも長生きしなきゃね。」そう思えるようになった。

今は、本当にオアシスに居るようだ。あの、酷かった頃に比べたら、夢のような生活だ。
ここ2年くらい、更年期障害になって、確かに体調の悪い時もある。昨年、顎下腺腫瘍の手術もしたので、全身麻酔のせいか、何だか分からないが、更に体調不良の日が増えた。
主治医に相談したら、当たり前だと言われた。()

そうだよね、卵大のものを切除したんだから、血管や神経の密集している場所で。
運良く、良性だったし。

以前から、更年期も自律神経失調症だから、もしかしたら重いかもしれないよ、と言われていたので覚悟は出来ていた。
しかし、ソラナックスで対処できるのなら、婦人科でホルモン剤貰わなくてもいいよ、と言われた。
思ったほど、酷くない。寝込んだりもしない。
現在は、体調の悪い時はソラナックスを半分に割って飲む。それでOK。
催眠療法の暗示もだんだん更年期の暗示に変わってきた。()

特急と急行には、一時期乗ったが、自宅勤務(自営)になって、忙しいからと言うのと、私がパニック障害だと言う事を、伝えているせいか、殆どこちらまで来てくれる。
おかげで、電車のリハビリをストップされて、チャンスを失ったままだ。
乗らないとおかしなもので、躊躇してしまう。電車は月に1〜3回しか乗らない。
私が、「行きます。」と言っても、「いいですよ。こっちから出向きますので。」
喜んでいいのか、悲しんでいいのか分からない(苦笑)

まあ、急行や特急には、そのうち乗れる。乗ったら意外と平気な気もする。自己催眠とお守りのソラナックスがあれば。
私の、現在の目標は、薬無しで特急や急行、飛行機に乗ることである。
それが出来れば、「完治」だと思う。

更年期障害よ、早く去れ!どっちなんだか良く分からん(笑)

これを読んでくださったみなさん。

【パニック障害は、必ず良くなります!】

私は、断言できます。自らの体験を持って、ここに証明いたします。
「自分の自然治癒力を信じて、自分で治す努力をしましょう。」
今は薬を飲んでいても、何時か笑って話せる日が来る事を、しっかり心に刻んでくださいね☆