父の介護記録編
 



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千の風になって


2006 07/02 通夜・告別式

6月30日の臨終後、丹沢病院のスタッフが、遺体の洗浄、死に装束までの支度をしていただき、安置室に移動して、父を自宅に連れ帰るのに富士見斎場に連絡が取れたので、0時半ごろ四つ角に戻る。 富士見斎場は空きが今日1日明日2日しかないので玉宝山(水野葬儀社)に連絡、通夜・告別式の打ち合わせを2時半頃帰る。
7月1日朝早く7:00、菩提寺の龍門寺で住職と通夜・葬儀をお願いして、院号居士の格式と布施(100万)付け届け(年4回2万から3万)位牌の手配(刻みではなく塗り)、49日法要(7月17日だが7月6日(日)の日取りなどなどを打ち合わせ戻り、8時に死亡診断届と火葬許可を出す葬儀屋に連絡。午後に葬儀屋とお返しの品の手配、橘屋でお茶3300円・金井酒造500円・葬儀屋でシュガー210円・会葬御礼70円を300人(祖父の葬儀人数と金曜日の急逝で連絡不十分で減ると判断)と通夜の清めの料理(12セット*24150円)、告別式の清めの料理(33人*5145円)の手配をした。

2006 06/30 父、逝く!

昨夜11:45’頃「肺炎で点滴をしている」と連絡を受け、今日、母と富枝が午前中見舞い。夕方6:30に私も見舞い、呼吸が荒いと感じながら食事から戻ると病院から連絡で駆けつけると危篤の状態なので知らせられるところには知らせよということで知らせられるところは知らせた。残念ながら10:09’に逝ってしまいました。丹沢病院の皆様に大変お世話になりました。故人の冥福を祈るとともにお世話になった皆様に御礼申し上げます。・合掌!・・

2006 06/25 父、帰る!

2年前の今日、脳卒中を起こした父、この所病状が安定しているので外出を許可されての帰宅、今年の正月と4月は危ない状況があったが帰宅できるまでに回復した。10時に連れ帰り母が車椅子で屋敷内・完成したアパートを見せていた。母もうれしいのであろう。妹二人も来て、奈良の華奈ちゃんも10時半にライブ映像で登場。父は3時半まで我が家で楽しい時間を過ごした。

2006 6/18日 食欲旺盛


父の日ということで午前中に見舞い、昼食を介助する。2・3日前に富枝に「皆に迷惑をかけてすまん」と言葉にならない言葉でしゃべったそうだがこの日は静かであった。眼光はしっかりしている。次の日曜日は外出を許可してもらおうと考えていると話すが理解したか定かではない。

2006 5/28日 食欲旺盛


車椅子で過ごせるように回復し、今までより食べるようになった。2週前には昼間はすごく元気であったのに夜10時、意識がおかしいとして東海大に緊急搬送されたがその夜のうちにもどり、食事にレトルトおかゆがつくなど元気で安心だ。

2006 4/30日 華奈ちゃん


明幸親子が見舞う。ベッドの向きを変えて窓越しの面会になった。赤ちゃんに感染症を移さないため、当初は見える位置の角度の関係で見えているかわからなかったが、「かわいいイ」、「かなちゃん」「○金をやって」というの、来た甲斐があったと明幸も華代さんも喜んでいる。今日は点滴もしていないし、返答がはっきりしていた。

2006 4/19日 5度目の肺炎


17日には回復傾向なのでIVH施術は行なわれなかった。本日はゼリー食を食べ始めたということで一安心、何とか完成のアパートを見せたいものだ!。

2006 4/15日 5度目の肺炎


2・3日前から低体温で元気がないと聞いていたが、昨日から熱が出て食事が充分ではないので点滴をはじめたと聞いていた。今日、10時ごろ病院の高部DCから「月曜日にIVHをしたい」と電話が母にあり、3人で病院にいく、病状は年末年始よりいいので月曜日の様態で判断するよう打ち合わせて戻った。

2006 4/03日 花見?!


病院の庭の桜が満開になりそうな状態を土、日に見ていたが寒いのと、雨模様というので止めていたが、妹二人が連れ出してくれた。タイミングがあることなのでとても喜んでいる。父に代わって礼を言いたい。

2006 3/20日 誰も行けないと?!


富枝が仕入れに行くので母も行けない、富枝が、仕入れから戻り、急いで、見舞うと「誰か来たそうだ。家に帰った富枝がそういうので「俶子ちゃんだろう」、電話で確認し礼を言った。ありがたいことです。食事の介助もしていただいた。元気のようである。

2006 3/19日 彼岸!


昨日お彼岸の墓の掃除をしに行った。祖父の墓参りを欠かさなかった父なので、掃除を妻と一緒にやりながら何とか元気にいて欲しいと念じている。病院に4時にいきたが元気はいいものの血色が白いので酸欠気味なのか心配だ。痰が絡むので吸引をしてもらい、帰りに看護師にお願いして帰ってきた。

2006 3/04日 足の具合!


正月の肺炎以来、意識レベルがうつろな感じになり、歩くとか投げることの意欲も低くなっていたが、最近廊下の出口のガラスドアーを足で押すような動作を意欲的にやるようになった。 車いすに座ったまま左足でも押すのである。以前の左足の麻痺の状態よりいい気がするが残念ながら足の筋肉が衰えているので歩くつもりはないようだ廊下を伝い歩けるようになるといいなと思うのだが

2006 2/18日 2週間ぶり!


物置の片付けに追われ父に会うのは2週間ぶり、おとなしくなったと聞いていたが、確かに元気は元気!、感情表現が弱くなった分1回りしぼんだようだ。

2006 1/24日 ぜりー食に!


痰の状態や肺の状態がどう回復したかわからないが、富枝の話だとゼリー食に回復したそうだ。どこまで回復するか、インフルエンザが流行り始めたので要注意、予防摂取はしてあるそうだが、

2006 1/21日 顔色もよく!


最近の中では顔色が一番良いし、気力も回復してきたが、痰が絡むらしく辛そうである。主治医から食べ物はきちっと回復するまで「心を鬼にして」食べさせないように言われた。

2006 1/14日 様態確認5!


だいぶ良くなり今日は酸素吸入がはずされ、点滴も1つになった会話は今日は力ないが応じている。幾分体が冷えているので看護師さんに伝えて戻る。

2006 1/11日 様態確認4!


昨日、袖にされたので今日、母と富枝が病院に行くと、経過はよいが肺膿腫の水泡を専門医で除去する転院を含めた治療方針を明日、別の内科医の意見を聞きながら判断する旨であった。

2006 1/10日 様態確認3!


連休明けにIVHの判断をするように言っていたので妻と妹で病院へ行くと担当医がきていないということで明日に見送ったという。状態が幾分改善したので無理に出勤日ではないのでそうなったらしい。なんとなく誠意のない感じがするが改善したということで納得している。

2006 1/05日 様態確認2!


内科医が診断する日なので11時頃病院へ行く、ちょうどレントゲンを採って病室に戻ってきた。顔色は良いとはいえないが昨日より意識レベルが良い。しばらくするとドクターがお話をと言っていたが美枝子・裕子姉妹が着たのでいばらくしてからドクターと話す。 気管切開や人工心肺での延命治療を望むなら転院の対応をするけどどうしますか、患者の病態は肺炎でしかも膿腫の病変もあるので今までの肺炎より重篤であるが、点滴と抗生剤治療・経菅栄養と抗生剤・IHV鎖骨下より食道に直接栄養挿入などの対応はできるがどうするかというのだ。転院をしても治療の方法に変わりはないというので転院しないで最善の方法でとおねがいした。この連休中が山場で抗生剤を投与して連休明けにIHVの検討をするようだ。今日の状態は比較的いいので連休明けが正念場になるであろう。何とか生きられるなら生きて欲しい。

2006 1/04日 様態確認!


朝8:30’頃母に病院から連絡が入った旨の連絡を母から聞く、当直医の引継ぐので今後どうするかを協議してほしい旨のようだ、9:30頃病院へ昨夜より酸素分圧も回復して熱も7度代に下がっていると告げられ、本人の様子を見る。昨日の昼よりは夜、点滴をはずしたりして血尿が出たりで夜は悪かったが今朝は落ち着いている様子。我々の問いかけには28日頃の反応よりいい感じがする。このまま明日の内科医高部ドクターの診察にゆだねることとして帰る。

2006 1/03日 娘夫婦と!


娘夫婦が帰る前に病院へ昨日より反応はあったようだ、夜pm11:00になって母が病院より電話でタンが取れないのは膀胱炎から来る可能性があるので炎症を抑える薬剤を投与の了解を求められたとのこと、病院え問い合わせるか間や追ったが明日にすることにした。

2006 1/02日 母と3人で!


母と3人で見舞う。昨日より状態は静かであり、看護婦さんに何故衰弱が進んでいるのか、どれぐらい持つのか聞いてみたがよくわからないとの話。

2006 1/01日 初詣!


父を見舞う前に曽屋神社に初詣、破魔矢を我が家と明幸用に交付してもらい病院へ、ベッドを45度の角度で起こされた状態で寝ているが起きているようだが眠そう。呼びかけに応じるが昨日ほどではない状態であった。

2005 12/31日 意識レベル回復!


顔色も戻りベッドには寝ているが回復傾向、「カロリーが足りないのでは」と看護婦に尋ねると足りているという。「プリン食べさせて良いか」と聞くと薬のとき喉につっかえていたので、と断られた。

2005 12/30日 意識レベルが低下!


昨日は夕食時間に母と見舞った。テーブルに向かっていながらうとうとしている。「風呂に入った日は眠いのかな」母とでも変だね、食事を自分で食べないので食べさせたらほとんど食べたのでそのまま帰ったが今日はナースセンターに入ると岡ドクターから「朝から低体温で応答が少ないので通常の薬は止めて点滴です」と言われる。妻から最近衰弱が進んでいると言われていたがここまで来たのかと閉口した。妻は厳しく受け止めている。しばらく推移を見守るしかないが大晦日を控えなんともいえない気分。

2005 12/23日 静かな面持ち !


この二日間は富枝が風邪を引いているので母が見舞う。今日は私一人で見舞う。キクの一人部屋に居たが声をかけても眠いのか返事が無い。プリンを少し食べたが要求しないので無理に食べさせないで病棟の廊下を一回りして戻り、静かなので、「帰るよ」と声かけをすると「ウン」と返事した唯一のコミュニケーション、テレビを見ている状態で別れた。

2005 12/13日 ひ孫の誕生を認識しているらしい。 !


美枝子さんと富枝で見舞うと1月末に生まれると言ってたり、食べ過ぎないようあらかじめ食べるとプリンを全部よこせと怒ったり、状況の理解がはっきりしていたらしい。

2005 12/03日 マラソン大会で遅れる !


母が父の食事の様子を見たいとかねてより行っていたので11時に着くように出かけたところ秦野市の市制50周年記念マラソンの列に出会いストップをかけられ着いたら11時20分すでに食事が終わり昼寝に入っていた。声をかけるが眠そうで応答しているうちに寝たので帰ってきた。午後から雨模様で寒い日になった。

2005 12/02日 俶子さんとでくわす。 !


午後3時過ぎに二人で行くと静かにテレビを見ていた。サッカーJリーグの決勝戦を見ていた。

2005 11/23日 久しぶりに荒れていた。!


母と見舞うと、腕をつかみ何か訴えるが、大声で何か言う。意図がわからない、寒いのとかお金と聞くが、、、プリンを食べさせるが母に向かって吐き出したり情緒不安定、鉛筆とノートで何か書かせると少し落ち着いたが

2005 11/13日 つまらない!


昨日・今日と久々に2日続けて見舞いました。昨日はいつもの元気さであったが今日は3時に行くと静かであった。部屋ではタオルでのキャッチボールは積極的であったが廊下での歩行はすぐ止めてしまう。部屋に戻ると「つまらない」という。心情表現はめづらしい。字を書かせようとしたら数字に丸で囲めた。文字のバランスを認知具体化できるのである。以前も漢字を読んだりしているので機能は回復しているのかも。あまり精神薬を飲まないほうがいいのかもしれない。

2005 11/07日 漢字を!


11時に病院に着くとすでに昼食を終わっていたようで、静かである。電卓やノートを持っていったのでやらせようとするといやいやをするので止めて、裏側の廊下の明るいところで手すりにつかまってたったり、タオルのボールでキャッチボールをした。ホールに戻ると眠そうなので 病室に寝かせて戻る。3時ごろ裕子さんと美枝子さんが見舞ったそうでそのときはノートに字を書いたそうだ。ありがとう

2005 10/29日 車椅子から立つ!


元気に食事できるようになったがまだおかゆではないがペンを持たせば字にならないが書こうとするし、今日は幸枝が来ていて「韓国の焼肉はおいしかった」と聞くと反応していた。廊下で1・2分立たせてみた。看護婦の皆さんもニコニコ笑顔で見守っていた。

2005 10/22日 車椅子に復帰!


ベッドに寝たきりの状態から車椅子に復帰したそうです。食事も重湯やプリン状の食事を自分で食べるように戻しているようですが嚥下がスムースではないようだ。

2005 10/10日 嚥下性肺炎!


先週の月曜、病院から電話で、ベッドで吐き、熱がある。肺炎の可能性が高いと連絡があり、母と妻で病院に行っていた。ベッドに寝ている状態が1週続いた。息子・娘夫婦も今日見舞いをした。病状は回復してきた。

2005 10/01日 落ち着いた父!


私が夏風邪で咳をしていたので妻に任せて、極力病院へ行かないようにしていたが今日は咳があまり出ないので妻と病院へ、丹沢病院に変わってから、あまり大声で騒ぐような様子は無い、ただ動きが少なくなった、電卓やノートで字を書くなどの道具が無いのとテレビが部屋にあるのでテレビを静かに見ている状態なので手はかからない分行動的ではなく歩く意欲も落ちている。食事は前の病院より内容も漁もよいように思う。

2005 09/18日 仙波夫妻見舞い!


仙波夫妻が1時半頃家に来ました。家を出てから渋滞で3時間かかったそうです。本当に申し訳なく思います。よく見舞いに出かけていただいて。先週の母の祝いに対するお礼と見舞いをかねてのようですが感謝します。父は安定してるとのことです。私は咳をしている関係で1週間在っていません。

2005 09/16日 ちょっとした怪我!


見舞いに行った母からの話。昨日は元気であったが今日は患者に引っかかれたということでほほにバンソウコウのいでたちになったそうだ。熱も少し出たような話。

2005 09/12日 ちょっと発熱!


娘に帳簿の手伝いにきてもらい私が眼科に寄って帰って来たので、母子で病院へ出かけ帰っての話しでは発熱のようで嚥下障害からくる肺炎を心配しなければならないようであるが本人は元気に食事はしたようだ。

2005 09/09日 転院・初見舞い!


Pm3:15’に早退し、駅で妻と待ち合わせ病院へ行くと、食事が始まるところ、しかし、レントゲン撮影でお預けになる、撮影が終わり食事の介助をするがスプーンを口に運べない状態、手に力が入らないのか疲れていて気力が無いのか、それも薬のせいなのか良くわからなかった、しばらく、食事介助に来てみるようだねと妻と会話、食後部屋でテレビを見ているらしくおとなしいようだが、秦野病院と違い介護の人たちが忙しそうに感じるのは病人が多いからなのかと思う。微妙な病院の雰囲気がこれからどう影響するのかと思う。

2005 09/08日 丹沢病院に転院!


先週の初診を経て丹沢病院へ転院しました。妻と母で福祉タクシーを呼んで運んだそうです。秦野病院の皆さんには良くして貰い感謝しています。来月から介護保険が改正され個人負担が増えるそうでタイミングとしては良かったのかも。

父はテレビ付の個室で比較的落ち着いた様子と聞いてほっとしている。秦野病院から少し水無し川沿いを登るが渋沢行きのバスで大倉バス停近くなので母も見舞いに苦にならないと思う。

2005 09/03日 秦野病院初診 ? 


09月01日に空き待ちを希望していた秦野病院で09月08に転院可能と連絡が入り、03日に初診というので今日11時に秦野病院へ連れて行った。ケアーマネージャーとワーカーが様子を聞き取りついで主治医が病院での対応と、緊急時の対応の確認をして戻る。介護保険が改定され10月から自己負担分が増えるが月の入院費が3分の1に縮小される。

2005 08/20日 戻った2 ? 


昨日は病室のワックスがけなどであわただしく、落ち着いていなかったようだが今日は落ち着いていた。ホールで山が見える窓側(今まではベッドが置いてありいけなかった。)の手すりにつかまり立ちしている時も長者岳などの言葉が出てくる。両脇に抱えて廊下の椅子まで歩いて移動したが歩くリヅムも比較的よい。寒くならないうちに脚力が戻ると良いと思った。名札などの漢字は読めるので何とか字が書けないかと思う

2005 08/15日 戻った ! 


4日ぶりに病院にいくとはじめはうつろな感じでいたが、「うなぎを食べたい」とはっきりと解ることばがあり、その会話の前に、看護師の方から尿瓶でおしっこの訴えがあり採ったと話を聞いていた。そのことはおしっこを我慢してコントロールしていたことの会話である。初めての会話が象徴的であった。「山がきれいだ」何て山なのと問い返すと「丹沢と」はっきり言うのだ。情緒的な会話は初めてであり神経回路が再生されているように思った。今後を期待できるかも。

2005 08/13/14日 お盆休みに ! 


秦野ではこの二日間仙波家が美枝子さんと智子ちゃん、久君と淳子さんが父を見舞ってくれたそうです。今日は林裕子さんと祐希ちゃんが墓参りと父の見舞いによって頂いたそうです。

2005 07/29日 納涼の集い  


金曜日で昼間は裕子さんと富枝が見舞い、夕方母が集いにつきあうというので帰りに寄った。病院の広場で近所の婦人会の盆踊りや太鼓の演技があり、病院の集いとしてはかなりの規模だった。父は半分眠そうではあるが淡々と見ているのかわかっているのか表情はつやもありいいほうである。少し早めに病室に入れて花火の片づけを横目に見ながら帰ってきた。

2005 07/18日  


昨日あまり元気が無かったというのを母に聞いていたので、気にしていた富枝と2時に病院へ、ベッドに休んでいたが、血色もよく良く話した。意味は不明だが意図的な発言をしている。起こしてヨーグルト飲ましていたらおやつが来た。そのババロアまで平らげた。便秘ぎみだというから良いのではと思う。富枝が奉仕会の泊まりがあるので3時には帰ってきた。

2005 07/9&10 2日とも  


このところ積極的に歩かない父だが、4時前後に行くとベッドに横になっていることが多い。歩きたがらないのでキャッチボールになるがこれはまだ反応できるようだ。土曜日は介護士の方のトランペットが聞けた。癒される感じに感謝

2005 07/02日 幸枝と  


幸枝が久しぶりに見舞ったがあまり意識した会話はできなかったようである。私も今日はいけなかった。

2005 06/25日 午前の見舞い  


じばさんずに寄ってから病院へ11時15分頃に寄るとホールにいて静かに鉛筆を持って字を書いている。声をかけても無我の境地で続けている。字にはなっていないのだが何を念じながら書いていたのだろう。静かで仏のようでもある。新しく入ったクランケが騒いでいて対照的だ。部屋で牛乳を飲ませていたら昼食だというので食事を介助11時半からの昼食であった。昼食後すぐにベッドで寝ているというので帰ってきた。あまりにおとなしいので気になり頭を触るとほのかに暑い、看護師にちょっと熱があるようですと伝えて戻る。

2005 06/19日 父の日!  


父は美枝子さんの手を引っ張っている。治茂さんは自分の母を毎週見舞っているので、妻の父親にも同じようにかかわろうとしてくれているありがたいことだ。父も帰りがけに「ありがとう」と言える。そんな訳で次の病院の対応が難しい。

2005 06/14日 本降り!  


梅雨らしい日だが早めの帰宅なので妻と病院へ、午後4時過ぎだが寝起きという。2日前に血糖値が低いので間色許可が出た。アロエヨーグルトとカステラを食べてホールに移動すると久しぶりに自分から歩くという。ビーチビールをけったりホールを6往復したりで、結局5時半までいて「帰るよ」というとうなずき納得している。久しぶりに意思の疎通ができた。

2005 06/4・6日 暖かくなって!  


土曜の夕方に久しぶりに父にあった。最近は積極的に歩かないのだがボール遊びで左手は指が開くようで、腕の挙上も以前よりできる。意識レベルはその日の体調や、薬で違うと思うが、このところ体調も良く肌の色艶もよい。立つことを嫌がらなければ歩行も戻るとは思うが本人の意識の問題だけになんとも仕様が無い。病院スタッフは他の患者やより家族が来てボール投げなどをやるので介護士や看護士も歩行やボール投げをさせてくれてるらしい。6日の月曜は裕子、美枝子の妹も来て外の散歩も楽しんだそうだ。

2005 05/13日 車椅子の移動  


このところあまり歩くことに積極的でない父が今日は右手で車椅子で移動を試みたそうだ。自分で移動することに何かメリットを感じたのか、歩くより楽な方を選んだのかわからないが?

2005 05/07日 昼食後  


林夫妻が箱根の帰りに母の日と父の見舞いを兼ねて見舞ってくれた。夫婦の引越しの慰労をかねての温泉保養の帰りに。病院の昼食後に見舞ったので父はぼんやりとした感じであったが、昨日は仙波夫婦が見舞い連日の見舞いでなんとなくいつもと違うので当惑しているような感じであったが、林夫妻の帰りの時間のこともあるので廊下を一周歩かせて帰る。

2005 05/02日 遅く行ったので  


1日中家賃の帳面の転記ソフトをいじくっていたら遅くなってしまい食事介助をして帰ってきた。食事の食器を扱うとき左手の指が開くようになってきているように思う。食後に薬を飲むのですぐ眠たくなるので歩いたり、ボールを投げないでベッドに寝かして帰ってきた。

2005 05/02日 智子ちゃんが見舞ってくれた 


平日に休めた智子ちゃんが父を見舞ってくれたそうです。父もわかって喜んだと思います。体育会系なので丹沢湖マラソンなど走りたいそうです。

2005 04/29日 顔色も良く! 


最近は顔色も良く元気な状態が続いているが自分から歩くことは嫌がっているので運動はキャッチボールぐらいだが、やっていると左手の腕があがり、指も開こうとして麻痺が少し改善するようなので見舞いに行くと必ずやるようになっている。本人もストレス解消でよいようだ。糖尿病も改善されていて血糖値も100を超えないのでおやっを食べさせるのも公認されたので堂々とバナナとコーヒーを飲食もした。帰りは「ありがとう」といっているので「帰りたい」と言わないのが不思議だ。

2005 04/15日 元気過ぎるのか! 


3月末が忙しく、つい、4月も記録が滞ってしまった。最近は投薬の影響か自分から歩こうとしなくなり、つい座っている時間が長いのか看護師さんや介助師につねったり八つ当たりをするということでミノン手袋をされることが増えてきた。アルツハイマーで進行すると攻撃性が増すようで予防薬も処方されていると思うが仕方のないことか?

2005 03/21日 元気回復! 


11時半頃、父を見舞いに明幸夫婦と病院に、心配していた昨日の様子と違い、食事を全部食べ、明幸に話し掛ける、週末に沖縄へ飛ぶ関係で心配したがまあ大丈夫であろう。

2005 03/20日 元気がない! 


12時45分頃、病院に行くと目やにが両目についていて元気がない。看護師さんの話で2・3日前から看護師さんをつねるなどの攻撃性を抑えるため薬を変えおとなしくなっている、夕方の方が元気が良いと、精彩がないのと痰がのどにからむので肺炎など心配である。幸枝の婚礼を控えているので元気で居て欲しいと思う。

2005 03/14日 父の常任委員解任! 


症候会議所の常任委員同僚が見舞い、常任委員の継続の見極めに来たそうだ、継続による会費負担の問題もあるので解任の方向で進む。代わりに富枝が入るが会費は少なくなると思う。

2005 03/08日 母の検査入院を話すと静かに! 


1時に東海大の母の検査結果を聞きに行ったら、夕方にしてくれと言うので戻り、父のところへ、食堂ホールに車椅子が倒れないように縛られているが元気で大声を出していた。声をかけて話すと静かになり話をするがなんと言っているがよくわからない。背中が痒いと言うので背中を掻く、水谷安子さんが最近の様子を話してくれた。家族と看護師と対応が違い看護師には力いっぱい腕を握ったりで、困るときもあるとこのことは他の看護師も言っていたことなのでわかっている。気持ちが伝わらない時などの心情や感情が出るのだろう

2005 03/06日 空腹が辛いようだ! 


田舎に行っている間に母が熱を出し店を土曜日は閉めていたそうだ。母もこのところ体調不調で父に会っていない。月曜日から2・3日検査入院するので父に話したら父は心配して気になる様子である。我々が病院に来た時は腹がすいたと大声でさわいでいたが!

2005 02/27日 頭を使っているのか? 


昨日も積極的には歩こうとはしなかったが立ったり座ったりをしていた。歩くのが面倒なので、立ったり座ったりでごまかそうとしているのか?、今日は意識レベルはおとなしく静かであるが車椅子とベッドの間で体の捌きを繰り返した。ごまかそうとするのも高い意識だし、繰り返すことに前向きなのも納得いくが歩くときの足の出具合は足が上がらなくてジリ貧な気がする。

2005 02/10日 薬を増やして安定 


8日の日に妻に新井先生が薬を少し増やして様子を見ると言う事であったが、見舞いに裕子・美枝子姉妹が来た今日は安定していたという。

2005 02/6日 珍しく不機嫌 


昨日に引き続いて見舞いに行くと、とても不機嫌で、当惑した。大磯病院に居る時のような聞き分けのない情緒不安定さで、あった。

2005 01/30日 独りでオシッコ  


仙波夫妻が骨休めにシェラトン小田原に行く途中に父の見舞いに寄った。歩いたりおしゃべりをして二人が帰った後父は廊下を歩いているとき「トイレ」というのでトイレの小便器まで歩き、オムツをはずしたり介助しながら立ちション、男の尊厳を回復したような気分だろうと妻と二人で了解した。不思議な感動を覚えた。

2005 01/29日 元気にあるく?  


母が昨日見舞っているとき、歩かせようとしてか二人で倒れたらしい。激しくではなく崩れるようにだったようで怪我などはなかったようだ、そんな時は歩くときためらいと緊張で動作がぎこちないが今日は、ちょっとそんなそぶりもあったが意欲的であった。看護師さんが特に距離が伸びているわけではないが「動きが良くなりましたね、回復するんですね!」と驚きをつたえてくれた。私も「そう思います。皆さんのおかげです。」と話す。 動作が滑らかになっていて廊下のてすりにつかまってからだの向きを変えるなど今までと1段階動きのレベルが進歩した。赤ん坊のハイハイからつたい歩きのレベルのような感じかな。この日は会話も内容の理解は不解だが言葉は明瞭であった。

2005 01/24日 食事に慣れてきたようだ!  


昨日は結婚式に出かける前に、前日誰も見舞いに行けなかったので、9:30に見舞う、大声で看護師を呼ぶ父であった。何か何時も不安なことが気になり呼ぶようだ、私に会って手を握り「良かった・・・・・・」というが何がよかったのかは定かではない。今日は通勤途中の架線事故で家に戻り車通勤、帰宅途中に妻と連絡して病院へ、食事の介助をしたが大きなスプーンの使い方が熟練してきたのと、おかずを固めのお粥に載せて食べる様が慣れてきたように思う。食事後20mの歩行を抱えるようにして、ベッドに寝かせて戻る。平塚の小泉のことを話すのだが何のことかは定かではない。

2005 01/19日 笑った!  


父は83歳の誕生日、3姉妹が見舞いに行き、話をしているうちで、笑ったそうだ。病に倒れて笑いのない顔を毎回見て、別人のような父を悲しく見ていたので信じられない光景であるが笑いが戻るのは素晴らしい。人は立って歩き、笑う動物と言える。

2005 01/18日 落ち着いた様子  


夕方の6時に秦野駅についたら携帯電話が鳴る。「これから病院へ」というので、「俺も行く」と答えて、拾ってもらい病院へつくと食事を終わるところ、介護士の方たちもいそがしそうでしばらくホールで様子をみる。介護士の方が我々に気付き中へ入れてくれたが、父は静かに語りかけるがなんとも理解不能、ホールを10m歩かせると、眠くなり、個室のベッドへねかせて帰る。明日は83歳の誕生日である。

2005 01/15日 元気な声で  


仕事が始まった。帰りがけに行けなくなったので妻が行って歩かせようとしても怖がって歩行訓練をしないというので焦がれて病院に行くと大きな声で「看護師さん」と呼んでいた。ベットに横になってはいても血色もよく元気である。歩行の動作も今日は久しぶりなので軽い足取りであった。この調子で毎日出来ればかなり回復すると思う。平衡感覚が落ちていないので出来ると思う。

2005 01/13日 元気な声で  


回復した父の見舞いは仕事の始まった私はいけないので妻と母が交互に行くようになった。今日は母が行ったが、大声で叫んでいたそうだが何を要求していたのか定かではない。歩行訓練も看護師さんたちがやってくれたそうです。ベッドから車椅子への移動が出来るだけでも介護は楽になるので続けて欲しいものだ。

2005 01/09日 父回復  


午後4時頃行く、血色も良くなり安心したが、昨日から「つなぎのパジャマを切りたいからハサミを持って来い」と不可解な会話、状況の認知は帰宅時より下がっているのか、肺炎の治療で意識レベルが下がっているのか、横に付いてナースセンターを1周してホールに連れて行くと静かにテレビを見るのでそっと帰る。

2005 01/08日 父回復  


昨日は幸昇と母で病院へ、1昨日は点滴をしながらホールに居たが、昨日は点滴無しの状態であったようだ。回復してよかった。

2005 01/04日 父ダウン  


13:30 頃 病院の新井先生から電話があり、朝から元気がないので血液中の酸素濃度を調べると非常に低く標準の60%ぐらいで、痰の吸引をしかなりの量を取り出したら値がが回復した。肺炎の可能性があるので点滴をしていると言う知らせを受けた。家ではそんな様子はなかったが、本人が病院に戻りたいと訴えるので帰したと伝え、昨日の様子も知らせた。朝方心臓を気にしていた事も話して置いたが、概して本人がつたい歩きや声を出すなど頑張っていた事、非常にコミュニケーションが取れたことも話した。4時ごろ病院に行き再び先生と話して帰る。本人は安静にしていたが、意識はあり顔色も回復していたようだ。昼頃はチアノーゼがひどかったようだ。

2005 01/03日 父帰る  


正月を生家で過ごした父は、ダイニングのテーブルをつたい歩きしたり、精力的に動こうとしていたし。電話や人との対応も整合性のある会話が出来てきた。僅か3日ではあるが本来の思考回路がすこしづつ戻っているように思える。今日3日になると母が大変そうに見えるのと、店を明けないのが気にかかるらしく、また朝方心臓の具合が芳しくないと訴え、「病院に戻ると」自分からいう。本人が狭い家より病院のほうが歩く練習も、糖尿のケアーも、心配しなくてすむように思うらしくとても認知症とは思えない。在宅でもいけそうだが大声や、本人が病院がいいと思う点ではもうしばらく様子を見るようだ。

2004 12/31日 父帰宅  


13:15’に病院に迎えに行き、連れ帰る。みぞれの中店の前に車を止められず車椅子に乗り換えて中栄信用金庫の前から店へ、階段を手助けしながら自力で2階え、戻るなり我がままナ雰囲気、自分のうちに帰った安堵間だろう。それからソファーをつたって向かいに移動するなり、意欲的に活動しようとする姿勢は、自分を戻そうと言う意欲が感じられる。後は母が絶えられるかだ。本人のためには自宅介護がいいように強く感じる。

2004 12/30日


幸枝と16:00頃ホールに着くと、いくらか正月を家に引き取られたのか、人数がまばらなホールでテレビを見ている父、介護師は「今ホールにつれてきた」言っていたので寝起きのような面持ち、いつもより静かである。幸枝が声をかけて「わかるおじいちゃん、幸枝だよ」と言うと「ああ」と応答、喜怒哀楽がはっきりしないが、幸枝とわかるようだ、「明日は大晦日で、家に帰るよ」と言うと、正月が来る意味を認識した反応を表情から読み取れた。「だから車椅子からベッドへの移動の練習をしないと」と言うと練習に応じ、廊下の歩行でも手にかかる負担を極力少なく、ゆっくりと自然な動きに近い状態で歩いた。家でどんな反応になるか、怖いような、楽しみなような不思議な状態。強13:30’に帰宅予定です。

2004 12/29日


15:45’頃に見舞う、看護婦につねられたとか、引っかかれたとか妻に訴えているが定かではない、悲観的に考える気質からか、お金が人を動かすという人生訓か、いくらか「心づけをやって」自分を良くしてもらおうと思う気持ちがあり、いつもお金をあの人に1万円、あの人に5000円という会話がこのところ主とする会話で、「じゃあ明日持ってくるよ」、「銀行に行くから帰るよ」と言って最後は別れる。今日は虐待的な会話で始まり、「じゃあ、銀行に行くね」で帰った。歩く練習はかなり意欲的でベッドからの車椅子への移動、廊下のナースセンター周辺1周程度、廊下の手すり10mの往復、この伝い歩きの手と足の協応動作が右手でつかまるのと左手でつかまるのに差があり、左手が難しい。左手つかまり立ちで歩けると単独歩行も可能性あり、出来たら階段のぼりが練習出来るといい。モモを上げる動作が今後必要になると思う。

2004 12/28日


今日は大声をだすのがおおかったという。我々がいきたときはテレビを見ていたが、しばらくして歩くように促して、少し歩いたが、その前の日より距離と歩幅は小さかった。しかし、つたい歩きで横向きの単独3mは初めてであった。

2004 12/25日


父はこのところ意欲的に歩こうとします。だいぶ廊下で両側から介助がついても負担が軽くなっていますし、廊下の手すりの伝い歩きも何とか一人で立とうとしています。でもまだ無理ですが、、、

2004 12/23日


久しぶりに病院に行くと、父はかなり脚に力がついて来て歩くことに意欲的になったようだ。両サイドに補助がついてのことだが大体両手の力は抜け、麻痺の残る左足もだいぶスムースになって軽やかに足が進むようになってきた。車椅子えの乗換えがスムースにいったり、手すりのつたい歩きが出来るようなら自力歩行も夢ではないと思う。

2004 12/12日


昨日は大変意欲的に歩いた。母と娘と3人で介助しながら歩いたが、介護師の方が心配するぐらいである。車椅子からベッドへの乗換えと、廊下のつたい歩きが出来ればと思う。

2004 12/09日


美枝子、裕子さん達と一緒に見舞いに行くと、新井ドクター(女医)から治療の目標を何処に置くかの確認をされた。すなわち、@在宅介護を目標にするのか、他病院か?A睡眠剤の量を増やす事で、感情を抑えるか?@は今は夜大声をだすなどは老健施設は受け止めない。薬でおとなしくさせれば、体内に蓄積し、余病を併発する、などの問題を確認した。入院費の負担が一番ネックだが今の父の状態は大磯病院より良い状態なのですぐに転院は考えない、糖尿の薬も飲まないで、歩行距離も伸びている現状を容認したい。と確認した。

2004 12/05日


富枝と病院へ、夕方は年末ジャンボ宝くじの店番をするのでいつもは食事の介助を兼ねるが今日は3時半に行く。ホールに入ると部屋にいたらしく、車椅子でホールに連れてこられた。昼寝していたのか取り留めの無い話をしていたがお金が何処かに置いてあると思うのかゴミ箱やカバンを探させろと、だんだん意識も目覚めてきたのか廊下を歩くというので、二人で脇をかかえて個室まで、今まで何度か歩くのを支えたがまるで手を離せばそのまま立って歩くかと思えるような足取りの軽さで歩いたので感激であった。大磯病院では糖尿の悪化を恐れ糖尿の薬を強くしていて筋力的に回復が遅れていたが車椅子で脚を踏ん張るのが脚の筋力の回復につながっていると思う。また、看護士の人たちが歩行訓練をしてくれているのが効果をあげている。

2004 11/27日


ちょうど発病してから5ヶ月経った父、自分が何処に居るか、自分が入院している訳も解っているようであるが、夕食前に何度か食事介助に行き、ホールに入る前に物陰から本人の様子をうかがうと「おーい」と大声を出して呼んでいる。腹が減って、待ちきれなくて急かしているらしいのだが、周囲の雰囲気や自分の感情を理解して抑えられないようだ。この点がどうしてもグループホームや老人福祉施設の入所の壁になるらしい。在宅介護でもネックになるであろう。家は店をしている以上より厳しい。顔色はよく病状は安定していて 糖尿の薬を飲むと血糖値が下がりすぎるので、大磯病院に処方を変えるように要請していると看護婦さんからの話である。今日はつなぎのパジャマにして夜オムツをはがさないように手袋をしていたが手袋を嫌がる父は今夜から手袋から解放される。

2004 11/23日


3時半にケアーマネージャーが父の様子を確認するという事で、病院へ、今日は「ベッドに休みたい」と言う事で個室のベッドに寝たところえ行き合わせたがとても顔色も良く、応対もしっかりしていて、面会プレートの漢字を読んだり、店の住所をはっきり答えたりで、在宅でも大丈夫そうな感じ、
本人が病院を嫌がリ出したり、財布が厳しいようなら、在宅でしのぎながら負担の軽い病院への転院を待つ事も視野に入れての検討のため、ケアーマネージャーに問い合わせたわけである。

2004 11/19日


1時間年休を取って5時に戻り、富枝と初めて秦野病院の父に会う。看護婦さんから「やはりリムがあるようです」という話をきいてからあう。顔色も良く意識がはっきりしているが時々大きな声で何か訴えるような事を言う。どうも自分を良く面倒見る人にチップをやらなくてはいけないと思うらしくそれを確認したかったりの思いが強く、それが大きな声になるようだ。

2004 11/18日


父は秦野病院に移ってからは比較的落ち着いているそうです。看護婦さんが毎日変わらないのも一因でしょうし、母も妻も落ち着いて向かえる点など想像できますが、難点は入院費になります。

2004 11/11日


大磯病院のワーカー同士で連絡を取ってもらい。転院の話が決まった。月曜日に福祉タクシーで秦野病院に転院する予定。

2004 11/09日


妻が婦人会でバスツアーのため私が病院に行く。比較的落ち着いていた。食事介助をしてきたがいつものように積極的では無かった。家に戻ると店の母から電話で「秦野の病院で個室が空いた。」と連絡があったとのこと。

2004 11/05日


文化祭の代休の日に家や他の病院で家族が出来る父えのリハビリの講習を受けに15:30に、私から見れば大体予想した内容であり。何処の病院でも1日にあれぐらいのないようであれば介助員がやれる気もするが、この2,3日は父は安定しているようだが、何か不安があるらしく今日はリハビリ中さわいだそうだ。

2004 10/25日 協議


16:30’からの打ち合わせで、合意した点。@下曽我病院が空くまで大磯病院で面倒見てくれる。(1月ぐらい?)A秦野市内がそれまでに、及びその後空けば転院する。(秦野・丹沢病院)B本人の病状は重い(夜騒ぐ、大声を出す、周囲への配慮の欠如、排便・食事介助など)方でグループホームや老人福祉施設等の対応は現段階では困難ということである。

2004 10/22日 帰宅願望


25日に医師とワーカーと三者で協議をするそうだが、歩行訓練に意欲的になってきたそうで、妻に帰りたいような言動が目立つような様子である。6人部屋にいるが健常に近い病室に移り、夜騒ぐなど疎まれるようになっているので何となく居ずらさを感じているのかもしれない。

2004 10/20日 立って歩く 


台風23号接近の中母が病院へ、今日は介助付だが立って歩いた。母が大変喜んで帰宅報告。一進一退を繰り返す父だが体調が良いと意識が黎明するようで歩く意欲が復活かできたら継続したいものだ。

2004 10/18日 血圧が低く


血圧が低く、リハビリをやらなかったそうだ。体の衰弱と平衡して心機能も弱って来たのかは医者でなければわからないのだろうが全体性の視点ではじり貧なのだろうか

2004 10/17日 母が夕方に


病院の停電予定があり、今日は面会時間が17:00からである。店を閉めてバスで母が見舞いに行き、19:00に迎いに行った。元気になり食事を全部食べたとの話。母との会話内容はわからないが母の話では自分の意見を含んでいるようでかなり思考・判断できる。病識があることがすごい事だ。NHKが痴呆の人の誤解を報道していた。

2004 10/15日 昨夜はさわいで


14:30から修学旅行の代休で病院へ向う。途中で携帯で連絡を取ると、美枝子・裕子姉妹が来ているという。昼食を食べていないので院内レストランでたぬきうどんを食べ、ホールに出ると気がついて二人が手を振っているそばに点滴をしている状態の父がいる。 意外な展開で驚いた訳だが、本人は車椅子に眠っている。昨夜寝ないので眠らされてまだ覚めていないと、「せっかく来たのに話せないのでつまらない」と結局4時半頃富枝を残し、二人を二宮駅に送った。娘は偉大だ東京から足を運ぶのだから。ありがとう
退院後のことは進行中だが秦野病院が受け止めそうだが何時とはめどがまだたたない。大磯病院はもう1月は置いてくれそうだが

2004 10/11日 明幸夫婦と


明幸夫婦と母で今日は見舞い、明幸達は母を病院に残し先に奈良まで帰る前提で出かけた。後で母を迎えに幸昇が行く事とした。明幸の話では良く会話が出来たようだ。私が良く酒を飲むので心配だと明幸に言ったというのである。また自分の状態を明幸に言えるようである。明幸も納得して帰ったと思う。これから市議に相談に行く。

2004 10/10日 仙波夫婦と


二人でいきたら、仙波夫妻が先に見舞ってくれていた。相変わらずではあるが治茂さんに気遣うような会話をするようだ、良く聞き取れないので推測ではあるが、お互いに辛いところがある。

2004 10/07日 コネクション対応?


病院の嫌がらせは思い違いで、夕方の5時頃は看護士さん達の交代で雰囲気が違うという事のようである。父の受け入れ先を急がねばということで隣の叔母に甥(市役所の企画室関係の仕事柄顔が広いので)に秦野の病院に早く入れるように口を利いてもらう話をしたら、息子の祐友の友達の小松君が介護福祉課の課長をしているというので話を進める予定が、課長は出張で係りの久保田さんと話をする予定になった。この話を叔母から聞いたわけだが、叔母は近くの市会議員に家の話をしたら議員さんが部長に電話を してくれて、急きょ丹沢病院の田村さん・実力者?と大磯病院のワーカーと話をしていただくような話となる。午後から病院に行って帰りがけにワーカーの横山さんから丹沢のワーカー(田村)さんとの話で、 結局は市議が動いても順番は変えられないのでそれまでの受け入れ先として曽我病院か富士見台病院にあたって見る話で帰る。議員には家の経緯を説明しておかなければと妻と話す。

2004 10/06日 嫌がらせか


修学旅行から帰り妻から聞いた話「美枝子さん・裕子さんが言うんだけどなんか看護士さんたちがよそよそしくなったように感じると」、長い居をさせたくないと暗黙のオーラで伝わるのか不思議だ、父は相変わらずだがリハビリで歩行しているらしいと、したがって障害者認定も低くなるのではとのこと、いずれにしても受け入れ先の手配を急がねばならないのだがどうしたものか?

2004 10/01日 今日の父


病院から帰り、夕方店から帰った妻が病院のワーカーから退院を促す話が合った。「受け入れ先の空き待ち状態を考慮する話はどうなったのか」と話すと「主治医の判断なので話してみる」との話である。いよいよ問題の顕在化の局面に入ってきた。

2004 10/01日 今日の父


今週はまだ顔を見ていないのと明日から沖縄に行くので午後の代休分の時間で病院に寄る。台風一過でとても天気が良いので玄関の外まで出てみた。看護士さんから「今日はとても話がわかる」と聞いていたのでどんなことを話すか期待した。表情は落ち着き顔色も良い。散髪したらしくさっぱりした表情である。どうも電気のスイッチが利かないという物語のようで明日直してといっているようだが本当のところ良くわからない。食事の話題になったとき便の訴えがあり看護士さんに処置してもらいその後15分ぐらい付き合い4時に戻る。

2004 09/24日 今日の父


昨日は裕子さんと三人で見舞い、食道でアイスを少しと、サンドウィッチを食べた。今日は二宮で富枝と合流して病院へ、今日はちょうど食事タイムに着いて食事介助をして帰ってきたが父は比較的落ち着いていた。表現が難しいが会話にバリエーションが出てきたように思う。北海道旅行の事を記憶しているのか話題にしてお金の心配をしている。食事も自分で取りやすいように配置を変えて食べている。元のようにならないにしても人間としてのコミュニケーションンが取れている。

2004 09/18日 今日の父


今日は東海大大磯病院退院後の病院の手続きに富枝が1時に出かけ1時間で帰る予定が4時に、予定では2時に帰り別の見舞いに東海大学伊勢原病院に行こうと思っていたら4時に、明幸が出張で東京に来ていて今夜秦野に寄るというので小田原に干物を買いに行き返りに大磯病院に寄る。6時半に到着。このところ落ち着いている父だ。食事を自分で大体食べるらしい。会話の中で自分が頭が上手く回らない事を自覚している。お金の会話しかしていないのは自覚は無いが、おしゃべりが頭の回転を維持回復につながっていると思う。黙ってしまったら本当に父は廃人だ。身内や知人の記憶を基に自分で物語を作っている金のことを柱にして。医学的に回復不能に見えてもまだ期待が持てる部分があるように思う。できるだけ大磯病院に居たいものだ。

2004 09/07日 父の様子について


二期制前期期末試験2日め、1時間早く早退して、二の宮で妻に拾ってもらい病院に、ナースセンターには美枝子・裕子さんも3時から来ていたらしい。佳子ちゃんもきていて行き違いで帰ったあと。 主治医の篠田先生と病状の確認とこれからの事を相談するため妹にも同席してもらったのである。「年齢と脳出血を起こした人の経過を見ると再出血の場合が多い。 糖尿による動脈硬化症を背景に考えると出血も心筋梗塞も考えられる。」とのこと。こちら「転院先で病気が出たらどういうところが受け止めてくれますか、出来たら今までの経緯から東海大で治療を受けたいが?」 「地域医療の核の病院、秦野では日赤・三次医療は伊勢原東海大です。転院先病院での患者の様態や状況でのはんだんです」。」 こんなやり取りをした。今日の父の様子はとても穏やかで良く会話ができた。まるで自分の病状を理解していて「家に帰りたい」とも言わないで、妹に「感謝してるよ」と涙を見せる状態。本当に痴呆症状なのかと疑いたくなるが今日が比較的いい状態であって、 「病状は高齢と糖尿病などの病状を背景に考えるとよくなる見通しはない。薬は痴呆とアルツハイマー(人格の統一性崩壊)を予防する薬を投与しているが」 「転院先は100点満点はありません、程ほどで考えれば」ということである。

2004 08/27日、施設見学&今日の父


夏休み最後の日を午前は出勤して、午後から丹沢病院、秦野厚生病院に大磯病院退院後の受け入れについての打診と施設の見学をして大磯病院に、妹の裕子さんが2時間付き合ってくれていた。3人でお茶のあと父に食事をさせた。裕子さんが主に食べさせたがいつもよりとても穏やかに良く食べた。看護士に「今までで一番いい雰囲気で食事を出来た」と話して二ノ宮で3人で夕食を食べて裕子さんと別れる。裕子さんご苦労さんでした。9時半頃には着くかな?

2004 08/22日、今日の父&小峰神社納涼祭り


昨日は帰宅したのが店ではなくて曽屋の我々の家で到着時は興奮気味であったが、昨夜は良く眠ったようだ。オムツの取替えなど大変な事はあるが詳細は控える。朝食はお粥、鮭のフレーク、ナスのお汁を喜んでよく食べていた。明日は病院へ帰すが母と娘のウオーミングアップである事は間違いなさそう。
小峰神社祭りを兼ねての納涼大会が夕方から、昨日の夕方と午前中は御輿準備と軽トラに載せて行幸

2004 08/21日、父は今日外泊で帰宅


13:30'に病院に行き父を連れ戻る。店に連れて行かないでウチにつれてくる。本人は何処かの人と待ち合わせていて人を待たせたらと心配しているような、お金を払わねばならないと思っているて心配で気がかりな気持ちをしゃべりっぱなしである。疲れる介護の出発だ!

2004 08/13日、父の様子


午前中は仕事に行き、帰りに明幸夫婦と病院で待ち合わせ、1時前に着くと昼食をあまり食べてなくて看護士が薬を溶かせて食べさせようとしていた。昨日血圧が下がった関係かリンゲルの点滴をしていた。昨日より表情は元気があり、明幸達の顔を見て感激の涙をリハビリのとき見せて、PTの人も初めてだと驚いていた。意識レベルが1番高い状態である。会話になっているのだ。

2004 08/12日、父の様子


美枝子さんと久治くんが墓参りに寄ったのでその足で病院へ、行くと俶子さんが来ていて「リハビリ中に血圧が下がったという事でベットにいて、今看護士が下の世話をしているから病室に入れないので待合室にいたところ」ということでしばらくして病室に行く。久君のことがわかり穏やかに話せた。食事は美味しいかという問には笑いながら「まずいと」言う。帰りがけに「気を着けて」という。意識レベルは今まで1番か2番ではないか、一昨日の商工会議所の面々の時に準ずるのではないかとおもう。明日の明幸と華代さん達の対面が楽しみだ。

お盆の入り

2004 08/08日、父の様子


遅くなってしまったが、火曜日は今後の相談を病院のワーカーと行う。在宅で介護するか、老人福祉施設・特養・老人病院等、対応を考えておかないと入所入院が大変という事だ。今の状態では急性期医療の状態は脱したので、3ヶ月過ぎたら退院ということのようだ。

2004 07/30日、父の様子


今日は夏期休暇で朝から家にいた。サマージャンボの最終日なので富枝の代わりに見舞いに行こうと思っていた。2時ごろ美枝子さんが病院に来ていて連絡をくれた。3時過ぎに病院で合う。父は美枝子さんとわかる会話をしていたようで、顔も今まで1番精気のある表情で、受け答えがリアリティーが合った。5時近くなったので二ノ宮駅まで送って帰ってきた。

2004 07/26日、父の様子


昼間は幸昇が母を送って見舞ったようだ、仕事帰りに寄ったら意識は混乱しているようで聞き分けがない。しきりにパジャマの下から財布を出すしぐさ、財布からお金を出して何か訴えたいらしい。看護士に許可を得て1階ロビーまで散歩したりして6時からの夕飯と格闘、気持ちが食事に向わなくて薬も飲まない、食べない状態が7時前まで、いろんな言葉のやりとりはあるのだが「たべないと死ぬよ」というとこのフレーズは認識回路に伝わるのか、おかゆを8割かた食べた。看護士の手お焼く状態は本人にはマイナスなのだが理解できないので困った物だ、糖尿の薬の管理にてこずっている。

2004 07/24日、父の様子


お祭りの合間を縫って富枝が見舞う。一進一退は続いているが、自分で小便を訴え、尿瓶で採尿してもらったそうだ。
祭りの境内では見舞いに行っていいのかと知り合いに問われたが「病状も少しづつ回復してきているので、わかるかどうか何ともいえませんが適宜」と言っておいたが富枝は見舞って醜態を見せたくないような気持ちのようだ。

2004 07/23日、父の様子


土・日がお祭りなので見舞いにいけそうもないので2時から見舞う、(富枝はお祭りの時店に品がないのも寂しいと仕入れに朝出かけていた。夕方は組や町内のお祭りの準備もあるので)病院に着いてナースセンターに顔を出すと。父はすぐ気づき「日出夫」と呼んだ。病室に連れ戻り会話をする。「アサの銀行口座の勧銀と浜銀を・・・・」、どうも銀行口座の事が気がかりらしい。「早く帰って、十全に相談しろ」、この内容は、帰って富枝と話すと口座の残高の確認のことなので会話の内容は整合性があるようだ。結局4時前には帰ってきたが。帰りがけにナースセンターに戻す時、「帰るよ」というと納得して目で見送っていた。看護婦さんも「少しつじつまが合ってきている」といっていた。

2004 07/22日、父のこと


父の経過について主治医との話し合いがありました。「脳以外の身体的問題は回復が早いが損傷による認知や判断が混乱していて、まだ医志&看護士との意志の疎通が出来ない状態でリハビリのステップアップが出来ない」状態との現状確認と、「2ヵ月後(退院後)の対処を家庭サイドで考えて置くように」との話であった。

2004 07/21日、今日の父


昨日は美枝子、裕子姉妹が3時頃から見舞ってくれていた。5時過ぎに学校を出て病院に寄ったが先先日よりおとなしく眠そうであったようだ。今日は富枝が4時ごろ見舞ったそうだが元気のいい時の悪いパターンであったようだ。暑いといってパジャマを脱いだり乱暴なおしゃべりが続いたようだ。あすは主治医からの話が母と富枝にあるそうだ。富枝は不安そうである「医者に最後通告されるのでは」と

2004 07/19日、今日の父


海の日で休みであるが、私は朝から頭痛がしている。昨夜エアコンが効きすぎたのかどうもこのところ体調不良だ、午前中は学年通信&クラス通信を印刷に出て午後は見舞いに行くつもりでいた。印刷をして帰りに明幸に電話をしてみた。週末に鳥取の母の処へ行くような場合こちらにも知らせて欲しい旨を伝えるがその明幸も風邪で寝ているとのこと。みんな疲れでダウンということだ。結局見舞いは夕方富枝が行く。
帰ってきての感想は「昨日より悪いかも・・・、私を認識しての会話かどうかわからなかった」と「夜、おとなしく寝かせるために薬で眠らされるので、一進一退なのかな」との見解

2004 07/18日、今日の父


幸枝が昼過ぎに帰っていて夕方富枝と見舞う。昨日より情緒は落ち着き、幸枝の名前を呼んで応じていたような話、昨日より少し前進しているようだ。

2004 07/17日、今日の父


母と17:00頃に見舞う。昨日と同じ状態ながら店の金策の気がかりな部分を母に訴えているが実際は何についてかよくわからない。気持ちは病院にいる状態ではなく早く返せと訴えているように思えるが現実認識が無い状態である。夕飯時で食事を食べさせたがなかなか食べなくて、看護士が糖尿の薬を飲ませているので食べないと血糖値が下がりすぎてしまうと八分目までなんとか食べさせて戻った。しばらくこのような状態が続くのであろう。

2004 07/16日、今日の父


学校を5時15分に出て病院へ向う、電話をすると病院に裕子さんと富枝がいた。裕子さんは2時から見舞ってくれていたそうだ。夕飯時についたので食事が部屋に運ばれていて看護士が食べさせるところを富枝が食べさせたが食事より金のことが気になるらしく気をそらせながらの食事であった。今まで出一番意識がはっきりしていて言葉もはっきりしてきた。そうなると整合性のある会話を期待するが残念ながら今は取り留めの無い言葉の羅列になっている。今のままだと痴呆老人であるがこれからどれだけ戻るかであろう。

、寝る前や起きた時が酷く痒い、父の病院に寄る関係で思い切って受診する間が無かったが、今日は1時間年休を取って戻り、ホームドクターに診て貰ったら、「はしかの兆候・疑いあり、検査ではっきりするまで学校へは行ってはいけない」といわれてしまった。家に戻り妻に話す。見舞いは妻が続け自分はいけない状況になった。学校に6時過ぎに戻り、密かに課題や今後の対応を同僚にお願いして戻った次第。大秦野高校時代に風疹で1週間出校停止というのがあったが、「はしかはめずらしい、学会に報告しよう」とドクターは言っていた。今日の父の見舞いは妹・美枝子と隣の伯母親子が行った、経過は良いようで悪い場面しか見られなかった妹も喜んでいたようだ。富枝は母と宝くじの販売で今日は病院は行っていない。

2004 07/11日の父の様子


明幸夫婦が帰る前に見舞う。今日は車椅子にまた手袋をされていたが、意識は少しずつ戻っているようだった。聞き取れない部分が8割であるが、帰りがけに、旅行の話をしていて、ある受け答えに、即座に「俺は嫌だよ、金が無いから」と言って笑ったのである。これには一同驚きと喜びにひたれたのである。

2004 07/10日の父の様子


結納は滞りなく済み、我々夫婦が結婚式をした陣屋で会食、その後父を見舞う。昨日より意識と言葉がはっきりしていて、意思の疎通が出来た。幸枝が「結納した」というと微笑んだ。入院して初めての微笑であり、眼にはっきりと精機がよみがえってきたようだ。覚醒と眠りを交互に繰り返しながら、神経ネットワークが再構築されるのかなと思わせる感じでもある。

2004 07/09日の様子


出張の帰りに寄った。昨日より顔色もよく、眼を開けてうわごと的にしゃべったり、寝入ったりを繰り返していた。若い執刀医が、薬が合って熱も下がり、良かった。糖尿の薬のバランスが崩れていて、調整が難しいと話して出て行く。昨日看護士に話したことを受けてしゃべったなのかわからないが、彼も嬉しかったのかも知れない。明幸にメールで写真を送ったが携帯の写真はちょっと見にくい。

2004 07/08日の様子


夕方の5時半頃、富枝から電話、美枝子さんも一緒であり、これから帰るが、父は軽い肺炎を起こし熱があり、検査をして部屋に、戻ったと連絡を受ける。3年の成績、借り評価を出す仕事の手伝いの途中だが、病院に寄る。
富枝は帰ったあとで、病室で寝ている父は痰が絡んでいるらしくゼイゼイ呼吸をしながら、寝ている。耐性菌のことが気になるので、看護士に「先生とお話できますか」と取り次いでもらったが、「窓口を1ッポンにして欲しい、さっき奥さんに話した。」という事で断られる(看護士と先生が話すのを見ている)、病室に戻ると、今夜の看護士が痰を吸引しに来て、会話をする。「病状が悪化したりしたら連絡します。」というがそうではなくて、「素人でも、耐性菌の心配や、合併症が心配なのだからそれなりに応じて欲しい、窓口の1本化の気持ちはわかるが」と話す。「悪化しないようにするのが望みですよ」と言って帰宅した。

2004 07/07日の様子


昨日は経管栄養を止め食事にしていたが、薬も飲まず、食事も自発的に食べないのと血糖値も300にあがったという事で径菅に戻り、夕方5時にいきたときは熾しても車椅子の上でひたすら寝ようとする状態であった。主治医のリハビリ通告書というか「小泉内閣になってからこのような書面を取り交わす事になった」インフォームドコンセプトの一環と思われる書面にサインして控えを貰う。PTやOTと今後のリハビリの方法を聞くのかと思っていたが主治医の単に説明であった。一進一退でどれくらいよくなるのか母・富枝は昨日を見てないので不安のようだ。

2004 07/06日の様子


午前に幸昇が洗濯物を届ける。(富枝が仕入れのため)、美枝子・裕子も見舞ったそうだ。6時に帰り、病院に寄る。ナースセンターにいたが、夕食の流動食をこぼして前が汚れている。部屋に戻り顔を合わせる相変わらず自分のペースで言葉にならない声でしゃべっている。指を使えないように手袋のような保護具がいやらしく、取ろうとしたり、はさみを呉れといっている。看護士さんが薬を飲ませようとしていたが嫌がっていた。篠田先生が通りかかり、「ナースセンターで車椅子から落ち、右腕や頭を打ったので、検査をしたが問題なかった、申し訳なかった。」といわれた。早いリハビリはこのようなリスクをしょっているのだろうと思った。その後30分ぐらい車椅子で病棟を回ったりして8時に戻る。
戻ると明幸から電話が入って様子をはなした。

2004 07/05日の様子


午後、富枝が行くと、CTスキャンなどの検査で不在であったようだ検査後は検査のために眠らせた余波でまだ寝入っていたそうだ。今日は点滴も取れ、食事を食道で食べさせる予定がおとなしくないので個室に戻されたたそうで、検査結果は特に進行無しということのようだ。

2004 07/05 昨日の様子


3時から、母と、幸枝、幸昇4人で見舞う。ナースセンターで車椅子に座っていた。部屋に連れ戻り、会話する。意識の混濁は続いているが、「暑い」「アイス」など自分を主張する時の目が本来の目に戻ってきてしっかりしてきた。いろんな言葉のフレーズが出ている。「暑いよグッチヨグチョ」という表現は運動言語としては問題ないと思う。感覚言語として人の会話を理解しているかだが、理解しているようだが詳しい事はわからない。ただ身内と、看護士さんの区別はしているし、対応も切り替えている。我々の会話の途中に、看護士さんが語りかけると態度を変えるからだ。この1週間でどれぐらい回復するか・・・・

2004 07/03 遅いニュース


6月24日9時ごろ父が頭が痛いというので、東海大学伊勢原病院に連れて行き、CTスキャンで診断、出血が60ccあるが年齢と、バイパス手術を昨年している経緯から保存的治療とCTスキャンをしながら出血部位をピンポイントで吸引する手術が可能な大磯病院に移送され、土曜日・日曜日経過をみる。この日息子明幸夫婦も夜中に秦野に来ていて土日は見舞った。月曜日の検査で現状ではよい経過を辿らないという判断から手術を決めた。(母・娘3人立会いのもと)、夜7時半から10時半まで、11時に主治医の説明を受けた。手術前にも混乱はしているが、意識もあり、左手だけあまりうごかない状態であったが、術後の経過で、昨日から、車椅子に座らせ、刺激を与えるリハビリが始まっているが、側頭部の出血で、感情の起伏が激しく、運動機能の損傷が少ないようで動き回るので、点滴の管が外れないように手を縛られている。今週の水曜日はリハビリの説明を受ける事になっている。 この1週間、娘の仙波美枝子さん、とその家族、林裕子さんとその家族、姉妹にしか父のことは伝えていない。叔父が中元のお礼に電話をしたがいつもと違うという事で、察知したようで、電話で母がしらせた。が、まだ隣の伯母には知らせていない。もう少し様態が安定し、本人も意識や記憶が安定してからのほうが良いと思うからである。商店会や、祭りの氏子総代の関係も現段階では見舞いを断っている。明幸・華代夫婦も来週見舞うような電話をくれるが、8月のお盆でいいと伝えた。この1週間で鳥取の晋也さんは町村会が解散、しばらくは気高町の職員で11月から鳥取市の職員にリストラクションされるそうです。町村合併により新しい機構に再編されるわけです。退職慰労金が出たそうですが本当の退職金は鳥取市に移行されるのでしょう。林の恒生さんは今週はメキシコに出張だそうです。

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